Extra Episode 理想と現実
──きっと何年も前からこうなる運命だった。
せいぜい自由でいれるのは義務教育の間だけ。その義務教育も家庭環境のせいでろくに楽しめない状態だった。
「颯太!お前は──ドッヂボールは無理だよな──」
「あ、うん──ごめんね、ノリ悪くて──」
「いや、いいんだよ。体の弱いやつを虐めて楽しむ性分じゃ無いからな。何回目かも分からんけどお大事にな。」
「──ありがとう──」
話せる人間は数人いたが、そんな友人は休み時間を見つけては外に遊びに行く。いや、そもそもそれに関わらず、休み時間はみんな出ていくため、教室に一人で残されることが多い。
(──皆と遊べたらどれだけいいか──)
小学2年生、7歳の高縄颯太。
勉学に関してはそれ程問題も無かったが、壊滅的だったのが体力面。体力テストでは最下位で、その1つ上のいわゆるビリ2に対して、颯太はトリプルスコアを付けられ負けている。それも相手は女子だ。
発育も最悪で、2047年度に文化省から発表された7歳児の男児の平均身長は122.5cm、体重は24.4kg、これが本来ならば一般的な数値であり、概ね他の子供はこれくらいに収束する。
一方の颯太は身長109.8cm、体重は僅か16.7kgで、平均にも大きく届いておらず、背の順で並べば当然先頭である。
そして何よりも運動障害レベルの体力の無さ。毎日の登下校では集団登校で班長または高学年の子供におぶってもらうのが最早恒例であるが、そうでもしないと、颯太のペースに合わせていると登校に倍の時間を要する程である。
というのも、家庭環境の問題でろくに運動することも許されず、5歳から椅子に縛られるように座り続けていたことから、子供の頃当たり前のように走り回ることすらできず、発育が大幅に遅れている。その差は絶望的で、25メートル走などできるはずも無く、体育の時間はベンチを温めているのみだ。
(──僕だって、皆と遊んでいたいけど──)
ガヤガヤとうるさく聞こえる外の声を耳にし、教室の窓から外を見る。
ちょうど2、3時間目の間の25分休み。相当な数の生徒たちが外で遊んでいる。よく見ると、さっき颯太に声をかけていた子供たちが、宣言通りドッヂボールで遊んでいる。
(──僕はあんなことできないから、皆に迷惑をかけちゃうから──ダメなんだよね、皆と一緒に遊ぶことも出来ない。)
──だが、それを寂しいと思えない感情もまた、颯太の心に影を落としていく。
──帰り道、5年生の少女におぶられる。
この少女は集団登校でも同じ班だが、もっとも家が近く、下校の時はいつも2年生の教室にいる颯太を迎えに来てくれる。
これと同時に友人がおり、颯太をおぶるときに少女のランドセルを持ってくれる。
「今日の学校はどうだった?」
そしてこの質問もいつものことだ。もう500回は聞いた。
「いつも通り、俊(友達)に遊ぼうって誘われたけど、遊べなかったよ。」
「.....」
そしてこう気まずい雰囲気になるのもいつものことだ。
「──いつも重たいのにごめんね、しんどいのに。」
「──そんな──」
颯太にとってみれば最低限の気遣いなのか知らないが、少女目線で言えば何を言っているのか検討もつかない。
そもそも小2と小5、体格差はあるが、最低限の発育がある少女と、その最低限すらない颯太とでも条件は違う。
(──こんなに軽くて、気を付けないと折れてしまいそうなほどボロボロなのに──)
少女にとっては、小さい子をおんぶしていると言うより、どちらかというと、かつて人だった抜け殻のようなモノを背負って運んでいるような感覚だった。
だからこそ、颯太の気遣いにしっかりとした言葉を返せなかった。
「──うっ──」
──突然背後からうめき声が聞こえてきて、少女は流石に焦ってしまう。
「ど、どうしたの.....?」
「──ご、ごめん──なんでもないから、早く帰ろ。」
