2章 王都の処刑人5
「ククナくーん、明日も飲もーねー」
「駄目です。ククナさんの言うとおりしばらく飲みは中止です」
後ろから飛んでくる声へ適当に手だけを振っておく。
遠ざかる二人からは「駄目です、危ないですよ」と酔っ払いを叱る魔術師の声。
「ナーロも大変だな」
いずれ失うだろう心地の良い場所を遠ざかり一人ごちる。
自分が消えたらあの二人で飲むようになるのだろうか。
そうなればむしろナーロにとっては喜ばしいことかもしれない。
ナーロは若く優秀な魔術師だ。将来性があり高収入を狙える魔術師ということもあって世の女性は放っておかないだろう。実際、少年のような幼さを残す顔立ちと、それに反するような高い魔術の実力にくらりときている連盟員が相当数いるらしいとはダフネの弁。
しかし、本人が彼女たちの誘惑に応えることはないらしい。ダフネは心に決めた人がいるのかも、と不思議そうな顔をしてた。
知らぬは本人ばかりなり。確信はないが、ナーロの心がダフネに向いているのは一緒にいて察していた。時折、熱病に浮かされたような潤んだ瞳が彼女に注がれている場面を何度も見れば一目瞭然だ。初心な若者の恋路を突いて楽しむほど捻くれてはいないので、そっとしてはいるがダフネはナーロを弟のように可愛がっている。このままでは何も進展などしないかもしれない。
しかし、ククナがいなくなれば良くも悪くも変化が起きるはずだ。それがどちらへ向かうかはわからないが距離感は縮まる。
そこまで考えてククナは酒気に火照る頭を振った。すべては捕らぬ狸の皮算用。修行が始まったばかりの段階で我ながら気が早いことだ。
「あほくさ……」
益体のない妄想を頭から追い出す。半人前にも届かない身のうちから考えることじゃない。随分と浮かれた人間になったものだ。
自省をしながら家路を辿る。
市民街に入り人の数も減ってきた。深夜という時分ではないからか、まばらではあるが人は歩いている。彼らもククナと同じで飲みに出ては免罪符のように早めに帰宅をしているのだろうか。
眠たい目をこすりながらも足早に先を進み、いつもの曲がり角を右に進むと違和感を感じた。
しばらくは道なりに進む直進路なのだが魔灯の光が弱い。いや、道に従って等間隔に立ち並んでいる魔の灯火の数が減っていた。
鉄製の柱に掲げられた角灯部分が灯っていない。灯すはずだった火の魔術師の不手際か何かがあったか。それとも魔灯そのものが故障したのだろうか判断はつかないが目に映る魔灯の半分はその役目を果たしていない。
嫌な雰囲気だな。
幽霊は信じていない。そんなものより存在が確かな人間の方が余程怖いことをククナは知っている。今に限っては王都の大半も同意見だろう。薄闇にかき立てられる想像は人型の靄ではなく首刈りの殺人鬼。
道は暗いが最短で帰るならこの道を通ることになる。明るい道まで遠回りをすることもできるが時間をかければ首刈り魔と遭遇する可能性が上がり、暗い道は犯行に都合がいい。どちらの危険を取るかになる。
遠回りするか。
少し悩み、ククナが来た道を振り返った瞬間、
──ぱりん
少し先にある魔灯の角灯部分が破裂した。ほんの一瞬で火はかき消えて僅かな残像の中、砕けた硝子が闇の中へと溶けていく。
なんだ、故障か?
疑問を口にするより早く、次の異変がククナを襲った。
「うお!?」
熱い烈風が耳元を駆け抜ける。まるで熟達の戦士が振るった剣閃が掠めたような錯覚に、ククナはその場で踏鞴を踏んだ。
「なんなん──ってぇ……」
遅れて右のこめかみに灼ける痛みが走り、手を添えると生温く濡れた触感。
右側頭部が大きく裂けていた。
「くっそ!」
反射的に悪態を吐き、瞬時に脳が高速回転する。
襲われている!?
相手は誰だ?
