愛縁奇縁②
思えば、社長の事を何も知らないんだと、治は自分のことながら絶望した。
名前も年齢も誕生日も血液型も知らない。20数年間息子として生きていながら、そんなおかしな話があるだろうか。……好きな食べ物は知っている。嫌いな食べ物も運動が苦手なことも、野球観戦が好きなことも、晴れの日より雨の日が好きなことも。
けれど、そんなことを知っていたって、こんな時には何も役に立たないじゃないかと、治はぎゅっと拳を握り締めた。
部屋の中央に位置する寝台に横たわる社長は、トレードマークの黒い服も帽子もサングラスも身に着けていない、見慣れない姿だった。白い枕にシーツ、白い病衣に身を包んでそこに横たわる社長は、近付いてみると透明なガラスケースのようなものに囲われていることに気付く。そこから伸びる幾本かの透明なチューブは枕元に設置された機器と小型のパソコンに繋がっていて、その画面は何らかのデータを延々と書き出している。一体何が書かれているのか…と画面をのぞき込もうとした治は、社長の身体を覆う透明のケースが、驚くほどひんやりと冷たいことに気が付いた。
「……これは、」
「これは我々が開発した保存用ポッドです。中にあるものの腐敗、劣化速度を限りなく鈍化させるよう、常にコンピュータが温度・湿度・気圧などを最適な状態に保っています」
「えっ!?待ってください、それってつまり……」
「あらやだ、勝手にボクのお部屋に入っちゃうなんて~えっち♪」
異常に冷たいポッドに入った社長の身体、腐敗や劣化を鈍化させるという生きている人間には早々必要のない処置、そして清潔すぎるこの空間。受け入れがたい答えに辿り着いて身体を強張らせた治と悠の背後から、場違いな声が陽気に響く。弾かれたように部屋の入り口を振り返ると、いつもの黒ずくめに身を包んだ社長が呑気に手を振っていた。
驚いて寝台と背後を見比べる悠をよそに、俯いた治はぐっと唇を噛み締めると無言ですたすたと歩き出す。あっという間に社長に詰め寄った治は、真っ黒い襟元を勢いよく鷲掴んだ。
「っどうして!!」
「…………」
「アンタ、何やって…!っていうかいつ、なんで…僕、なにもしらない、」
社長に詰め寄った勢いは最初だけで、治の声色はあっという間にしぼんでか細くなった。俯く治の肩は小さく震えていて、困ったように笑ってその肩に触れる社長の手は、するりと治の身体をすり抜ける。そんな己の手を見つめて唇を引き結んだ社長は、今度は治の背中をなぞるように撫でてゆっくりと息を吐いた。
「……黙っていてごめんね。ちゃんと話すよ。ボクが死ぬまでと、死んでからのこと」
―――――
数年前、とある病院の一室で、社長はめずらしく動揺の色を隠せないでいた。最近ちょっと体調が悪いかな?くらいの気持ちで病院に来ただけだったのに、不意に医者の顔色が変わって大袈裟な検査が始まって、長い拘束時間を経てからのこれである。風邪ですねお薬出しておきますねくらいしか想定していなかった社長にとって、まさに寝耳に水だった。
「余命…1年…?冗談ですよね…?」
「いいえ、冗談ではありません。もう少し早く気付いていれば完治の可能性は十分にありましたが、こうも病状が進行していては……」
ちらりと見えたカルテに書いてあることも、モニターに映し出されたレントゲン写真のここそこに影があるだのという説明も、全然頭に入って来ない。覆ることのない命の終わりを社長がなんとか飲み込んだのは、呆然としたまま帰宅した当時の自宅で、狭間支店の店長に就任が決まったばかりの治に出迎えられたときだった。
「おかえり、父さん。どうしたの?」
「…ん?」
「なんか、ちょっと元気がないように見えたから。大丈夫?」
「大丈夫大丈夫!僕はとっても元気だよ!」
「ならいいけど…」