「なんでもない事ないでしょ.....」
颯太を近くのベンチに座らせて服を脱がせる。
すると、腹部に大きな赤アザがあることに気がついた。
「──ねぇ──何これ──誰にやられたの.....?」
「──大丈夫──ちょっと転んだだけだから──」
シラを切るつもりの颯太を逃がさぬよう、少女は颯太の顔を掴んで目を合わせる。
「──お姉ちゃんには教えて。誰だったとしても、颯太くんみたいな小さくて弱い子にこんなこと、絶対許せない.....」
──自分なら痛みに耐えられずに泣いているだろう。
そもそも小さい颯太の体、そのさらに面積の少なく、ボディラインの数割が骨で構成されている颯太の小さい腹部、その3分の1を占めるほどの大きなアザだった。
そもそも家で転んだなら親が治すはずだし、登下校中は少女か他の子がおんぶして行くため颯太が転ぶ要因が無い。さらにもし学校でされていたとしたら重大なイジメ案件だ。
「.....ごめん、でも、お姉ちゃんには何も出来ないよ.....」
「.....!?」
だからこそ、颯太は拒絶の道を選んだ。少女は息を飲む。
「お姉ちゃんには死んで欲しくないから、だから何も言わない。男の子なら強いから耐えれる。女の子は強くないから耐えられない。死んじゃうかもしれない。」
「──そんな女の子より弱い子に言われても──」
少女からのツッコミが冴え渡る。
だが、次の颯太のか細く震える声に、少女は言葉を失った。
「お願い、僕の痛さを受け止めないで。しょうが無いんだ、あの家に生まれちゃったんだから、仕方ないんだよ。僕が上手く出来ないから、仕方ないんだよ──」
「──」
小5ながらに確信した。家庭内暴力だと。
少女はその後も何度も説得を試みたが、颯太の意思が折れることは無かった。
──なぜなら、少女の思っていた以上に、高縄家は荒れていたからである。
「また女子におぶられて学校に行くなど、高縄家の飛んだ恥晒しじゃ!!分かっておるのか!!?」
「.....」
鍛冶の為に使う叩き棒を颯太が座る椅子に一定間隔で叩きつけて怒鳴り散らかすのは、高縄家24代当主、颯太からすると曽祖父に当たる。
御歳89歳となる曽祖父は1958年生まれ。既に工房からは一線を引いて、27代当主となる予定の颯太に鍛冶のあれこれを教えていたのだが、その教え方が最悪だった。
もともと虚弱体質に生まれてきた颯太に大して食事をろくに与えないのは勿論のこと、手先が不器用で包丁の形を成しえない颯太の包丁を叩き割った挙句に、その物体で颯太を殴るなどは日常茶飯事、酷い時には叩き棒で何度も颯太を殴るなど、昭和の時代に生まれたからこそできる残忍なブラック体質が颯太を苦しめていたのは明白だった。
暴言、暴力、そして栄養失調、最悪の条件が重なり、颯太の体はやせ細り、虚弱体質はさらに悪化の一途を辿り、現在の颯太は歩くことができる程度で、体育に参加しようものならものの数分で救急車が必要になり、走ることなど出来るはずもなかった。
学校側は何度も家庭訪問を申し入れたが聞き入れられず、さらに颯太のためにと学校側が車椅子を用意すると、"自分の子供を障害扱いするなど何事か"と、時代錯誤も甚だしいようなクレームを入れ続けて学校側を黙らせている。
しまいには先程のように、歩けない颯太をおぶっていく少女にすら文句をつけていたのだ。
「刃物も作れないし体も弱くなりやがって、そんなんで男などと名乗るのも甚だしい。恥晒しめ。」
「──そんな体にしたのはそっちじゃん──」
「何だと!?聞こえんぞ!ボソボソ喋るな!」
──この暴力が何年続いただろうか。
包丁の工房に入り早4年、その間ずっと曽祖父からの暴力を受け続けてきた。これが日常だと思っていた。
だが違った。この家庭環境が異常なのだ。
もしもこのまま少女にまで被害が及んでしまったら、彼女も自分と同じようにボロボロになってしまうのだろうか。
