第1章 No.12 叛逆
前回の最後に出た通り、ここからは主人公・高縄颯太の過去も明かされ、この物語の根幹も少しだけ見えてきます。まあこっから多少難しくなるので、脳死で物語を読みたい方はもうブラウザバックして頂いても大丈夫です。
──2055年6月21日。
日本中を衝撃的なニュースが駆け巡った。
「本日午前4時40分頃、堺市西区、築港新町にある、築港新町はまなでしこ公園付近の防波堤で、堺市役所の職員、新田凪さんを含む男女15名が、日本刀のようなもので切られたり、刺されたりして死亡しているのが発見されました。死後数時間が経過していたと見られ、警察では周辺住民の目撃により、中学生くらいの男の子が何らかの事情を知っていると見て、行方を調べています。」
──堺市役所職員15名の惨殺。
国営メディアのテレビニュースではある程度オブラートに包み込まれているが、実際のものは酷く、四肢を切断されたり、顔面を刀で刺された挙句、すり潰したようなものまで見られ、相当な殺意を持っていることは疑いようも無かったそうだ。
日本国内、ありとあらゆる市町村を、一家たりとも残さずに包み込んだこの恐怖のニュースは、警察庁や、自衛隊をも巻き込んで、瞬く間に捜査本部が敷かれることとなる。
──そもそも、この事件には妙なところが多すぎた。
まず、2055年4月に平和化政策が実施されたことにより、国民からは武器となりうる物品はすべて没収されている。
それには当然刃物が含まれている。現代でも刃渡り22センチ以上の刃物の所有には個人登録が必須なもの、ましてや強権的な民共党によって各家庭への刃物の不所持における誓約書提出の義務付け、拒否不可能な抜き打ちの全家庭への訪問調査が行われた結果、5月半ばには全家庭における刃物の消滅が確定している。
ましてや今回の凶器は日本刀と推定されている。個人登録必須な武器は優先的な回収、拒否した場合は反逆罪のような方法で実刑を食らうような、いわば刀狩令とも言える強権政治により、日本刀などとっくに没収されているはずだ。
それに、犯行時間が夜であるにも関わらず、なぜ人目に付きにくい公園に被害者15名がわざわざ訪れていたのか、そしてそこから10時間余りも遺体が発見されていないのか等、妙なところはあったが、この二つには理由があった。
──この頃目撃されていた路上生活の少年である。
夜になると必ず現れ、公衆便所の近くにある屋根付きベンチに腰掛けて夜を明かす少年だ。中学生くらいで、毎日腰掛けると同時に眠りについていたらしい。どこで済ましているのかは知らないが、毎日どこかで風呂を済ましているらしい。
不審者としての通報が寄せられていたらしく、ちょうどこの日に職員が見回りに向かい、被害に遭ったというわけだ。
「──怖い事件だね──智樹も気をつけなさいね。」
──宮原家の姉・瑞穂が弟・智樹へと語りかける。
智樹は何一つ言葉を返さない。というより、ここ最近智樹は黙り込み、あまり、というよりは殆ど返事をしてくれない。
(──まさかとは思うけど.....いえ、偶然よ、きっと──)
──思い当たる部分はあった。
だが、二人は心のどこかで分かっているような、だが考えないようにしているような、複雑な心境を浮かべていた。
ー‐ー‐ー
──振り返ろうとしたまさにその時に聞こえた声で、尚樹の目の色が変わる。
そして、リザーブ組の空気も変わる。
きっと、沙梨や尚樹が副団長をリザーブ組に関わらせたくなかったのは、こういう事が起こってしまうからだ。
「──分かってるでしょ──殺人犯、高縄颯太くん。」
──初対面からいきなり、笑えない事をぶつけてくる。
身長165センチ、不思議なことに、服装や髪型から女性だと分かるのに、先程救援に来てくれた中村尚樹、泉大津主力組の団長と、体格面ではパッと見全く差がない。まるで身だしなみが違うだけのドッペルゲンガーが対面したかのようだ。
「──その話は禁句だと言ったはずだよね、恵理。」
「別に、禁句もクソも無い。グループにいる不純物を取り除こうとしているだけなのに、私の何が悪いのかな?」
──恵理は本気で、颯太の弾劾を決行するつもりだ。
いや、そもそも彼女は、穂波すらひた隠しにしていた事実を、なんの躊躇いも無く晒しあげた。