「ちょっとね…こうして、きみに出迎えられることももうすぐなくなっちゃうんだ…と思うと……寂じぐでぇ…!!」
「ちょっ、何で泣くの!?成人過ぎた息子が自立して家を出るだけでしょ…!!」
いつまでたっても親バカなんだから…!と、この時の治がそう解釈してくれて、社長はどこかほっとした。自分はあと1年くらいの命なんだと、きみを1人残して消えてしまうのだと、当時は到底言える気がしなかったから。
「あの時は…っていうか、こんなことにならないと伝えられないくらい、ボクはキミに別れを告げるのが怖かったんだ」
「そんな、」
「だって、キミって一人になったらすぐ死んじゃいそうなんだもの。昔からボクも友人も気が気じゃなかったんだから」
放っておいたらすぐに消えてしまいそうな小さな命。治と出会ったときの印象を、社長は今でも拭いきれていなかった。大人になったことで、片時も目を離せないなんてことはなくなったけれど、社長以外の人間との繋がりを何となく避けている気がしたのは、あながち間違いではないのだろう。学校や塾に通わせてみたって、部活動やアルバイトを勧めてみたって、社長が仕事場にちょくちょく連れ出してみたって、ほとんど交友関係の広がらなかった治は、まるで現世との繋がりを作らないようにしているようにも思えた。……自分が、いつ消えてしまっても良いというように。
「だから、ボクはとても焦ったよ。キミをこの世に繋ぎ止めている人間がボクだけなんだとしたら、このまま大人しく死んでいられないもん。せめてボクの代わりにキミの生きる理由になってくれる人が現れるまで、ボクはこれを隠し通そうと決めた」
ハルが居なくなったとき、治の世界から確実に大きなピースが消えてしまった。果たされるかもわからない再会の約束では、その穴を十分に埋めることはできないと社長は理解していたから、それを補える何かを見つけたかった。それに、ハルと治と社長と、たったの3人だけの小さな世界にいつまでも閉じこもっているのはもったいない。できれば、治にはもっと広い世界を知ってもらって、世界は、世の中は、まだ治の知らないあたたかさと優しさに溢れてると知って欲しかった。
「…勝手なことを言ってる自覚はあるよ。でも、たった一人の息子が、たくさんの人とたくさんの幸せにかこまれて、どうか長生きしてくれますようにって、父親が思うのはおかしいかな」
「……そんな、僕は…もうあのときから、十分しあわせで、」
「いやいや、それじゃ足りないよ。ボクが安心して、満足して、キミのそばを離れるにはぜんっぜん足りない」
だから社長は、生きているうちにできることを必死に探した。治に良い出会いがあるようにと、自分が信頼している友人知人や部下などの関係者と積極的に引き合わせた。なにか縁が繋がるきっかけが増えればいいと、交流屋の事業数や店舗数を大きく拡大した。
「幸運なことに、ボクはどの縁が良いものでどの縁が悪いものか見分けることができたから、キミにとって良いご縁を今までいっぱい繋いできたんだよ?……でもね、全然上手くいかないの。繋いでも繋いでも、どんどん切れちゃってさぁ……。まぁ、そりゃあそうだよね…ボクが無理矢理結んだ縁じゃ意味がなかったんだ。キミが自分で繋ぎ止めたものじゃないと」
だから今度は、生きている時間が少しでも長くなるようにと、腕の良い研究者たちを集めて施設を作った。どうにか病を完治させる方法がないか、快方に向かう方法がないか。……もし、生きながらえなくても、どうにかして死後も治のそばに居られる方法がないかを探した。
「それで、この施設を買い取って秘密裏に人を集めて治療法を考えてもらって、同時に、死んだ人間がどうやったら生きている人間と同じように生活できるかも模索した。後者の答えは…キミたちなら思い当たることがあるんじゃないかな」
