2章 王都の処刑人3
「やわらか……」
昨日、買った林檎を一口囓って呟く。蜜もなくかといって酸味も感じない。採れてから時が経ちすぎたのか、果肉がすかすかと詰まっていないような柔らかな食感。安価だから買ったが美味しくない。
「林檎として死んでるな」
林檎の旬はいつになるのだろう。たくさん採れる旬の時期は安くなると考えていたが、この安さは旬だからではなく、単純に商品としての価値が低いかららしい。
「まず……」
かといって捨てることもできず、もう一度囓る。
ククナも一人暮らしが長い。話し相手のいない空間で独り言をこぼす虚しさなど重々承知している。それでもつい言ってしまうのは他人の存在を無意識に欲しているからだろうか。
二十歳も半ばとなると身を固めている人間が大半だ。そのことをうるさく咎める親類縁者はいない。いたとしても、自分が素直に相手を探しているとは思えないが。
女性経験も人並みにはあるがどんな相手といようと、心の片隅ではなんとなく自分は死ぬまで独り身だろうなという諦観がいつもあった。
結婚に対する悲観はないし、独り身でいることの気楽さを優先したいと考えているわけではない。ただ、無自覚に自己否定している部分があるのかもしれない。
──イラナイ
やめよう。
余計な記憶が浮き上がる気配がして思考に蓋をする。一日の始まりに自分でけちをつけることはないだろう。
まずい林檎を食べきって水を飲んでいると、まるで示し合わせたかのようにガノがやってきた。
「始めるわよ」
「挨拶もなしか」
「師弟に堅苦しさは不要よ」
さも当たり前のように部屋に入って我が物顔をするガノに苦言を呈すが躱された。無礼、無遠慮、人懐っこいのどれをとるかは人次第だろう。
「はいよ、ガノちゃん」
「ただし、師匠には敬意を持って接すること」
「はい、師匠」
「よろしい」
頷くと、ガノは対面の椅子に座り机に小さな何かを置いた。指先で摘まめそうなほど小さなそれは灰色の楕円体。植物の種に見えるが手に取ると奇妙なところが目についた。
「なんだ、これは?」
光っている。灰色の楕円体には葉脈のようなものが拡がっており、それら一本一本が呼吸でもするように明滅している。しかも、よくよく確認すると楕円体そのものも透き通っており、灰色に濁りながらも向こうの景色を透過させている。
「魔術がらみの特殊な工芸品か何かか?」
植物の種ではないのは確実だろう。
「植物の種よ」
植物の種だった。
「これは硝子華の種。妖精界にしかない植物の種子よ。飲みなさい」
「さらっと妖精界なんて聞きなじみのない単語を出しやがって……、こんな怪しいもんを飲むのか?」
ガノは無言で肩を竦めた。どうやら肯定らしい。時季外れの林檎さえ口にするのも嫌なのにこんな見るからに有害そうなものを口にしたくない。
「害はないわよ」
「理由を言え。鼠の糞が光っているように見えてきた」
腕組みをしてガノは、「それもそうね」と呟いた。
「私はあんたを鍛えるにあたって初歩から始めることにした。その最初が魔力の知覚をすることなの」
言葉を切って、ガノはククナの顔に向けて手の平をかざした。
「何か感じる?」
「小さい手だなと……」
「ばか。今、ククナの周りには私から流した魔力が漂ってる。これを五感のどれでもいいから感じ取ることができてるかを知りたいの」
残念ながらさっぱりだった。
目も鼻も耳も肌も舌も何も感じない、いつもの部屋だ。魔術を行使するときのように目を閉じ、集中をしてみてもこの空間から違和感を拾うことができない。
「やっぱり駄目だな。何も感じない」
「でしょ」
手が引っ込み、ガノは腕を組んだ体勢で微笑した。出来の悪い生徒に答え合わせをする教師のような表情だ。まさにそうなのだが。
「ごく当然のことだけど、感じることの出来ないものを正確に操ることはできないわ。だから一番最初に魔力を知覚できるように感覚を整える必要があるの」
