前途多難⑤
商店街の片隅にあるこじんまりとした喫茶店。ティータイムを過ぎた店内は平日ということもありほとんど客はいない。その奥の簡素な仕切りで区切られたテーブル席で、治と悠は隣り合って腰かけていた。先ほどからスマホで時間を確認したり姿勢を直したりと落ち着かない悠の隣で、治は注文したブレンドコーヒーをのんびりと口にしている。ミサの友人たちの到着までまだ暫くかかるだろう。カップをソーサーに戻した治は、再びスマホの画面をチェックした悠に問いかけた。
「ミサちゃんのお母様って、所謂教育ママさんだったりする?」
「えっ、あ、…そう、ですね。結構そうゆう雰囲気はありました」
はじめてミサの家へ行った時、手始めにミサの学力をチェックしようと簡単なテストを行ったが、懸念されるほどミサの成績は悪くなかった。伸びしろは少しあるが、本人の実力で十分向上していくだろう。家庭教師をつけるほどだろうか…?と思った悠はそれとなく母親に伝えてみたが、母親からは厳しく指導してやってほしいと念押しされた。
「なんか、あの子は国立大に入れるんだから中途半端じゃ困りますって言われましたね。…ミサちゃんは、あんまりいい顔はしてませんでしたけど、」
母とミサの思いに相違があると見た悠は、ミサに本音を聞いてみることにした。勉強で楽しくないことはないか、本当にやりたいことはないのか、母に…伝えていないことはないか。
「…って、他人の俺にミサちゃんが素直に言うはずもなかったんで、はっきりとした答えは聞けませんでしたけど、」
けれど、一度だけそれが漏れ聞こえたことがある。私用で駅前を通りかかった時、友人と遊びに出ていたらしいミサと遭遇した。どう対応するべきか迷ったが、彼女のほうから声をかけてきたのでその場の全員に挨拶もして少し雑談もした。その際、友人の一人が言ったのだ。
『ミサね、先生みたいに、勉強以外でも親身になってくれる先生って素敵だなって、あんな風になりたいって言ってましたよ』
直後、にししと笑みを浮かべる友人の口をミサが塞ぎ、先生今の違うから!忘れて!と頬を赤らめながら訴えてきたので、その話をミサの前で蒸し返すことはしなかった。
「なるほど、教職の道ね。立派な目標じゃない?」
「……でも、結局お母さんにそれを言い出せないまま。…俺はクビになりましたし…」
人様の家庭にいちいち首を突っ込むのが褒められたことでないのはわかっているが、教え子が暗い表情でいたのをどうにもできなかったモヤモヤは残っていた。この間遭遇した時は、もう一度助け船を出せるチャンスだったのではないか。……いや、あの時はいろいろとカミングアウトされて混乱していた自覚はあるし、どちらにしろ大した事は言えなかっただろう…。…そもそも、自分に的確なアドバイスを告げるスキルはあるのだろうか…。悠の口からため息が出た。
「……母親に自分の進みたい道を言うって、そんなに難しいんすかね」
「……まぁ、ご家庭それぞれ事情は違うからね」
「……俺、高卒で仕事するって家を飛び出したんですけど、」
「あらま」
「…母さんは、アンタは一度決めたら聞かないから、死にさえしなければ良いよ。って、ちょっと下手くそに笑いながら送り出してくれました」
「………素敵なお母様だね」
「………………」
「………………」
「…………今度、久し振りに実家帰ろうかな…」
「……良いんじゃない?休暇申請は早めに出してね」
ちなみにバスとか電車とか、ウチの観光事業部でチケット予約したら社割が効くよ。と言いながらコーヒーカップに口をつける治にマジっすか!?と悠が勢いよく振り向いたところで、喫茶店のドアベルが賑やかな音を立てミサの友人たちの来店を知らせた。
「あぁ~遅くなってごめんなさい…!」
「みかっちが先生に捕まるからー!」
「そんなに時間とられてないもん…!」
「ゆきりんだって先輩と話し込んでたじゃん!」
「あれは必要な情報を入手してたの!」
「あ!っていうかビッグニュースなんだけど悠ちゃん先生聞いてくれる!?」