──高縄颯太は、殺人事件の容疑者である。
「てっきり、いいサプライズになると思ったけれど。」
「それが本当に"サプライズ"のつもりなら、最悪な趣味だな。そんな奴が上にいるなんて寒気がするけど──」
サプライズ、とは全くもって似つかわしくない言葉だ。
だが、恵理の言う通り、リザーブ組の面々は、その宣告にも一切驚く様子を見せなかった。
「颯太には悪いけど、俺らは全員知ってる。だからと言って接し方を変えるつもりは無いし、弾劾するなんて、俺たちには烏滸がましいんだよ。勘違いすんな。」
──闘也の口調が厳しいものに変わる。
「まあ、貴方たちにはそうかもね。でも私は泉大津を管理する立場、副団長なの。あんまり身分を振りかざすのは好きじゃないんだけど、こういう時はしっかりと権限を使わないと。」
だが、規律を重んじるという点では、恵理の方が正論ではある。犯罪者を受け入れない、それも更生していないような人間を放置しておくなど許されたことではないのだ。
「随分と簡単に動くんやな、その権限とやらは。」
そんな声が聞こえ、無表情で淡々と話していた恵理の表情が険しくなる。
「──そう言えば、帰ってきてたんだっけ.....」
「久々やな恵理。ちょっと見んかった間に随分と偉そうになったもんやな、全く。」
──なぜかバチバチに殴り合いになっているが、まあその辺は昔からの仲なのだろうか。
それにしても、結愛の表情はともかく、恵理は煽りあいと言うよりは、どちらかと言うと嫌がっているように見える。
「貴女にも分かるはず。この泉大津は罪人が居るような場所じゃない、今ここに罪人は必要ないってことくらい。」
「副団長様の意向なんざ知ったもんか。うちの人事の最終決定権は泉大津の管理人である穂波さんのはずやろ、副団長の勝手でも出来ることと出来ひんことがあるんちゃうか?」
──まあ、ここだけは結愛の方が正論である。
颯太の罪どうこうはともかく、それを承知しているかしていないかはともかく、颯太を自分の傘下に入れたのは紛れもなく穂波である。
だからこそ、恵理のやり方は理にかなっていない。
「それに、穂波さんはそれを承知で高縄くんを泉大津のリザーブ組に編入した。これは団長である僕にしか教えられてはいないが、きっと穂波さんも、君のような頑固者に知られるのは面倒だと判断したんだろうね。」
──さらに団長であり、実の兄である尚樹から追撃。
これで恵理のイチャモンは終わると思われた。
「──知らない。私は組織の健全さを維持したいだけなのに、なんで皆してそれを止めようとするの。穂波さんが本気でそう思ったかは分からないし、今のところ兄さん達は、高縄颯太の所属を正当化させる為に穂波さんの名前を使っているようにしか聞こえない。」
──面倒なことを言い始めた。
まあ、颯太のことをどう考えるかという前提条件で、この話題はどちらも正解になりうるのだが。
「──面倒な妹ですまない。だが、主力グループ組にはこの事案に反対を訴える人間は少なくない。僕としては今のご時世、颯太くんの罪を特別視はできないし、背景もある以上は無闇に責めることもできないから、別に追放しようなんて考えは無いんだ。」
無論、殺人罪はシンプルに重罪である。その前提条件をもってすれば、すぐにでも警察に突き出すべきである。
とは言え、穂波に何かしら理由があって、颯太の罪を実質的に隠蔽しようという動きに入っているのだ。それであれば尚樹としては、余計に恵理の主張を認める訳にはいかない。
「本当に嫌なら穂波さんに直接、直談判すればいいじゃねぇか。嫌味ったらしく俺にわざわざ言いに来る必要は無い。俺はお前らの下にいて、なおかつ穂波さんの下にいるんだ。」
──恵理は何も表情を変えず、ただ沈黙した。
実際、恵理の方法は悪趣味である。辞めさせたい部下がいるなら、あるいは嘘の情報を流して上司を説得するのもまた悪趣味ではあるが、颯太の場合は前提条件となる罪がある以上、何らかの方法で穂波を説得し、颯太を除籍することは出来なくはないだろう。
だからこそ、恵理のやり方は、管理職でもないのに気に入らない部下に悪口を言い続けるような、悪辣な御局様以外の何者でもなく、古き悪しきかつてのパワハラ上等な日本社会の権化でしか無かった。
