2章 王都の処刑人6
大きく息を吐き出す。
すると狂ったように跳ねる心臓も僅かに落ち着きを取り戻した。
まずは現状を分析。
夜闇の中、援護もなく姿のない魔術師からの襲撃。
裂けた側頭部から流れ落ちる血で頬は赤黒く化粧されているが、まだ動けなくなるような出血量じゃない。目が塞がれていないのはせめてもの救いだ。
相手は距離をとって斬撃を放つ魔術の使い手だ。
透明になるような隠形の魔術で姿を隠し斬りかかっていることも考えられるが、踏み込みや衣擦れの音、息づかいなどの気配が一切しない。なにより武器による直接攻撃だとするなら狙いが荒すぎる。姿が見えないことと併せると中長距離から魔術による狙撃で間違いないだろう。
戦いようのない相手だ。探し出して討つことも現実的ではない。やれることは逃避の一択。
ただ一つだけ有利な点は魔術の狙いがそれほど正確ではないことだ。
三度も放った魔術は一度こめかみを掠めただけ。それも足を止めた状態の的を相手にしての結果だ。
ならば、逃げられる。
十分な可能性があると確信しククナは駆けだした。
それと真横に立つ魔灯が刻まれる異音が鳴り響くのは同時だった。
「……っし!」
紙一重。数瞬、走り出すのが遅ければ身体を寸断されていた。叩き出した恐怖心が追いすがり、背に冷や汗が伝う。けれど迷いなく踏み出す足はククナを一瞬で矢のように加速させた。
追ってくるか?
全力で逃げの姿勢を見せる獲物を相手に首刈り魔はどこまで執着する?
ここで諦め、獲物を変えてくれるのが最高だ。
そんな希望もむなしく、疾走し始めたククナのすぐ近くで壁面に一文字の斬撃が刻まれる。
そうか。と心の中で呟く。
「追いかけっこが希望か」
後ろには狩人。兎である自分はどこに逃げるべきか自問する。魔術師がどこに潜んでいるかはわからない。だから出来るだけ無軌道に走り、細かく右折と左折を繰り返すのが理想だろう。
ただ生憎と駆けていく街並みは市民街。中でもたくさんの集合住宅が並んでいる通りだ。脇道は数あれど、どれも人一人がやっと通れる狭さ。もし背後を取られた場合には躱しようがなくなる。建物に逃げ込む選択肢もあるが最悪の場合、他の人間も大勢犠牲になってしまう。
もっと卑劣になれたら採れる策はあるだろうに、こんな時でさえ他人の命を考える中途半端な善性が煩わしい。
歯がゆさに奥歯を食いしばりながら通りを駆け抜ける。
仕方ない。このまま逃げ切ってやるさ……。
更に足に力を込め、地面を踏み抜く勢いでククナは駆けた。
広い道幅を大きく使い、時には蛇行し時には直角に跳ねて狙いを定めさせない。
結果、魔術は外れ、整えられた王都の街並みを破壊するにとどまっている。
しかし、どれだけ走ろうと一向に魔術が止む気配がなかった。
引き離せない。
ククナの身体能力はたしかに驚異的だった。そこらの成人男性に倍する能力があるといっても過言ではない。仮にそこらの男を捕まえて同時に走り出せばその差は開き続けるだろう。
ただ、誤算なのは回避に割く無駄な移動は純粋な直線移動よりも遅いというごく単純なことだった。どれだけ懸命に走ろうとも余計な動きがある分、こちらへまっすぐに駆けてくる追跡者には余裕が出来る。
まずいな。ククナは唾を飲み込もうとしたが、引っかかるように素直に胃に落ちていかない。
呼吸が荒くなってきた。全力疾走に肺も悲鳴を上げ始めている。激しい動きに出血が増えているのか意識も揺らぐ。
しっかりしろよ。自分自身に渇を入れるが、いずれ足は止まる。
それまでに首刈り魔が狙えない距離まで離さなければククナの首は落ちてしまう。
「諦めろよ、くそ!」
しつこく飛ぶ斬撃に荒らされていく通りを置き去りに、悪態を吐く。同時に脇に設置されたごみ箱が切りつけられて内臓のようにごみを溢れさせた。
引きつる足に締められるように痛む臓腑。もう限界は近い。だが、追跡者の猛攻は止むことなく続いている。
どうすればいい。他人を巻き込んででも生き残るか。誰かの住居にでも飛び込めば状況はましになる。自分以外を囮にして犠牲を強いることになるが生存の可能性は飛躍的に上がる。
駄目だ。
そんなことは駄目だ。
──あいつらみたいなことはしてたまるか。
迷いを振り払い全力で石畳を踏み、夜を駆け抜ける。
だが、それでも限界はすぐ側でククナに寄り添い、遂には肩に手をかけた。その瞬間にぷつり、と身体の中で何かが切れる音がククナには聞こえた。
それは身体そのものの防御本能だったのだろう。怪我を負った身体の酷使で自壊せぬようにと下した脳の指令。動力を殺して強引に身体を休ませる緊急措置。
しかし、今のククナにとっては皮肉すぎる温情だ。
止まれば死ぬ。重々理解しているにもかかわらず失速する。無慈悲にも足の回転が遅くなる。
どれだけ走っただろうか。どんな人間だろうと全力疾走を続けられる時間は長くない。きっと距離にすれば大したこともないのだろうが、ククナの身体はすでに一晩を駆けたように力が入らなくなっていた。
死の烈風は未だ通りに吹き抜け、爪痕を刻んでいる。
逃げ切れていない。まだ首刈り魔は諦めていない。
走らないと。
思いに反して身体は沼地へ沈むように動きを鈍くし、
「やば……!」
左肩に熱い感触。
視界の端で弾ける赤い何か。
衝撃で足がもつれ、身体がねじれる。
おまえ終わったな。
心の片隅で誰かが呟いた。
ようやく上向きになり始めた人生がここで終わるとは。
「 」
何かが口から漏れた。
それはまるで意図しない言葉。
しかし、本能的に悟った死の間際、自分がどんな言葉を吐いたかをククナ自身が聞き取ることはなかった。
後頭部を地面に強かに打ち付け視界が明滅する。意識がとろけ、世界が急に縮み始める。何もかもが遠い。よく見えず聞こえない。
駄目だ、落ちるな!
おがくずのように脆く残った意識が内から叫んでいるが無駄だった。残酷にも身体は闇へと沈んでいく。
「おい、大丈夫か!?」
自分じゃない。
首刈り魔か?
誰かが叫ぶ声が耳で反響している。落ちていく意識の中で捉えられない声の主はただ必死に救いの声を叫んでいるような気がした。