なるほど、と頷く。確かに感じることができないものなど、当人からすればないも同然だ。そんなものを操るも何もあったものではない。
昨日も触れていたが、ようはちぐはぐなのかもしれない。魔力を感じることが出来ないくせに中途半端に操作はできる。その結果が非効率な魔術行使と強烈な反動に繋がっているのだ。
「本来は時間をかけて感覚を研くものだけど、お互いに最速を行きたいでしょ?」
「もちろんだ。長ったらしいのは勘弁してくれ」
「そこでこの種が効いてくるのよ」
ガノがトントンと机を指で叩くと、ふわりと硝子華の種は浮き上がりククナの目の前を舞った。
「これを飲むと杖臓が活性化して、一時的に魔力に対して過敏症のようになるの」
「おい、また知らない単語が飛び出したぞ」
「簡単な勉強も今度やるわよ」
座学もあるのかよ。ククナはうんざりしたが、ガノは素知らぬ顔だ。
「つまり、この種を飲むのが修行ってわけじゃないんだろ」
「もちろん違うわ。これは修行の前準備。だから、さっさと飲みなさい」
鼻先を頼りなく揺れる種は明らかに食用の見た目じゃないが、修行のためならば仕方ない。諦めて口を開くと種は舌の上にゆっくりと着地した。特に味はしない、そもそも嗜好品じゃないだろうし、さっさと飲み下す。
「これでいいんだろ。次はどうするんだお師匠さん」
「寝室に行くわよ」
ククナが種を呑み込んだのを確認するとガノは傲然とした足取りで寝室へ入っていった。実年齢が上とはいえ、少女に寝室へ呼ばれるとはやはり奇妙なものだと思いながらもククナも後へと続く。
「飾り気のない部屋ね」
人の寝室に入って開口一番がそれか。
「ほっとけ」
確かに人を伴って入ると質素な部屋だと改めて思う。
寝台とその脇に小机。衣装棚に金庫。一脚だけ布張りの椅子が置いてあるが、それだけだ。洒落っ気も面白みもない部屋だ。寝ると書いて寝室であるなら、正しくはあるだろう。一点、普段着として夜会服を着ているような女の感性で揶揄されるのも納得いかなくはある。
「服を脱ぎなさい」
「俺を小児性愛者だと思ってるのか?」
「誰が小児だ。今からやることに服が邪魔なのよ」
不満そうにガノの白い指が宙空に踊る。すると、空間に引かれた線は裂け目となって、中から数十本の針を吐き出した。針といっても裁縫用のものとは違って明らかに長く細い。倍はある長さと半分もないだろう細さは明確に用途が違うことを表していた。
「鍼治療か」
「あら、知ってたのね」
意外そうな顔をされるが耳にしたことがある程度で大したことは知らない。拳闘試合に出場をする人間にとって怪我は日常茶飯事。その治療の方法として聞いたことがあるだけだ。
人間の身体に点在する経穴を専用の鍼で刺激することで快復力を高めたり、力が湧いてくるらしい。
東から流れてきた医術らしいが胡散臭くてククナはあまり信じていなかった。鍼を刺されて元気になるなんてまったく意味がわからない。思い込みだろうと高をくくっていたが、ここで初体験をすることになるとは苦笑する。
「わかったよ」
要は魔術師としての第一段階は修行ではなく治療なのだろう。種と合わせて鍼を刺すことで魔力を知覚しやすい肉体へと慣らしていくのが目的になっているのだ。
「狙った箇所に鍼を刺せなくなるから脱ぎなさい」
催促される。魔術の門外漢である以上、伝説の魔術師の指示に従うより他はない。そもそも怪しげな種を飲み込んだ時点で鍼治療に対する疑念も今更だ。
服を脱ぎ捨て下着一枚になる。羞恥心はないが見た目少女を前にして、寝室で下着姿という光景は倒錯的だ。小児性愛者として通報されても文句は言えない。助かるのはガノが男の半裸を前に動揺がないことぐらいだ。
「それじゃ始めましょうか」
ククナの心配を余所にガノがパチリと指を鳴らすと寝台が部屋の中央まで移動し、掛け布団は椅子の上へと吹き飛んだ。椅子も掛け布団が乗ったことを確認したようにひとりでに壁面まで移動してみせる。
「勝手に模様替えをするなよ」
「うつ伏せで寝なさい」
こいつ聞いてないな。