「──とにかく、今後穂波さんから特段何も言われない限り、特にリザーブ組に何かしらの変化がある訳では無い。少し面倒事を起こしてしまって申し訳ないね。」
「──いえ、別に──」
──とは言え、ただの面倒事で片付けられる範疇では無い。
実際にこの問題は、颯太の罪に対する考え方の違いであり、恵理のような意見を持つストライカーも居るはずだ。
だからこそ、これから先、颯太がストライカーであり続けることに、あるいは泉大津にこれからも身を置く為にも、絶対に解決しておかねばならない問題だった。
「そういう話は穂波さんを交えてじっくりしよう。ああいう強硬なヤツも中には居るからね。」
「──はい──」
──主力組の、さらに泉大津を束ねる団長、副団長との面会は、主に副団長の第一印象を最悪にして幕を閉じた。
二人が帰り、呆然としたまま取り残されたリザーブ組の面々だが、ふと颯太が疑問に思っていたことを口にした。
「──驚かないんだな。俺が殺人犯って聞いても──」
──実際、恵理からのCOは突然だった。にも関わらず、誰一人目の色を変えることも無く、毅然とした態度を取った。
それどころか、闘也からもこんなCOがあった。
──颯太には悪いけど、俺らは全員知ってる。
「──知ってたんだ、俺の素性、俺が大罪人であることすらも、皆に筒抜けだったんだな.....」
罪をこっそり知られ、なおかつ今まで気遣われていたという事実を知ることになり、颯太は俯き、萎える。
「穂波さんの情報収集能力を舐めちゃいかんな。颯太の家族構成、起きた事案、どうして颯太が犯行に及んだかって言う──憶測とは言え、概ねの理由も教えてもらった。どこからその情報を入手してるんだか──」
「僕達は皆、加入の時に説明を受けてる。別に僕らは罪があるからと言って拒絶したり、あるいは颯太くんに対して気を使っていたつもりはないよ。そう見えていたら悪いけど。」
闘也とキムの発言により、元凶は特定出来た。
まあ、元凶とは言っても、逆に知られないままで、あるいはこのような恵理らのCOによって知られ、隠していたことにされるのも面倒ではあるので、ある意味有難みはある。
「──いや、窃盗だの詐欺だのならまだ分かるけど──俺の罪は殺人だろ?そんな簡単に割り切れるものじゃない──」
「割り切れるよ。」
と、ここで声を上げたのは、闘也が言った"全員"に当てはまらない二人、そのうち弟の煌太だった。
「──罪の重さどうこうを考えるつもりはない。罪人は誰でも皆罪人。なら、僕らは別に何も違わない、そう思う。」
──罪の重さどうこうはさておき、煌太の言葉は一朝一夕で理解できるものではなかった。
それを補足するように、姉の香苗がこんなことを言った。
「なぜって、我々ストライカーは、怪物となった人間と命のやり取りをしている訳で、殺人罪なんて、討伐に失敗してしまえば普通に有り得ることだと思います。そもそも救出率が低い界隈ですし、私は別に問題ないと思います。」
なぜか少し慌てているように見えたが、気にしない。
リザーブ組の面々や、香苗、煌太の二人においては、そういう考えのもとで颯太のことを、恵理ほどは敵視していない、あるいは仲間として戦おうとしているということになる。
要するに言いたいことは、どうせ後々人を殺めてしまう可能性があるなら、それ以前に殺めてしまっていても問題は無いという考えだった。
実際、確かに香苗の言う通りの側面があるのは否定できない。仮にそれが業務上過失致死だったとしても、残念ながら人を殺めたという結果だけは変わらないのだ。
とは言え、それ以前に討伐以外で侵してしまっている場合と混同させるのは無理があると言わざるを得ない。そういう意味で、颯太への態度が二分するのは、侵した過ちに対する考え方の差であり、恵理のような人間が出てくるのも無理は無い。
「──でも、ええ機会やし、一個だけ訊いときたい。」
唐突に結愛が颯太の正面に立ち、言葉をなげかけた。
──それはどうしても、今後結愛たちが颯太と接する上で、前提条件として知っておきたいものだった。
──颯太くんは、今でも"アイツら"を殺したい?