「あの、とりあえず3人とも座って…?」
店に飛び込むなり勢いよくしゃべりだした彼女たちの勢いに圧倒された悠は目を点にして固まり、ぱちぱちと目を瞬いた治は会話が一段落したところでおずおずと着席を促した。はいはーいと素直に着席した彼女たちはそれぞれノートやスマホを取り出すと、それらを治と悠の前にずいっと差し出した。
「私たち、家に帰ってから自分たちでいろいろ考えて調べてみたんです。ミサがどうしていなくなっちゃったのか。事件に巻き込まれたのか誘拐されたのか、」
「家出の可能性もなくはなかったけど、だとしたらミサは私たちの誰かの家に来るだろうなと思って。去年、お母さんと喧嘩したって言ってた時はまりっぺの家に泊まりに来てたし、」
「だから、事件性の方を疑って、ミサが居なくなった日になにか起こってないか、何かを見た人が居ないか、SNSとか学校の裏掲示板とか片っ端から見て回ったんです。…そしたら、怪しい人が一人居て…」
そう言って、先ほどゆきりんと呼ばれていた少女がスマホの画面を表示させると、プリクラの画像らしき少し加工された茶髪の男の画像が表示された。拡大されたその画像をスライドすると隣に映っているのはミサで、男とそろって笑顔を浮かべている。彼女たち曰く、この男はミサが昨年交際していた2つ上の先輩で、しかしその期間は一か月ほどと短かった。何でも、少々強引に交際を申し込んできた男が、身勝手にも浮気をした挙句あっさりとミサを振ったという。ミサから男の話を聞いていたという彼女たちは、当時のことを思い出したのか怒りに顔色を赤くしていた。
「…で、最近この男がミサにヨリを戻そうって言い寄ってたらしくて、」
「もちろんミサは断ったって言ってたけど、…その話を聞いた少しあとからかな、ミサ、なんだかため息とか増えてた気がして…」
「その時点でめちゃくちゃ怪しいんですけど、最近そいつが学校の近くをうろついてたって目撃情報がたくさんあって……ミサが、居なくなった当日にも」
「なるほど、この男がミサちゃんを連れ去った。…っていう可能性はあるね」
仕事用のタブレットを取り出しメモや調べ物をしながら話を聞いていた治は、その男のほかの写真、出来れば最近のものがないか尋ねた。彼女たちがSNSを辿って見つけたという男の友人のアカウントを教えてくれたのでそれを開けば、はじめの画像とは印象の違う、どんよりと淀んだ目付きの男の姿が数枚確認できた。それらを順にみていた治は、一番最近の写真に目を止めて眉を顰める。
「…一度、この人に接触できないかな…。居住地とか、良く行く場所とか、知ってることはある?」
治の言葉に、3人は顔を見合わせると眉を寄せておずおずと切り出した。何でも、それを調べようとしたが居住地を知る人物は見つからず、通っている大学もここ数週間は顔を出していないとのことだった。不甲斐ないと言わんばかりに俯く彼女たちに、なるほどとそれを聞く治は、それがわかっただけでもすごいことだと彼女たちにお礼を言う。
「僕らじゃミサちゃんの交友関係は把握しきれないし、一晩でこれだけの情報を集めることも、ましてやこの人を見つけ出すこともできなかった。ここまでの働きはキミたちにしかできないことだし、それは誇っていいことだと思うよ」
それぞれと目を合わせて、ね?と微笑んで見せた治に、沈んでいた彼女たちの表情は明るさを取り戻し、治の正面に座っていた少女は次第にその頬をぽおっと赤らめ慌てて俯いた。
「ちょ、ヤバイ…!そんな場合じゃないのにこれはときめく…!ヤバイ…!」
「まりっぺがイケメンの微笑み爆弾にやられた…!」
「ちょ、落ち着いて!?顔真っ赤じゃんほっぺ冷やす!?」
「…あの、ごめん…。とりあえず冷たいものでも飲む…?」
気が利かなくてごめんねと苦笑した治がそっとメニュー表を差し出すと、顔をあげたまりっぺと呼ばれた少女は、治と目を合わせた途端に隣の友人の肩に顔を埋めた。
「……罪作りな顔面ですね」
「…面白がってるなら怒るよ?」
「ゴメンナサイ」
―――――――
―もう嫌、怖いよ…!