あるいは、暴力に耐えきれずに死んでしまったり──
そう考えた時、颯太には抑えきれない感情が爆発した。
「──こんな体にしたのはひいじいじゃん!!何で自分がやってきた事まで棚に上げて僕のことばっかり──」
その言葉を言い終わるや否や、24代に頬を殴られる。
衝撃で舌を噛み、とてつもない血の味がする。
「──舐めた口を聞くようになったな、小僧の分際で。お前をそんな舐めた真似をするような子供に育てた覚えはない。誰のせいだ、お前を誑かしたあの女子のせいか?」
「──っ!!」
──颯太の頭の中で、何かがプツリと音を立てて切れた。
その瞬間、血だろうか、何か熱いものが湧き上がり、颯太の自我を奪っていく、そんな感覚だけが残った。
──気がつくと、そこにはあまり見ない赤色があった。
工房でよく見る、鉄も溶けそうな鮮やかで激しい、黄色がかったような赤色では無く、どす黒く冷たい赤黒だった。
恐る恐る周りを見ると、どういう運命のイタズラだろうか、颯太が作った失敗作に頭を打ち付けていた24代が、震える全身を起こそうとしながらこちらを見ていた。
だが、歳のせいなのか、あるいはその赤黒のせいなのか、24代は力こそ入れているように見えるが、全く起き上がってくる気配が無い。
「──あ──」
何が起きたかは分からない。
だが、どういう理由か、颯太と揉み合いになった24代がバランスを崩して倒れたということは分かる。
「──お前──なんてことを──」
今までに聞いたこともないような震えた声が颯太の鼓膜を不気味に揺らす。
先程から心拍が言うことを聞かない。そしてその脈に打たれるかのように全身が小刻みに揺れる。
「──違う──こんなの違う──」
何が起こっているかも分からないというのに、颯太はただこんな言葉を繰り返し、頭を抱えてしまう。
「──こんなのってない──僕はただ──」
──颯太の意識は、ここで途絶えてしまった。
ー‐ー‐ー
「──颯太──颯太!!」
──久しぶりに鼓膜が何かを感じ取る。
いや、今までもあらゆる空気の振動を無意識に感じ取っていたのかもしれないが、それらが脳に電気信号を送ることが無かったのだろうか。とにかく、久しぶりに耳から情報が入ってくるという当たり前のことが起きた。
「──ぁ──」
目を開けてみれば、ぼんやりと霞む視界に、人間のような影が見える。
24代だろうか、あるいは祖父か父親だろうか。それとも──
「颯太!聞こえてる!?僕だよ!智樹だよ!!」
「──あ──あぁ──」
久しぶりに喉を震わすと、言葉すら出てこなかった。
だが、微かに震えた喉も、あるいは霞んだ景色ながらもそこにいた人影に、颯太はなぜか絶大な安心感を得た。
「──おぁ──」
颯太がその友人の名前を呼ぼうとするが、喉が言うことを聞かない。
だが、それで何かを感じてくれたのか、友人は自分のところに来て、颯太を抱きしめる。その後ろから更に大きな人影が二人を抱きしめた。
ー‐ー‐ー
──この友人、宮原智樹は颯太と同い年。
だが、彼の出で立ちは同じ刃物工房ではあるが、高縄家では無く宮原家、この宮原家というのは百数十年前、高縄家で生まれた次男が技術を持ち逃げし、高縄家より格安で同等の刃物を売り始めた裏切り者であり、高縄家からは嫌悪されていた。
本来であれば出会うはずもない二人。
だがどういう運命の悪戯なのか、二人は出会ってしまう。
「わっ.....!!」
振り向きざま、智樹は誰かにぶつかった。
場所は七道にあるショッピングモール、智樹は父親に頼まれ、おつかいに出ていた。
そんな最中、自分の不注意とは言え、小さい子供のような子にぶつかってしまう。
「だ、大丈夫.....?」
「う、うん、ごめんなさい.....前見てなかった.....」
見ると、背格好も一回り小さく、明らかにか細い少年が倒れていた。