ー‐ー‐ー
──やめろ!やめてくれ.....!!
──そんな言葉を何度聞いただろうか。
こちらの苦労を知りもしない脳死状態の連中どもの癖に。
(──そうやって叫んだ人々を、俺の家族を、全て突き放して殺したのも、またお前らだろうが──)
──あぁ.....!!あああっ!!!
──別に快感でも何でもない。だが、やり遂げないといけない。
──全国の幾千の人間を見殺しにした大罪人どもを──
「──俺の家族を見殺しにした、お前らをっ.....!!」
返り血に顔を真っ赤に染めた少年が、凶器と化した傘の刃を、最後の一人に、なんの容赦も無く突き立てた。
──高縄颯太、15歳。
彼の脳裏に浮かんで離れない光景がある。
4月某日、廃墟と化そうとしていた工房にあった、首を吊った父親の死体。
そして祖父の失踪と同時に置いていった置き手紙。
──あるいは気が狂ってしまった母親の姿だろうか。
家庭崩壊と言って差し支えない状況に追い込まれ、親友であり、同じく両親を失い子供の姉弟二人となっていた宮原家に引き取られた後、毎晩寝床でそんな悪夢を見ない日はなかった。
食事は喉を通らず、立ち上がる気力も、あるいは何かを話すこともできず、茫然自失となっていた。
「颯太くん、ご飯できたよ──」
流石に軽い食事や排泄活動は自分で行っていたが、それ以外の時間は、工房の横にある縁側のようなところに腰掛け、何をするでもなく蹲っているだけであった。
食事の用意を済ませた瑞穂が呼びかけるが、颯太はほとんど反応を示さなかった。
「.....」
宮原家も同じく両親が子供を残し心中、辛いのはお互い様のはずだが、姉の瑞穂にとって唯一支えになったのは、その心中に弟の智樹が巻き込まれていなかったことと、現場を目撃していなかったことである。
だが、颯太に至っては父親の首吊り遺体の第一発見者となっただけに留まらず、残っていた肉親は消えたり狂ったりと、誰も残されずに一人になってしまった事が、想像をはるかに超える精神的ダメージを受けてしまっていたのだろう。
(──このままじゃ、また"あの時"の繰り返しだ.....今度こそ取り返しがつかないかもしれないのに、どうして態々子供が見ているところで自殺なんて──)
震える拳を逆の手で握り、壁を殴りたくなる衝動を辛うじて抑える。
保護責任者遺棄致死が転じて保護責任者が致死など、とても笑える冗談ではない。そしてこのままでは、自殺したり失踪したりした親たちのせいで、前者も起きてしまうだろう。
救いようが無かった。一応は親友のよしみで引き取ったものの、治療方法も一切分からない状況で、このままを繰り返していれば衰弱死はほぼ確実であった。
「──ぅ──」
──唐突に颯太が何かを話した気がした。
だが、相変わらず颯太の目には光が無く、その目線も明後日の方向を向き続けていた。
(──どうすればいいの──)
かく言う瑞穂も、再起不能なまでの親友の傷心により口数がめっきり減った弟のことや、無論颯太のことやアルバイト、親の遺産問題もあり、ストレスが溜まり続けていた。
──そんな油断が命取りになったのだろうか。
颯太が宮原家に引き取られてから1週間と少し、この日も動かない颯太を抱き上げては布団まで運び込み、すっかり疲れて瑞穂も寝てしまったのだが──
「──?」
ふと物音が聞こえた気がして、瑞穂は目を覚ました。
別に尿意を催した訳でも無ければ、物音も本当に気の所為レベルに聞こえた程度であり、逆になぜここまではっきり目が覚めたかが不思議な程だった。
(──ネズミ?昨今は絶滅危惧種って聞くけど──)
──ちなみにどうでもいい設定だが、家によく出るド定番として有名なドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミの3種類だが、衛生面の向上等も相まって駆除が進みすぎたせいか、ハツカネズミが絶滅、他の2種もそれぞれ絶滅危惧種1A種に指定されており、2055年現在ほとんどの家庭で確認できない。
それはともかくとして、とにかく瑞穂は気の所為レベルの物音で覚醒し、辺りを見回す。
──異変はすぐに分かった。
(──颯太くん.....?)