――怖い…助けて…誰か、助けてよ…!
『あぁ、見つけた…。大丈夫だよ。もう少し待ってて』
「――!」
頭をそっと、誰かに撫でられた気がする…。ふっと目をあけると、閉め切られたカーテンの隙間から朝日が差していた。頭からすっぽり被っていた布団は鼻のあたりまでずり落ちていて、寝ていた布団と古い畳が視界に入る。精神的に追い詰められていて寝付けるはずもないと思っていたけれど、目を閉じているといつの間にか睡魔に飲み込まれていたらしい。…そろそろ体力的に限界が近いのかもしれないと不安になりながら部屋を見渡したミサは、この部屋の主の姿が見えないことに気づきがばりと跳ね起きた。
――うそ、もしかしてアイツ出かけた…?
―――ひょっとして、逃げるなら今がチャンスかも…!
ここに監禁されて何日経ったのか、1日2日程度ではないだろうけれどもうわからなくなってしまった。確認しようにもスマホなどの私物はすべて取り上げられてしまったし、お手洗い以外は布団一枚分のエリアから出ることを禁じられた。言いつけを無視したらどうなるかは、初日に刃物を突き付けて忠告されたのでよくわかっている。
けれど、アイツの目がない今ならば…!一番近くにあった窓に駆け寄ったミサは、乱雑にカーテンを開いて少しさび付いた鍵に手をかける。ぎしぎしと動きの悪いそれが徐々に開いていくのを見てもう少し…!と力を籠めると、指先がじくりと痛み出し血が滲んだ。どこか鋭利な部分に引っ掛けてしまっただろうか。でももう鍵は開きそうだと意気込んだミサは、背後で何かが落ちる物音を聞いて全身を硬直させた。
「…何、やってんの」
「…っあ、」
冷静で淡々とした口調が恐怖心を煽る。ブリキ人形のようにゆっくりと後ろを振り返れば、にっこりと笑みを浮かべたこの部屋の主、ミサの元交際相手の男が立っていた。
「逃げようとしたの?俺から離れんのは許さないって、ずっと言ってるよね」
「ち、違う…!」
「あ、怪我しちゃってんじゃん。手当してやろっか」
「いらない…!」
笑顔のまま近寄ってくる男に狂気を感じ、じりじりと後ずさったところですぐに窓に阻まれてしまう。いとも簡単に捕まえられた手首は、ぎりぎりと痛いほどに握り締められて小さく悲鳴が漏れた。
「そうそう、俺良いこと思い付いたんだ」
「は…?」
「言葉で逃げんなって言っても、ミサは言うこと聞かないじゃん?だからさ、逃げる場所を失くしちゃえば良いやって思ってさ」
「どう、ゆうこと…?」
「お前の家族や友達を、消しちゃえば良いよねってこと」
ミサの耳元で囁いた男は、顔を青ざめて目を見開くミサの表情を見て可笑しそうに笑うと、くるりと踵を返した。部屋の入り口で先ほど落としたであろう袋を漁ると、きらりと光る刃物を取り出し懐に仕舞う。鼻歌交じりに部屋を出ようとする男の行く先は、家族の元か友人の元か。
みんなが危ない…!男を止めなければとミサは駆け寄った勢いのまま体当たりする。僅かによろけたところを引き留めようと服を掴むと、大きく振り払われた拍子に廊下へ尻餅をついた。
「っんだよ邪魔すんじゃねぇよ…!」
「やめて!みんなには何もしないで…!」
立ち去ろうとする男の足になおもしがみつくミサを、男は苛立ちながら振り払う。狭い廊下の壁に背を打ち付け怯んだミサを見下ろし足を持ち上げた男は、その細い体躯に容赦なく振り下ろした。
―――ぴんぽーん
「………あ?」
少し音割れした耳障りなインターホンの音に、男は振り下ろす足をぴたりと止めて振り返った。少しの沈黙の後にもう一度鳴ったインターホン。続けて宅配業を名乗る男の声が聞こえて男はちっと舌打ちをこぼし、ミサを部屋に押し込んで物音を立てるなと忠告する。こくこくと頷くしかないミサは、雑に閉じられた扉の隙間から玄関を開ける男の様子を窺った。