体格差こそあれど、自分にはぶつかったとは言えほとんど衝撃が無かったというのに、少年は弾き飛ばされるように倒れていたのだ。
「──立てるかな?」
「あ、うん.....」
──だが、明らかに起き上がるのにもたついている。
何か訳ありなのではと思い、少年にいくつか質問した。
「お父さんとかお母さんはいないの?」
「え?うん、ここには一人で来たよ。」
「え?じゃあおつかいってこと.....?」
「う、うん.....」
相手の少年は何でそんなことを聞いてくるのか、そんな不審に思っていそうな態度を見せるが、そんな相手に構わず、智樹はさらに質問を続ける。
「何歳くらいなの?3歳か4歳くらい?」
「──6歳だよ。小さいからって適当なこと言わないで。」
「えっ、6歳なの?同い年だよ!」
「えっ?そうなの.....?」
その後、刃物工房の息子であることなど共通点もあり、何だかんだ意気投合し、そのまま二人で買い物をした。
そんな帰り道、二人は別々の方向に行くでもなく、家も近いだろうし一緒に帰ろうということになった。
「今日はありがとうね。」
途中何度も倒れそうになった少年を助けたりなんなりで、買い物は無事になんとか終わらせた。
「ううん。僕も楽しかったし。じゃあ、帰ろうか。」
「うん。それじゃあ路面電車の駅に行こうか。君はどっち方向?」
その言葉に、智樹は目を丸くする。
「路面電車?そんなの乗らないよ。ていうか、君、家はどこなの?」
「花田口だよ。そっから大体4分くらい。だから大体合わせて、普通なら30分。でも、僕はそんな長い時間歩けないから、途中で2、3回は休憩が要るから、多分全部合わせて1時間は掛かるね。」
実はここからだと路面電車の駅までは結構遠い。高須神社駅までは徒歩10分かかる。そこから路面電車となると、接続が悪ければ徒歩より時間がかかる。
ただ、少年の虚弱体質は異常で、10分を超える徒歩は途中休憩を挟まないと耐えられない。なので、丁度このショッピングセンターから、その最寄りの高須神社駅までで一度体力の限界を迎え、路面電車で休憩。花田口駅から徒歩4分の彼の家まで一度休憩してたどり着けるということだ。
「ぶつかった時から力も弱いし、買い物のときも何回も休憩してたし、あまりに軽いし弱いなって思ってたけど.....思ってたより酷いね。」
そうだ、と智樹は一つの案を思いつき、しゃがんで颯太に背中を見せた。
「.....じゃあ、ほら、乗って。」
「背中を見せる.....降参?」
「どうしてそうなったの?」
世間離れしているようで、少年にはその意味すら分からない。
「ほら、おんぶだよ、おんぶ。」
「おんぶ.....って、何?」
しゃがんだ姿勢のままガクッとなり膝をついた少年。
「ああ.....もう、いいや。肩持って上に飛んで。」
言われるがまま少年におぶられた颯太は、ただゆっくりと薄いリアクションをする。
「.....わぁ.....なにこれ.....」
「走るよ。しっかり捕まってて。」
颯太のリアクションに構っていたらキリがないことを概ね察したのだろう。少年はそのまま走り出す。
少年におぶられ揺られること10分。
既に路面電車沿いの道に出ており、間もなく神明町が見えてくるであろう頃で、今は信号に捕まっている。
「それにしても、ホント滅茶苦茶軽いね。乗ってるっていう感じがしないよ。」
久しぶりに口を開いた少年の言葉は、やはり颯太の重量についてだ。
「.....そんなに軽い?」
「うん。まあ、僕が重いだけかも。でも、今まで君ほど軽い子はいなかったな。」
それもそのはず。
2045年度に文化省から発表された6歳児の男児の平均身長は118.2cm(令和2年度は117.5m)、平均体重は22.3kg(令和2年度は22.0kg)である。
智樹が、身長126.2cm、体重27.7kgである。一方、少年は身長110.3cm、体重17.9kgである。