先程隣に寝かしつけていたはずの颯太が見当たらない。
とは言え、食事や排泄は自力で行える為、どうせトイレにでも行っているのだろうと──
(──違う──)
──思えなかった。
否定できる根拠は無い。あくまで瑞穂の勘ではあった。
──そして、例の書き置きを見つける。
(──これって──)
真っ先に思い浮かんだ自殺の可能性をすぐに捨て、別の可能性を考えてみようとするが、思い浮かばない。
だが、たった一つだけ、瑞穂の五感に確かに働きかける物証があったのだ。
(──血の匂い──?)
──嗅いだことの無い血の匂いだった。
いや、正しく言えば少し昔に嗅いだような気がしなくもない、どこか懐かしいような、あるいは悪夢が噎せ返るような、そんな血の匂いだった。
(──まさか.....!)
工房にあった非常用のペンライトを取り出すと、確かに足元に血の跡があった。それも、まるで誘導するかのように外へと続いている。
──そして見つけた。明らかに不自然な血溜まりを。
「──なに──これ──」
邪魔な腕や臓物は全て捨てよ。
貴様にとって取るに足らぬものは捨てよ。
その純粋たる邪悪を遂行したいのならば。
──そんなものが書かれ、魔法陣のようなものが書かれた紙を浮かべ、血溜まりができていた。
そこから颯太のものと思われる体の一部が見つからなかっただけでも一安心ではあるが、やはりこの血の匂い──
(──あの時と同じ──颯太くんが壊れたあの時と──)
──8年前、颯太の心は一度、粉々に砕けた。
瑞穂にとっても、あるいは彼の親友である智樹にとっても、絶対に思い出したくもないような事件だ。玄関先に意味深にできた血溜まりが、瑞穂の心の奥に隠していた悪夢を呼び起こし、一気に気分を悪くする。
(──智樹に見つかる前に血は処分して──でも、颯太くんの意思は守ってあげたいから、捜索願は出さないで、なるべく私たちで情報を集めるようにしないと──)
家の外にあった下水道マンホールに血を流し、同じく外にあった水道で血溜まりを洗い流して処分する。
そもそもなぜ血溜まりを残していったかすら分からないが、颯太なりに何かしらのメッセージを込めたのだろうか。
(──もしも拉致だったら、本気で──)
──無意識に、瑞穂の拳がきつく握られていた。
ー‐ー‐ー
──目を覚ましているか、眠っているかも分からない。
ただ颯太の視界に、ぼんやりと寝室が映っており、窓から軽く月明かりが入ってきているのみだ。
そんな颯太を挟むように智樹と瑞穂が眠っているが、その二人を見回す程の気力も存在しない。そもそも起き上がることすら颯太には難しかった。
「──全く、随分と腑抜けた顔じゃナ。」
だが、突如聞こえてきた声が、颯太へ危機感を与える。
見ると、寝室から廊下に続く扉のところに、見覚えのない人物が立っており、颯太の方を見ていた。
「──ダレ.....?」
「誰?ふむ、そうじゃナ。ワシの名前は──まあ、名乗らんでも良い。ワシはただ貴様を迎えに来たのだからナ。」
身長は120センチあるかないか、癖のある高い声で話す少年、あるいは少女だ。
そんな年下の兄弟を持った覚えは無いし、ましてやこんな見た目の人間が知り合いにいたとは思えない。
「──立て、高縄颯太。貴様にはまだ、果たしていない責務がある。そんな醜い姿を晒している暇はない。」
今まで生理的要因で仕方なく動く時しか自発的な行動をしなかった颯太だが、まるで呪詛のように放たれた言葉によって、力を入れずとも颯太の体が勝手に持ち上がる。
「──きみは──だれ.....?」
「──だから、名乗らぬと言っておるじゃろ。人には知られたくない人間だっているのじゃぞ?」