いや、馬鹿な疑問だ。
この状況で思い当たる節など一人しかない。
首刈り魔。
どうやら、この広い王都で見事に次の標的にされたらしい。
噂をすれば影がさす。最低の凶運だ。
突然の非日常に爆発的な速度で脳を埋めようとする混乱、動揺、恐怖、怒り。それらをなんとか瞬時に押し殺す。
落ち着け、身体能力にかけては王都でも随一の自負がある。荒事にも慣れきっている。落ち着け。たとえ首刈り魔が長物の免許皆伝だろうと逃げに徹すれば逃れることは十分に可能だ。一番怖いのは奇襲に対して冷静さを失うこと。
血が沸騰して身体中に巡る。肌が泡立ち、眠っていた五感が全開になる。直感的に悟った命の危機に筋肉が脈動し始める。
殺されてたまるか。
初撃は死角からの強襲。相手が背後に位置取り攻撃したと想定すると最悪なのはすでに二撃目が放たれていることだ。それならば最優先するべきは回避。
「っし」
ククナは周囲を確かめることはしなかった。腰から落とすようにその場で屈み込み。四足の獣のように道の端へと跳ね飛び転がる。
石の上を転がる冷たく固い感触も生々しい死の予感に比べれば愛撫も同然、意識さえすることなく間髪入れず立ち上がり最速で拳を構えるが、
「いない……」
そこには剣を携えた狂人も斧を携えた大男もいない。あるのはククナの血の跡と散った髪の毛のみ。
消えた……
周囲に視線を巡らせるもいつの間にか通りにはククナしかいなかった。
ほんの僅かな瞬間に狙いを定め、失敗したから離脱したのだろうか。
そんなことが可能か。本職の暗殺者のような輩なら不可能ではないのか。残念ながらククナは答えを出せる情報を持ち合わせてはいない。
唾を飲み込むと大きく音が鳴り、闇に潜んだ犯人がこちらに向き直るのではと汗をかく。
来るなら来い。
熱い吐息が漏れる。拳を握り込み見えない襲撃者を睨めつける。
しかし、拳の間合いにはおろかどこもに人の気配が感じられない。
機会を逸して早々に逃げたのか……?
入念に周りを見渡すもやはりこの通りに立つ人間は自分以外にいない。
張り詰められた警戒の糸は徐々に緩み、ククナはゆっくりと拳を下ろす。
が、甘い見込みだった。
またもや熱い烈風がククナの真横に抜ける。
途端に背にした建物の石壁から金属を打ち付ける甲高い異音が発せられ、通りに歪な鐘の音が響き渡った。
「くそったれ!」
削れ飛ぶ石の礫を背に受けながらも叫ばずにはいられない。
まったくもって想定が甘かった。
これは魔術だ。
勝手に非魔術師としての尺度で殺人犯を測っていた愚かさを呪うしかない。
ここは王都ワンドン。
大陸で最も栄えた街。
そして最も魔術師が住んでいる街。
この街で恐れるべき凶器は剣や斧、弓などではなく魔術なのだ。
「ああ、畜生!」
今度は踏み出した足下の石畳が爆ぜた。いや、正確には違う。ククナの目が捕らえたのは石の上に刻まれていく線。無機物を抉る透明の圧力に耐えかねた石が弾けたのだ。
こいつは──首刈り魔は斬撃のようなものを飛ばす魔術で人を襲っている。
心臓がうるさいくらいに跳ねる。
これでは戦いようがない。殴り合いなどなんの意味ももたない。
自分の持ち得る武器など魔術師からすれば児戯に等しいことを僅かな時間で思い知らされ膝から力が抜けそうになる。
魔術師から唐突に押しつけられる究極の理不尽。一般人に抗いようのない図抜けた暴力にほんの一瞬、脳をよぎるのは──青い中庭から見上げた大きな月。
「落ち着け、落ち着けよ、ククナ・ウルバッハ」
自分自身に言い聞かせ、大きく息を吸う。
冷静に、心を静めて、感情を沈めろ。
状況を整理、思考して身体を動かすだけの人形になれ。
そうすれば出来ないことはない。
──あいつを刺した時のように。