この数値さえ見れば、如何に颯太の発育が劣悪であるかがよく分かるだろう。
「──ひいおじいちゃんのせいなのかな──」
「え?なんか言った?」
「え?う、ううん。なんでもない。」
──後に事件となるその事柄は、当時の颯太が何故か隠蔽してしまう。
「.....それより、君の方がずっと体大きいんだから、僕よりずっと強いんじゃないかな。」
「それを言えば、君の体は小さすぎるよ。ホントにはいないけど、弟みたいな感覚になるよ。」
共に6歳児同士なのに15センチ強の身長差がつく状態となってしまい、発育条件の差異が露見する形となっている。
とは言え、智樹の体力も並外れている。約10分間、いくら体重差も倍近いとは言え颯太をおぶり、休憩もなしに走り続けるのは並大抵では無いはずだ。
少年が自分の背中に頭を預けたのを確認し、智樹も残りの距離を走り始める。
「.....めちゃくちゃ早く着いちゃったな。それに買い物まで手伝ってもらって、今日はホントありがとう。」
花田口駅の交差点で降ろしてもらった少年が礼を述べる。
「いいって、いい運動にもなったし。今日は楽しかったから。」
挨拶を交わしたあと、また智樹から話しかける。
「そうだ。名前は?」
「颯太。僕は高縄颯太だよ。」
「たかなわ──そうた──颯太──うん、覚えた。」
少年、颯太は笑顔を見せて名前を名乗る。
「僕の名前は宮原智樹、トモって呼んで!」
「うん!じゃあね!トモ!」
ー‐ー‐ー
「本当に良かった、颯太が戻ってきてくれて。」
「──戻ってきた──で、いいのかな.....?」
二人で颯太の部屋にいる颯太と智樹。
24代の死から心神喪失となり、飲食もろくに取らない状態であった颯太。点滴をしていた為栄養的に最低限を確保してはいたのだが、元々病弱そうな蒼白していた肌は、さらにやせ細り骨格が顕になる程であった。
身長においては智樹が133cmに対し颯太は110cm足らず、体重に至っては智樹が31kgに対し、事故後のノイローゼにより食事が喉を通らなくなっていた颯太は、元々無かった体重は更に減り、既に14kg台前半、智樹の半分弱という驚異的な数値であり、その体格差はまるで同い年とは思えなかった。
「──こんなことになっちゃって、こっちに戻ってきたとしても、もうこのままだと立つことも出来ないかもしれない──こんなことになるなんて──思いもしなかったな──」
「.....」
──実際、後から聞いた24代の事故は悲惨だった。
あの頃の智樹は知る由もなかったが、颯太は4年間に渡り曽祖父から暴力を受けており、それに抵抗しようとした颯太の反撃が、意図せずカウンター攻撃となり、バランスを崩して曾祖父が倒れ、その頭にはなんのイタズラか、鉄塊と化した颯太の作った包丁のような何かがあり、運悪く頭を打ち付けた。
結果的に颯太には何の非も無かった訳だが、気がついた時には頭から血を流した曾祖父が居て、"自分が殺した"という認識だけを脳の奥の奥まで刻み込んだことになった。
「──どうしたらいいのかな、僕──」
何度も思い出されるあの時の光景、存在しないはずの罪の意識がむせ返り、颯太は次の一歩を踏み出せなくなっていた。
「でも、颯太は悪くないんだし、またいつものように工房に居ればいいんじゃないの?」
「まあ、それはそうかもだけど──なんか──」
この頃の颯太には上手く説明できなかったが、要するに颯太が言いたいことは、工房に居たらまた24代が現れ、なんなら自分を殺したことを恨んできそうな、そんな感覚になっていた。いわゆるPTSDである。
「──僕は、もう工房には立ちたくないよ──」
「──そっか──」
──その気持ちはどことなく分かってしまうからこそ、智樹にはかける言葉が見つからなかった。
「──これからどうしようか、トモ──」
