3章 絶たれた繋がり3
寝台に転がると汗と埃の匂いがした。
そういえばしばらく洗濯していないな。
昨晩、死にかける目に遭っておきながら、自宅に帰って最初に考えるのが家事のこととは我ながらどうかしている。
いや、むしろ突飛な状況から逃げ出せたからこそ、いつもの日常に意識が向くのかもしれない。
窓から差す暖かな日差しは目元を照らすが、それでも眠気が勝る。傷は痛むがそれ以上に眠気と疲労が大きい。今までなら気にもせず眠っていたが、もうしばらくすれば師匠がやってくるだろう。
あの後、太陽が昇り、街が起き始めてからククナはアルカンの元を出た。
帰りがけに警吏たちの詰所に寄って、首刈り魔と思しき魔術師に殺されかけたことを届け出たが警吏は親身さの欠片もない態度で聴取し、ククナを引き摺るように連れだって現場確認をした。
確認中も再三に渡って不用心過ぎると冷たく忠告。そこまでは納得できたが最終的には襲われる隙を見せたおまえが悪いと詰ってきた。もっと婉曲的な表現ではあったが、だからといって気分のいいものではない。
夜は悪人に身体を痛めつけられ、朝は警吏に心を痛めつけられる。
伝説の魔術師に拾われた幸運と釣り合いをとるような不幸にうんざりしながら家路についた。
深呼吸を一つ。
静かな部屋で寝転んでいると、今はもう昨晩のことが嘘のようだ。肩と頭に負った傷が現実だろと訴えている。酷い現実だが生き延びた。
助かったのはひとえにアルカンのおかげだろう。
改めて礼でもしなければ。
だがしかし、と思い直す。
アルカンも見返りを期待してなどいないだろう。そんな打算で人を助けるような人間ではないし、あわよくばなどと欲を覗かせる浅ましい人間にも思えない。礼は伝えたし、ククナが謝礼として何を持ってこようが固辞するだろう。
アルカンに別れを告げたとき、二つ質問をした。
一つは礼として欲しいものはあるか。返答は「舐めるな」の一喝だった。
もう一つは、
「なんで俺に突っかかってた?」
「そんな簡単なこともわからないのか?」
答えはなく、嫌味に笑うアルカンに弱々しさはもうなかった。
瞳に充溢する光は力強く、子供のためなら何でもするという覚悟が見て取れた。
強い人間だ。と素直にククナは感心する。そして、ほんの僅かに憧れた。
格好いい親というのはアルカンのような人間を言うのだろう。
子供のためなら危険へ飛び込んで、心情に反することでもやってのける。心挫けようともまた立ち上がって、自分に出来ることを探し始める。
アルカンの子供は幸せだ。報われて欲しいと切に願う。
ふいに目元が熱くなりこすった。
幼い頃は親という存在が無条件で自分を守ってくれると信じていた。
アルカンのように、童話のように、寝物語のように。
ククナはそう信じていた。
頭痛がする。
瞬間的によぎる幼い記憶。
──アイツハ
記憶の中、遠くから忘れたはずの声が聞こえた気がした。
金色に輝く幻視が視界を埋めて目元を揉む。
うんざりだ。
ククナは両のこめかみをおさえると傷口が痛み、幻視は消えた。
「あんた頭は大丈夫?」
「侮辱に聞こえるな」
「感受性も怪我したみたいね」
相も変わらず勝手に部屋へ上がり込んだガノは、ククナの包帯を見るなり心配の声をあげた。
いつもどおりの涼しい顔だったが、おそらく心配をしているのだろう。単に昨日と様子の違うククナに疑問をもっただけにも見えるが……。
「それにしても誰にやられたわけ?」
「殺人鬼」
「……」
「新聞紙に載ってた首刈り魔」
「…………」
「いや、本当……」
「………………」
「嘘じゃねえって!」
「何も言ってないでしょ」
自分でも嘘くさく聞こえるが真実なのだからしょうがない。
ガノは白い目でククナを見上げ、
「始めるわよ」