「ちわー。交流屋ハヤブサ便ですー。お荷物お届けに参りましたー」
「…どーも」
こちらに受け取りのサインお願いしますー。となんだか間延びした声で告げる配達員は、帽子を目深に被って俯き加減なので、笑みを浮かべる口元くらいしか認識できない。やがてサインを受け取った配達員は、背後に置いてある腰下ほどの高さの箱を抱え上げると、よろりとふらつきながら告げた。
「こちら大変重たいのですが、こちらでお渡しでよろしいでしょうか?良ければご指定の場所まで運びますよ?」
「あ?じゃあ……そこのキッチンの端に置いてくれ」
「かしこまりました。失礼いたしますー」
部屋に人を入れることを躊躇した男は、けれど労力を使うことを嫌ったのだろうか、玄関すぐのほとんど使われていないキッチンを指定した。そろりと入室する配達員が慎重に荷物を降ろすのを見て、ミサを隠すように廊下に立ち塞がった男はふと怪訝そうに眉をよせた。……あれ、最近そんな大きな買い物をしただろうか?箱に笑みを浮かべるロゴが印字されたその通販サイトは良く使うが、これだけのものを購入して覚えがないのはおかしい。すぐさま配達員を押し退け宛名を確認したがそこには自身の名前とここの住所が記載されていて……けれど…思い出した。
「おい、お前」
「はい、何でしょうか…?」
「お前、ほんとに宅配業者か?」
「えーと…どうゆうことでしょう…?」
男の低い声に配達員は怯んだのかじわじわと後ずさる。けれどそちらはミサのいる部屋の方で、その足を止めようとした男は配達員につかつかと歩み寄りその胸倉を掴んだ。ひっと小さく悲鳴を上げて必死に視線を逸らすその横顔を覗き込んで男は確信した。
…こいつは、俺が憎んでるあの男だ、
「――っ先生!?」
「やっべ、」
「てめぇ…!」
目を見開いて拳を振りかぶる男の手を何とか逃れた配達員は、けれど逃げる際に帽子を落としてその正体を明かしてしまう。扉の隙間から一部始終を見ていたミサは思わずその敬称を呼んでしまった。その声に振り向いた悠は、扉を蹴破る勢いでミサに駆け寄った。
「作戦変更プランE!」
「ふざけてんのかてめぇ!」
「僕はいたって真面目なんですが」
「あぁ!?」
激昂した男は、ミサを背に庇うように対峙する悠を睨みながら、懐にしまっていた刃物を取り出す。気休め程度につけられた簡素なカバーを取っ払って向かっていこうとすると、背後から第三者の声が聞こえて利き腕を取り押さえられた。振り向くと、右目に眼帯をした長髪の男がにっこりと笑みを浮かべて男を見下ろしていて、あっという間に壁に体を押さえつけられた。
「ナイスタイミングです!」
「ナイスじゃないよほんとに…」
「せ、先生…?なんで…?」
呆然としたまま目の前の背中に手を伸ばしたミサは、振り返った悠が目を合わせて、怪我はない?怖かったね、よく頑張ったねと声をかけるのに頷くので精一杯だった。あぁ、ほんとに先生だ。助けに来てくれたのだろうか、これで助かる…。ぶわりとこみ上げる涙が頬を伝ったところで、がたがたと物音と大きな声が部屋に響く。怯えるミサが悠の背中越しにそちらを見ると、治に取り押さえられていた男がなりふり構わず暴れて大声をあげていた。
「お前!ミサに触んじゃねぇ!!また俺から奪うつもりだろ!?そうはさせねぇぞ!!!」
暴れる男はついに治を振り払い、悠とミサに向かってきた。血走った目の男からミサだけでも庇わないと…!と身構えた悠は、目の前でガクリと倒れた男に目を見開き、顔をあげた先に暴れる男を片手で押さえつける治を見て混乱した。…男が、2人…!?