「──さあ、ね──友達で居たいけど──颯太は高縄家で、俺は宮原家で、本来なら相容れない間柄のはずなんだ。こうして話していることも、本来なら許されないことなのにね──」
「──僕だって、ずっとトモと友達で居たいのに──」
先に説明した通り、高縄家目線で宮原家は裏切り者であり、一方の宮原家からすれば、その当代の高縄家に何かしらの怨恨があったからこその裏切りである。
互いの関係は決して相容れないものであり、何代、何百年と経つ現在ですら、颯太と智樹という例外はありつつ、未だ交流など一切行われていなかった。
「──もし、さ──颯太がまだ立ち上がれるならだけど、一つだけ提案しちゃっていいかな.....?」
「.....」
颯太は無言のままだが、肯定の合図を送る。
「今まで高縄家26代、宮原家16代まで、二つは仲が悪かった訳じゃん。でも、颯太とは普通に話せる訳じゃん。だったら、高縄家27代、宮原家17代をもって、こんな関係を終わらせることは出来るんじゃないかな。」
「──そんなに簡単にできるのかな.....?」
「できるよ、多分二人なら。」
智樹は立ち上がり、颯太に手を伸ばす。
「──ねぇ颯太、もし颯太が一人前になったら、二人で一丁ずつの包丁を作って、双剣にしようよ。俺が左手のを作るから、颯太が右手の奴作ってさ──」
「双剣?」
「うん。双剣って言っていいかわかんないけど、飾り物で二つの剣を交差させて飾るんだよ。きっといい飾りになると思うし、なんか、二人が一つになった感じがしない?」
「──」
別に、何も悪い話では無い。
証を作るという体で記念品を作ると言うこと自体は、別に颯太にとっても拒否反応を起こすような事柄でも無い。
しかし、颯太はすぐには頷けなかった。
「──いいと思うけど、僕が工房に行けなかったら、それも叶わないよね──」
「立てるよ、もう一度なら。」
颯太の不安を、智樹が一蹴する。
「だって、別に今じゃなくたっていいじゃん。明日死ぬわけじゃない、僕たちには沢山時間がある。もっと大人になって、今度は僕らが二人で工房に立てるようになった時、その時でいいでしょ?無理に一人で立ち上がらなくたって、僕が颯太を支えてあげられるから。」
「──」
──楽観的だ、そういう考え方もあるだろう。
実際、トラウマというものは生きていれば誰しもが多かれ少なかれ持つものであり、その傷は一時的なモノではなく、その人が死ぬまで永遠に引き継がれていく。それがトラウマだ。
だからこそ、孤独だった颯太にとって名案とも言えるはずの智樹の提案にも、素直に頷くことができなかった。
「──できるかな、僕に──」
「ゆっくりでいいんだよ。だから、いつ叶うかは分からないけど、約束してくれないかな?きっと颯太ならできるって、俺は信じてるから。」
「──」
颯太は少し悩んだ。
仮にも颯太は過去7年間の暴力を受け続けてきた。だが、支えてもらえる友人や先輩も勿論居た。だから、人間不信になっているとか、そう言った重度の対人関係における障害を持っている訳では無い。
あくまでそれを拒絶する理由は自分にある。智樹と下手に約束を交わし、このトラウマを永遠に克服できないまま、智樹の足を引っ張るようなことは避けたかった。
──だが、それが迷惑かを決めるのは颯太では無い。
「颯太が工房に立てるまで、俺も全力でフォローするし、もし立てなかったとしても、俺は颯太を責めたりしない。だから、できれば俺を信じて欲しいな。」
──この言葉を聞いて、颯太の胸の中で、何かの枷が外れるような感じがした。
「本当に──ホントに信じていいんだよね.....?」
「──まあ、腕に自信があるかって言われたら、俺もまだまだだけどね──でも、颯太の味方で居続けることだけは、自信を持って言えるよ。」
颯太はこの場で確信した。