そう言われて治と悠は目を見合わせる。二人の脳裏に同時に思い浮かんだのは、昨日新たな旅路へと見送ったばかりのレンの姿だった。可那子の開発した"霊体実体化パウダー"とやらで一時的に生身の身体を手に入れたレンと、一日中遊園地で遊びつくしたのは記憶に新しすぎる。けれど、レンが使用したのは可那子が作成した改良型で、前作は欠陥が見つかったうえに所在が分からなくなっていたはずだった。
「隠していてごめんなさい。どこかに失くしちゃったっていうの、あれ嘘なんです」
二人の思考を中断した声は、いつの間にか扉の前に立っていた可那子のものだった。いつもよりくたびれた様子の可那子は、治と目が合うと眉尻を下げて苦笑する。それからゆっくりと頭を下げた可那子は、白衣のポケットから濃紺色の粉末が入った小瓶を取り出して治に手渡した。
「そちらが、社長さんが使っている"霊体実体化パウダー"です。効果時間は一回の使用につき約一週間ほどですが、身体のどこか一部が上手く実体化できないという欠点があります」
「まぁ、ボクの場合は普段の服装がこんなだからさ、そこはそんなに問題にならなかったわけだけど」
「…まって、じゃあハカセは、社長さんが…こんな状態だって知ってたの?」
おそるおそる口を開いた悠の問いかけに、可那子は治の顔をじっと見つめてから頷いた。それから、社長にスカウトされた時点で研究開発を依頼されていたこと、研究内容と社長の秘密について、この施設のメンバー以外に他言しないと誓約を交わしていたことを明かした。
「本当は、私もずっとここの研究員として働く予定でした。ですが、社長さんの体調が思った以上に芳しくなく、早急に"霊体が現世で問題なく過ごせる術"を探す必要があり、より霊体とあの世の情報が集まりやすい狭間支店での勤務が決定しました。
……ずっと、あなたの近くに居たのに、たくさんお世話になったのに、こんな大事なことを…隠していてごめんなさい」
ぐっと歯を食いしばった可那子の目尻は、ほんのりと赤くなっていた。目一杯に潤んだ瞳からは頭を下げたはずみで雫がこぼれて、それがとめどなく頬を濡らしていく。それを見て天を仰いだ治は、一度大きく深呼吸すると、ポケットから少しよれたハンカチを出して可那子の顔に押し付けた。
「……隠されててショックだったって気持ちと、そんな秘密を背負わせて申し訳ないなって気持ちと、それを抱えながらも一緒に働いて、そばに居てくれたことへの感謝が、いま心の中でごちゃごちゃしてる。整理するのにちょっと時間がほしいけど、きみを責める気持ちはないから……だから泣かないで」
静かに涙を流していた可那子が、ハンカチに顔を埋めた途端に嗚咽を漏らす。泣き顔を隠すようにハンカチごと顔を覆って俯く可那子の頭をぐるんと回すように撫でた治は、その様子をじっと見ていた社長に目を向けた。
「……それで、いろんな人を巻き込んでまで生きているように偽装してたのに、どうして今こんな事に?」
「ふふ…そうだね、きっとボクがそんなことをしているのがバレちゃったから、神様が怒ったのかもしれないね」
寂しそうに口元に笑みを浮かべた社長は、徐に服の袖を捲って手袋を外す。そこに本来あるはずの手は見当たらなくて、社長は怪訝そうにする治が手に持つ"霊体実体化パウダー"をそこに振りかけるように指示した。言われた通りに小瓶の蓋を開けた治は、そっと濃紺色の粉を社長の手がある"はず"の位置へ振りかけていく。本来であれば、魂に付着したところから色付いていくはずの粉末は、何にも触れることなくぱらぱらと床に落ちていった。
「……これは、」
「魂がね、崩れ始めてるみたいなんだ。はじめはちょっと指先の感覚がなくなったかな?ってくらいだったんだけど、だんだんと手が無くなって足が無くなって……一昨日、ついに頭の一部が消えちゃって、ちょっと人前に出るのも危ないかなって状態でさ」