「はぁ、びっくりした」
「えっ、ちょ、何が起こったんすか!?」
「ちょっと押さえてらんないから、一旦身体から魂引っこ抜いた」
「何してんの!?」
「大丈夫大丈夫。すぐ戻すから」
そう言ってへらりと笑った治は、悠に男の身体を拘束させるとその魂を身体に戻した。ショックを受けたのか一時的に気を失っている男を取り敢えず放っておいて、改めてミサの無事を確認すると、目立ったケガもなく、食事なども最低限は与えられていたらしく元気そうだった。
「先生、どうしてここがわかったの…?」
「ミサちゃんの友達のおかげだよ。あの男が怪しいんじゃないかってとこまで情報を探ってくれて…」
喫茶店を出てから行動を開始した治たち、そこからの進展は早かった。交流屋の優秀な幽霊達に男とミサの情報を通達し一斉捜索。壁や障害物をものともしない彼らはあっという間に男の居住地を見つけ出し、そこに監禁されているミサも発見した。警察に通報する前に突入する形になったのは、男のそばに居ると思われていたスズキさんの姿が確認できなかったので、警察より先に男と接触して手掛かりをつかむためだった。…そう、未だスズキさんは見つかっていない……。
神妙な面持ちで部屋を見まわしていた治は口元に手を添え思案する。SNSで男の姿を見たとき、画面越しで見えにくかったが確かにスズキさんの姿を確認した治は、男の悪意にスズキさんが捕らえられているのだと思っていた。けれど、その姿はこの部屋にはなく、男が別に住居を持っている可能性は低い。だとすれば、考えられる可能性は……?
思い当たった最悪の可能性に治が息をのむと同時に、ぞくりと背中を這う寒気と足元から冷たくなっていくような感覚に悠は冷や汗をかきながら部屋を見渡す。一番冷たい空気を感じる場所へ目を向けると、気を失っているはずの男の体から黒い靄が立ち上っているのが見えた。
「えっ、これって…」
「ミサちゃんを頼むよ!」
「は、はい!」
黒い靄はずるずると人の形を成していき、それが大きくなるにつれて部屋全体ががたがたと揺れだした。靄を視認できないミサも、揺れる部屋とただならぬ雰囲気に怯えて悠に縋り付く。男からなるべく離れようと悠がミサを部屋の隅へ誘導したところで、深く息を吐いた治が靄を右手で掴んだ。
――あ゛あ゛あ゛あ゛あああああ…!
ぶわりと広がる靄とともに、耳をつんざく不気味な叫びが聞こえる。もがくように蠢く靄は治を覆い隠すほどに大きくなり、かろうじて白髪交じりの頭部が見え隠れしている。思わず声をあげる悠にこちらへ近付くなとだけ忠告した治は、自ら靄の中へ姿を消してしまった。
―ミサ…ちゃ…
――あぁ…オレのミサちゃん…
「誰があなたのものですか。彼女は現世を生きる平凡な少女ですよ。あの世の住人となったあなたが干渉して良い人ではありません」
―違う…!彼女は、オレの恋人だ…!
――早く、アイツから取り戻して、オレが幸せに…
「あなたが恋人と離別したのは10年も前、ちゃんと別の方と幸せな家庭を築いていらっしゃいますよ。大人しくあの世に帰りましょう」
――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ…!!
治の言葉に拒絶の言葉を繰り返す靄は、スズキケイタその人だった。悠がその姿を認識できるほどにはっきりとした形になった彼は、靄の中から悠を睨みつけるとまっすぐに手を伸ばしてくる。肥大化した手からミサを庇おうと覆いかぶさる悠を見て舌打ちする治は、間に合わないとわかっていても必死に自分の手を伸ばした。
――バチィ…!
「「!!?」」
『悠ちゃん、立派になったねぇ。もう、一人でも大丈夫かね』
優しい声とともにふわりと頭を撫でる手は、シワの多くて少し体温の低い、懐かしいあの手だった。
見えない壁に盛大に跳ね返された靄は、治に再び捕らえられた。床に押さえつけられたスズキさんからはみるみるうちに靄が消えて行き、やがてぐったりとその場に横たわる。治からもう一度あの世に帰るよう忠告された彼は、力なく了承の返事をした。
「…ばぁ、ちゃん…」
ぽつりと呟いて悠が見上げた先には、ただ古い木の天井があるだけだった。
――――――