きっと彼はこの先ずっと親友と呼び続けられる人間だ。そしてこんな弱い自分を受け止めてくれる。ならばもう、後は自分の弱さに四の五の言わずに、彼との約束を遂行したい。
「じゃあ、お願いだよ。僕も頑張るから。」
颯太は智樹の手を取った。
そのまま智樹は颯太を引き起こすが、その勢いが強く、颯太は立ち上がった直後からふらふらと覚束無い足取りをとる。
「──その前に、この弱すぎる体を何とかしないと──」
「あはは、じゃあこれからは遊ぼうよ。」
「──遊ぶって──外で遊ぶの.....?」
「?、勿論だよ。でもしばらくは颯太に合わせて、軽い運動とかがメインになるかもだけどね──颯太.....?」
──気付けば颯太の頬が、上から流れてくる雫の冷たい感触を察知していた。
「──僕、今まで友達と外で遊んだことがない──ずっと、曾祖父から殴られてて、体を無理に動かすと痛くて動けなくなったから、ずっと休み時間も教室で席に座りっぱなしだった。そんな僕でも、外で遊べるかな.....?」
「大丈夫だよ。それに颯太も外で遊んだら、思ってるより楽しいかもしれないよ?それにしたって、どうして泣いてるかは分からないけど.....」
「──ずっと、友達と外で遊べる日が来たらいいなって思ってたんだよ。でも、学校の中では、絶対にそんな日は来ないって、諦めた方がいいんだって思ってた。」
「──そっか──」
予想外の反応をされ、どう返していいか分からなくなった智樹だが、とにかく颯太が喜んでいることだけは伝わった。
「じゃあ約束ね。今度は姉ちゃんも連れて大和川の河川敷に行こう。そこで目いっぱい遊ぼう。」
「うん。絶対行こうね。約束だよ?」
「おう!」
──きっと、心の底から嬉しかっただろう。
あらゆる友人が颯太のことを誘おうとして諦めた。そんな颯太も外で遊ぶなんて、普通の子供がやっていることを諦めかけていた。そこに智樹が手を差し伸べてくれた。
こんな友人関係が永遠に続けば良かった。
ー‐ー‐ー
──それから8年後、2055年7月14日。
颯太は身長161センチ、体重52キロ。15歳と考えると割と平均的な数値まで追いつきつつある。
──だが、一方の智樹は──
(──何度後悔してもし足りない。なんでもっと早く目覚めて、アイツの自害を防げなかったのか、なんで──)
──2055年7月9日、宮原智樹死亡、享年15歳──
宮原家の跡取り息子で、唯一未来に刃物の技術を持ち越せるはずだった17代目、なおかつ颯太にとって、最も信頼をおける大親友は、既にこの世を去っていた。
それも最後は、颯太と敵対し、狂信の魔力を纏った狂信者となって颯太たちを襲い、結果としては討伐寸前で狂信者の智樹が一瞬だけ"宮原智樹"を取り戻したことが仇となり、颯太を傷つける、そんな親友としては絶対にしたくなかったことをしてしまった認識からか、最後は狂信の魔力の源であるコア、それに繋がる首を自ら包丁で刺して自害した。
(──こんなクソみたいな状況でも生きてなきゃならない。俺は約束した。瑞穂姉ちゃんとゆっくり余生を送るためにも、俺はこの腐った人間どもを蹴散らし、民共党に大して反逆し、全ての罪を受け持って市川の首を取る。)
──颯太は既に穢れきった手を、決して智樹の墓石に触れさせることは無かった。
それは、かつての親友に、死してなお自分を受け止めてもらおうなどという傲慢な考えを捨てるため、そしてその穢れた手を智樹に取らせない為。
(──せめて俺の償いは、お前の死を無駄にしないことだ。お前が身をもって教えてくれた、"誰かが死ぬっていう意味"、"その苦しみと辛さ"、"人間は一人だけで出来てはいない"っていうこと。俺に罪の大きさを教えてくれた。だからこそ俺は、"四肢が無くなっても尚立ち上がる"。)
──颯太はズボンのベルトに取り付けた鞘から、かつて親友が握っていた包丁、その左手用のものを差し出す。
(──だからせめて、俺が死ぬまで、力を貸してくれ。)