溜息まじりに修行の開始を告げた。
またあの苦しみを味わうことになるのは気が重いが、文句は言ってられない。
さっさと種を飲んで服を脱ぎ、寝台に寝転がって身体中に鍼を刺される。ここまではなんてことない。問題はここからだ。
ガノが手をかざし魔力が注入され始め、皮膚の内側を這い回る不快な感覚が呼び起こされる。背中から始まり全身に巡っていく痒みに表情は徐々に歪む。
だが、宣言したとおり昨日ほど魔力の量が多くないのか初めての時よりは幾分ましだ。それでも耐え難いことに変わりない。皮膚を突き破るほど爪を立てて掻きむしりたい衝動に駆られるのを汗を流しながら抑えこむ。
「し、師匠に家族はいるのか?」
気を紛らわせる為に言葉を絞り出す。黙って不快感に向き合うのは苦痛が過ぎる。話題は適当だった。後追いで理由付けをするのならアルカンとの会話がきっかけなのだろう。
「突然ね。もちろんいるわ。父母と妹、弟の五人家族よ」
当然ではあるのだが、この浮世離れした少女にも家族がいるというのはなんだか意外だ。どこかで自然発生したような不思議な雰囲気がガノにはある。
「家族もあんたみたいに魔術を使うのか?」
「一族は大なり小なり全員魔術を使えるわ。私のことも父が鍛えてくれた」
「親父さんはあんたよりも凄い魔術師なんだな」
「まさか私の足下にも及ばないわよ」
妙なことを、とでも言うようにガノは笑った。嘲りや蔑みではなく、純粋におかしいというようにくすくすと小鳥のような笑みだった。
「鍛えたとは言っても基礎的な指導をしてくれただけよ。私は一族の中でも特別、すぐに父の手に負えない怪物になった」
「親父さんとしては娘がすぐに自分の手から離れるのは複雑なんじゃないか」
「かもね」
大人として、親として、我が子には良いところを見せたいと思うのが人情だろう。それをあっさりと越えられては立つ瀬がない。娘の才能は喜ばしいだろうが、もしククナがその立場なら素直に祝うことができる気がしない。
「それでも父は私の修行によく付き添ったわ。私が瞑想をしてると横に座って一緒になって瞑想したり、開発中の魔術を山の中で試していると偶然を装ってやってきたりね」
「修行に役に立ったのか?」
「いいえ、まったく。むしろ邪魔だったわ」
「辛辣……」
けれど、ガノの声には悲壮感や尖ったものがなかった。父親が成長を喜び、受け入れてくれた証拠なのだろう。言葉は厳しいがどこか楽しげで弾むように聞こえる声は、その思い出が大切なものだと顔を合わせなくてもわかった。
「あんた親父さんのことが大好きなん──いってぇ! おまえ傷口を殴っただろ!」
「気色の悪いことを言うからよ。あと師匠におまえって言うな」
勢いよく鼻をならしているが照れ隠しだろう。師匠にもかわいいところがあるんだなと口の端を曲げる。
ガノは「まったく、馬鹿弟子め……」と小さく呟き、
「私にとって父は尊敬し母を慕い、弟妹を守るのはごく当たり前のことよ。そう教えられたからではなくて私がそうしたいと思える家族だったからそうしてる」
と言い訳のように注釈した。
妙に早口めいていて、核心を突かれたことを必死に取り繕っているようで微笑ましい。
「いい家族だったんだな」
追加の一発をもらいたくないので今度は言葉を選んだ。
皮肉ではなく理想の家族だと思う。
羨ましいとさえ感じた。
「あんたは違うの?」
何気ない疑問なのだろうが、思わぬ反撃に言葉が詰まった。
心臓が跳ねて背中の鍼が揺れる。
いつの間にか消えていた不快感が忘れられていたことを恨むように全身を包み、身体が震えた。
「お、俺は──俺も家族は好きだったよ」
「そう……」
何かを察したように黙る師に感謝し、ククナは夕暮れになるまで脂汗を流し続けた。