知り合って三日、なんとなく自分の師がどういった人物かはわかり始めてきた。まあいいだろう。言われるがままというのも楽なものだ。
促されるままに寝転ぶも今から行われる情景が見えないせいで少々不安だ。
「今から身体の各部位に鍼を刺して、そこに私が魔力を通していくから」
「おい、後半は聞いてないぞ」
「大丈夫。ほとんど害はないわ」
「少しはあるのかよ」
「大丈夫」
「やったことあるんだよな?」
「大丈夫」
「そればっかりじゃねえか。言いくるめる努力なしかよ」
猛烈に不安になってきた。かといって、やっぱなし、など言い出すこともできず拳を握った。
「いくわよ」
言葉と同時に鍼が皮膚を突き破った。右肩にほんの小さな痛みがはしる。鍼は初めてだが痛みは気にするほどでもないらしい。むしろ肉体に異物が埋まった違和感の方が強い。
「痛みは?」
「いいや」
「言うことは?」
「疑ってすいません」
「よろしい」
そこからは早かった。ガノは無言で鍼を刺さしていく。ククナも極力邪魔にならないように努めてじっとしていた。不安から一転して、一定の間隔で身体に鍼を刺していくガノに迷いはないらしく無言で身を任せた。
「出来たわ」
大きな溜息が背中の鍼を震わせた。
いったい何本刺されたのだろうか、頭頂部から始まり足まで背面一杯に拡がる違和感からして数十本はあるだろう。確認してみたくもあるが、ちょっと怖くもある。
「ご苦労さん。でも、こっからが始まりなんだろ?」
「ええ。鍼を介してあんたの身体の内部に私の魔力を流すわ。でも、他人の魔力は異物だから肉体は拒否反応を示す。それを繰り返すことで魔力による刺激を拾えるように肉体を改造する」
「改造って……」
名目上は修行じゃなかったのか。顔は見えないがククナの表情を察したように
「定義なんてどうでもいいでしょ」
とガノは鼻で笑った。
「というか、異物を入れて大丈夫なのか?」
「流す量は調節するし、拒否反応といっても不快な感覚がある程度。始めるわよ」
ククナの疑問を切って捨て、ガノは連なる鍼の群れに手をかざす。傍目にはそれだけの行為だったがククナには違った。
「師匠、背中が痒いんだが掻いてくれないか」
皮膚の内側がひりつくような痒みがでている。霜焼けになったかのように熱をともなう痒みだ。
「いやよ。それに掻いてどうこうなるものじゃないわ」
「これが拒否反応なのか?」
「そうよ。私の魔力に身体が反応している証拠。今は結構強めに流してるけど徐々に弱くしていく。そうすることで微弱な魔力でも反応する身体に変わっていくわ。自分の魔力も拾えるようになっていく」
やっぱり改造のほうがが即した表現だ。
急造で魔術師を仕上げようというのだから多少の無茶は覚悟していた。それを思えば仕方ないのだが、毛穴の中で蚤が踊っているような痒みはかなり鬱陶しい。
「こら」
どうにか痒みの治まる状態はないかと背中を動かしていると師匠の指導が入った。
「まだ背中にしか流してないのにうねうねするな」
「これを全身にやるって正気か。換えの皮膚はあるんだろうな?」
「冗談を言う余裕はあるみたいね」
半ば本気だったのだが、ガノは微笑を浮かべた。
痒くても掻けないもどかしさは誰しも経験あるだろうが、これが全身にとなるとちょっとした拷問だ。もうククナの頭の中では目に出来ない背中が赤く爛れている。さっさと掻くなり水をかけるなりしたい気持ちで一杯になっている。
「痒みは日ごとに弱くなるから今が一番の耐えどきよ」
ガノが手に力を込めるとククナの身体に突き立った鍼にどんどんと不可視の魔力が流れ込む。
それに伴い背中だけでなく腕や足にも痒みが拡がり始め、ククナは顔を顰めた。
痒い、掻きむしりたい。
強く願いながら、枕に顔を埋めて身体中を這う虫の不快感を意識から外すように試みる。
早く終われ、いやもうすぐ終わるはず。
「あ、これ半日は続けるから」
「最高だ! 換えの皮膚持ってこい!」
ガノの絶望的な宣言にやけくそな叫びが木霊した。