颯太よりも背が低く、髪型に至ってはワックスで固めたとかいうレベルでは無いほどの巨大なお団子を作り、あげく喋り方は"ナ"の発音だけ明らかにイントネーションがおかしい。
色々ツッコミどころはあるのだが、なによりそれを許さないような訳の分からないオーラを放っているのが恐ろしい。
「──さて、高縄颯太。家族のことは気の毒だったナ。べつに、ワシがどう関わっている訳では無いのだが。」
「──」
──不審なのは、なぜこの訳の分からない人間が、颯太の、あるいは高縄家のことを知っているのか、という点だ。
「──そう警戒するで無い。ワシは貴様に、これからの人生を決める権利を与えに来たのじゃ。」
今や自我すら持たない颯太のぼんやりとした意識、だが、そんな颯太の脳内に直接話しかけるかのように、この訳の分からない人間の言葉には、颯太の魂を震わせる何かを持っている。
「貴様の様子をずっと見ていた。なんともまあ、ずっと姉のような少女に身の回りの世話をさせた挙句、自分では移動もろくにしない。その癖食事はろくに口にしない。このままの生活を続ければ、どうなるかなど目に見えておろう?」
──無論、今の颯太に未来予想図などあるはずが無い。
だが、いくら瑞穂が努力しているとは言え、栄養失調を抑えることには流石に限界がある。いずれ何かしらの生活習慣病に罹り、病に倒れることになるのは目に見えている。あるいは、このまま颯太のノイローゼが悪化すれば、餓死も視野に入る。
「──だからこそ、貴様に選択肢を与えよう。」
相手から殺意のようなものを感じた為、思わず後ずさりながら目を閉じてしまう。
そして、次の瞬間、腹部に猛烈な熱を感じた。
「──うっ──うっ.....!?」
「安心しナ、臓器は外して刺した。止血すれば無事に済むだろう。無闇に暴れないようにな。刃先が臓器を傷付けて致命傷になるかもしれんぞ。」
──いきなり腹部を刺され、颯太には恐怖と焦りが募った。
だが、恐らく二人は眠ったままの状況、無闇に動くのは危険だ。そもそも恐怖により体が言うことを聞かない。
「選択肢は二つだ。日本の為に戦うか、今この場で死ぬか。貴様のようなゴミ、どこにいても荷物にしかならんからナ。戦うつもりがないなら、今すぐ死んでもらうぞ。」
──冷酷な言い方だが、颯太には命乞いができなかった。
呪詛のようなこの人間の言葉のせいもあるのだろうが、現状の颯太にとって、"ゴミ"だの、"荷物にしかならない"だの、全く言い返せるような論拠が無かった。
それならばいっそ醜く泣き喚くのは手ではあったが、颯太のプライドのような何かがそれを許さなかった。
「──戦うって言うのは.....誰を相手に.....?」
颯太の声に自我が戻り始める。
「.....ほう、いい質問だ。戦う人間にはそヤツなりの信念と言うものがある。正義でも悪でも、そヤツなりには全て正義なのだからな。」
──人間の正義というのは、得てして戦争へと直結する。
かつて第二次大戦の引き金を引いたナチス、彼らの思想は結果的に現代では否定されているが、ナチスを率いていたアドルフ、あるいはナチ党の人間たちにとって、その思想は正解であり、その思想が正義だと思っていたのだろう。
人間は何も考えていなければ動けない。何かを変えようと決意しなければ動けない。だが、逆に覚悟を履き違えた人間が、その正義を実行するとき、やはり戦争は起こるのだ。
「──俺には、戦う理由があるのか.....?」
「さあな。高縄家を破壊した国を恨むこともできる。だが、ワシが教えられるのは怪物と呼ばれる、人間の皮を被ったとんでもない危険生物の駆除を行う力だけだ。無論だが殺傷能力もある。どう使うかはお前次第だがな。」