魂が崩れて形が無くなってしまっては、そこにパウダーを振りかけたところで可視化するものがない。そっと帽子を脱いだ社長の頭部は、一部が透けて向こうの景色が見えてしまっていた。これが、もし、もっと、広範囲に浸食していったら……。最悪のもしもが容易に思い浮かんで、治はきゅっと唇を噛んだ。
「……このまま現世に留まっていたら、ボクの魂はきっと崩れて消えてしまうと思う。施設のみんなもどうにかできないかって頑張ってくれたけど、多分、もう限界だ」
――だから、ボクの存在が消えてしまう前に、ちゃんとお別れをしようか。治くん。
「……………………そんな、」
「本当はね、ボクだって、キミがあの店で楽しそうに仕事してるの、もっともっと見ていたいよ」
「……………………」
「キミと美味しいものを食べたいし、いろんなところへ行きたい。……そういえば、結局ハワイの視察ついでに旅行に行こうって話、二人とも忙しすぎてポシャっちゃったねぇ…」
「……………………」
「狭間支店の店長、続けても良いし辞めても良いよ。あれはキミのために整えた店だから、キミがやりたいようにしてほしい。でもね…ボク、キミたち3人が居るあのお店の空気が大好きだったから、あの場所だけは残しておいてほしいかな」
「……………………」
「キミはボクの世話をよく焼いてくれてたけど、可那子クンにまでそれを発揮してくれたのは嬉しい誤算だったなぁ。今思えば、はじめてできた妹みたいな相手だったのかなって思って、息子の成長を感じたねぇ」
「……………………」
「悠クンもね、スカウトして本当に良かったって思うよ。ちょっとドジで可愛らしいところはあるけど、キミのために、誰かのために一生懸命になれる子だから、なんでも抱え込んじゃうキミの相棒には最適なんじゃないかな?」
「……………………」
「…まぁ…要するにボク、三人で居るあのお店を見てると、あぁもうキミは大丈夫だなって思ったんだ」
……だから、自分は何の心残りもなくここから去るのだと、治には社長がそう言っているように聞こえた。
あぁ…もうどうして、こんな唐突に…別れはやって来る。せめてもう少し心の準備をする時間をくれ。ハルさんが別れを告げるときに白い目で見ていたアンタは何だったんだ。むしろとっくに死んでいたなんて、アンタの方がたちが悪いだろ。…ほんとうに、いつもいつも勝手で強引で自由奔放すぎる人だ。
……だけど、その言動の根底にはいつも、治を想う気持ちがあることを、もう知ってしまった。
「……ずるいじゃないか、そんな言い方。こんなにも辛くて、胸が痛くて苦しくて死にそうなのに、ここにある大事なものたちを、あなたにもらったものを、残したまま死ねないよ…」
俯く治の足元に、ぽたりと一つ雫が落ちた。胸元をぎゅっと握り締める治の肩が震えて、また一つ二つと雫が増える。思わず駆け寄った悠と、涙を拭いながら鼻をすすった可那子が治の隣に寄り添うと、そっと両隣に目を向けた治は、ふっと笑うように息を吐いて、それから二回深呼吸した。
「……はぁ、アナタに振り回されるのも、これできっと最後なんでしょうね」
「……ふふ。ボクのこと、ちゃんと見送ってくれる?」
「………当たり前でしょう」
ごしごしと乱暴に袖で目元を拭って顔を上げた治の瞳は、大きな覚悟を宿してきらりと輝いていた。
その日、朝日が昇るころに、社長の身体は火葬された。火葬を待つ間に見上げた空には、薄明るくなる雲間に射す朝日が天へ上る道を作っているように見えて、そこに天国などはないとわかっていても、治はどうか無事に旅路を終えられますようにとこっそり祈った。
いってらっしゃい。僕はもう一人じゃないから、大丈夫だよ……父さん。
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