──そこまで言われ、颯太は思い出した。
今どうしてこんな醜態を恥ずかしげも無く晒しているのか。
(──そうか、俺のとこもともかく、智樹たちの家をも破壊したのって──)
──その時、颯太の心から、どす黒い何かが発生した。
「──それ、復讐もできる訳?」
「なんじゃと?」
「俺や智樹たちの家を、堺包丁の職人たちを次々と見殺しにしたアイツらに復讐できるのか、そう聞いてる。」
颯太の口から溢れる憎悪、それがどす黒いオーラのようになり、視認できないものの周囲の景色が、更に薄暗くなったように見える。
鬼の顔から、口角が不自然に上がっていることしか読み取れなかったが、それだけで邪悪を感じるには十二分だった。
「お前は復讐に命を賭けられるのか?貴様らの家族を潰し、野垂れ死ぬ職人たちをそのまま見殺しにした人間どもへの復讐に、果たして命を賭けられるのか?」
──颯太は深呼吸をして己に問いかける。
いや、問いかけるも何も、鬼を目の前に、相手からの呪詛のような言葉を心に染み込ませ、深呼吸して澄んだ心で、颯太の心の中の本音を聞き出したかった。
「──賭けたい。もう後は無い。」
瞬時に鬼は、腹に刺さった刃物らしきものを抜いた。
──しかし、颯太の腹部に刺さっていたのは刃では無く、なんと小さな割り箸だったのだ。
割り箸を腹部に刺そうものならとんでもない力とぶれの無さが無いとできないのに、それをあの一瞬、ほとんど感じることもないような軽い力で刺した相手は、やはり只者では無い。
「邪魔な腕や臓物は全て捨てよ。貴様にとって取るに足らぬものは捨てよ。その純粋たる邪悪を遂行したいのならば。」
「──っ.....!!」
唐突に刺された痛みが、颯太を現実に引き戻す。
「もしも変わりたいなら、頭に浮かんだ場所に行き、ワシを見つけるのだ。さすれば貴様に、ワシの力を与えてやろう。貴様の直感を信じるのじゃぞ。」
「──」
──相手の言葉も終わり、颯太が返事を返そうと思った瞬間、目の前にいたはずの鬼は居なくなっていた。
瞬間、颯太の脳裏に直感的にある場所が浮かぶ。
(──直感を信じろ、か──まるで呪詛だな──)
何故か刺された痕は大して痛まなかった。
既に止血が終わっているのか、傷口にはまだ嫌な湿り気は残っているが、既に血は流れていなかった。
(──俺は──)
──宮原家の工房を見て、少しだけ物思いにふける。
正直、あの場を凌いでここに隠れていれば、"あの"鬼にさえ見つからなければ、このままの日々を過ごし続けることも出来なくはないだろう。
あの鬼がどれだけ強いのかは分からないが、瑞穂の力が滅茶苦茶強いのは知っている。そもそも宮原家はそういう家系だ。
(──でもな──)
──はっきり言えることがあった。
なぜ颯太があそこまでボロクソに言われても反論しなかったか、あるいはできなかったか。
(──守り続けられんのは、もう飽き飽きなんだよ.....)
せっかく虚弱体質と虐待による衰弱を乗り越え、人並みくらいの体力と体格は手に入れた。それでいてまだ宮原に守ってもらうつもりなのか。
(──ごめん、智樹、瑞穂姉ちゃん──)
颯太は再び外を見る。
どこに行けばいいのかは分かっている。そして自分にとって邪魔になる邪心を払う為に、今ここで後ろを振り向くのは許されないことだと分かっている。
──だが、急に後ろ髪を引かれるように工房に戻り、紙とペンを取り出して軽い書き置きを残した。
(──俺は出てく。せめて二人は何にも巻き込まれず、平穏な生活を送ってくれ──)
──涙は流せなかった。
ここで涙を流そうものなら、腹に出来た穴が再び痛み、悶え苦しむことになるだろう。
──さよなら、智樹、瑞穂姉ちゃん。




