愛縁奇縁
社長が一昨日から会社に来ていないらしい。
そもそも社長は自由気儘傍若無人が服を着て歩いているような人間だが、やはり一企業のトップであるためか社内の人間にスケジュールはしっかりと共有しているし、それを無断で捻じ曲げるようなことはしない。……治にはよくアポなし突撃をかましているが。
にもかかわらず、ここ数日は会議や店舗視察の予定を急にキャンセルして休んでいる。体調でも悪いのかと心配した秘書が自宅を訪ねるも留守にしているし、メールや通話で連絡は取れるものの、通話先の音声はノイズがひどく聞き取ることもやっとだという。何度連絡しても社長本人が大丈夫だと言い張るので追求はしていなかったが、もしや連絡はできても身動きの出来ない場所に監禁されているのでは…?と秘書課の人間たちの間で誘拐疑惑が立ち上がり、不安になった近藤は居ても立っても居られず治に連絡をしたのだった。
「……わかりました。こちらからも社長や思い当たる関係先に連絡を取ってみます。何かわかりましたらお知らせしますので」
『承知しました…!こちらも、業務に支障のない範囲で捜索を続けます!』
「ありがとうございます。ですが、皆さんくれぐれもご無理のないように。続報などあればまた連絡をください」
『はい!』
通話を切ってふうと深いため息を吐いた治は、目の前で不安そうに眉尻を下げる悠と視線を合わせた。途中からスピーカーで通話していたため悠もおおよその事態は把握できているが、だからこそこの非常事態に危機感を覚えている。そんな悠にひとまず外出の準備を整えておくようにと指示を出した治は、念のため自分からも社長に電話をかけてみた。
『はぁーい!もしもし?朝早くからどうしたの?』
「おはようございます、社長。今、お時間よろしいでしょうか」
『うん。少しだけなら大丈夫だよー』
治からの着信に3コール程で応えた社長は、いつものように軽快な受け答えをしている。けれど会話を続けるうちに、その声にときどき不自然なノイズが混じり聞き取りづらくなるのは、近藤が言っていた通りだった。社長のいつも通りの声色さえ、何かを隠しているように感じる…と訝しんできゅっと眉間にシワをよせた治は、会話が途切れたタイミングで小さく咳払いをして少しだけ居住まいを正した。
「…ところで社長、今どこに居るんですか?」
『うん?』
「先ほどから音声にノイズが混ざっていまして……またどこか辺鄙な山の中にでもいらっしゃるんですか?」
『あ、ほんとにー?おかしいなぁ。ボクの方では問題ないんだけど、スマホの調子が悪いのかなぁ』
あれぇ?と大袈裟にとぼけたような社長の声の奥から、がさがさと衣擦れや何かをいじくる音がする。次第にそれらが大きくなって、ノイズと重なりもはや騒音と呼べる音量に思わず治がスマホを耳から遠ざけた直後、ぴろりと低い電子音を残して通話は途切れてしまった。
「…………」
「……電話、切れちゃったんですか?」
「うん。ものすごいノイズで声が聞こえなくなってそのまま…。電波の届かないとこに居るなら電話した時点でわかるだろうし、社長もそうは言わなかったんだよね。だとすると……電波を妨害されてる、とか、他に強い電波を発するものの近くに居る…とか」
顎に手を添え考え込む治の手元で、スマホが小さく震えた。画面を見ると社長からメッセージが届いたことを知らせていて、すぐさまそれをタップすると社長からの簡素な文章が表示された。
”電話きれちゃった、ごめんね!”
”スマホの調子が悪いみたいだから、直ったらまた連絡するよ!”
「………おかしい」
「へ?」
「やっぱりおかしい。なにかあったんだ」
「え、で、でも…スマホの調子が悪くなることくらい、あるんじゃないですか…?」
「違う。メッセージがいつもの社長らしくないんだ」
「そうなんですか?」
「あの人、僕へのメッセージがこんなに静かだったことないもん…!」
そう言われて見せられた過去の治と社長のやり取りは、顔文字絵文字でカラフルに装飾された社長からの大容量メッセージに、治が簡素に”はい””そうですか””良かったですね”などと返答する温度差の激しいキャッチボールだった。その履歴の一番下の、先ほど送られて来た文章だけが明らかに簡素で異質に見えて、悠はぱちくりと瞬きしてこくんと息を飲んだ。
――な、なるほど!これは一大事かもしれない…!
―――――――
郊外にある社長の別荘、親しい取引先の店舗、お気に入りの温泉街、仕事で訪れたことのある田舎町、まる一日をかけて治が思い当たる場所を手当たり次第に行けるだけ訪れたのに、どこにも社長の影すら見当たらなかった。やっぱりこれは非常事態だと危機感も増してきて、せめて何か社長の行き先の手掛かりが残っていないだろうかと疲れ切った身体でやって来た社長の自宅は、あまりにも人が居住していた気配のない殺風景な空間だった。
「ここ、本当に社長のご自宅ですか…?」
「うん。僕も来るのは久しぶりだけど……前はもっとちゃんと生活感があったはずだよ」
ぱちりとリビングの照明をつけると、だだっ広い空間にモデルルームのようにシンプルな家具が並んでいた。黒い革張りのソファにガラス製のローテーブル、4人掛けのダイニングテーブルの中央には申し訳程度に小さな造花が飾られている。ストーングレイのそのテーブルに何気なく触れると、指先にすこしざらりとした感触があって、そこに埃が蓄積しているのがわかった。よく見るとそばにあった壁掛けの何インチあるのかわからないくらい大きなテレビまで、埃のせいか少しくすんだ色に見えて、どのくらいの期間ここに人が来ていないのかを静かに物語っていた。
「ここにも、しばらく帰ってないみたいだね」
「……別の場所で寝泊まりしてるとしたら、手掛かりとかもなさそうですよね…」
収穫なしかと肩を落とした二人が部屋を出ようとすると、廊下の壁をぬるりとすり抜けて死神が目の前に現れた。驚いて立ち止まった治の背中にぶつかりかけた悠は慌てて身を引いて、何もない廊下とそこを見つめる治をきょろきょろと見比べた。
「あの、一体何が…」
「どうして、アナタがここに」
「久しぶり、店長くん。元気してた?」
にまりと口角をあげてへらへらと手を振る死神を見て、治の顔色は徐々に青くなっていく。彼が近くに居るということは、もしや社長の死期が近いということ…?いや、でも、いつも自分の前に現れるタイミングは気まぐれだし、また暇だからとこんなところまでついてきただけかも。だけど、もし、少しでも社長の情報を知っているなら、今は吉報でも凶報でも良いから知りたい。そんな治の心情を読んだようにくすりと笑った死神は、いまだきょろきょろと落ち着かない様子の悠をみてこてりと首を傾げた。
「あらま、その子ってば臨死体験までしたのにオレの事見えてないの?マジで?」
「……霊山くん、いま目の前に死神さんが居るんだけど、見える?」
「えっ!そうなんですか!?どうもその節はお世話になりました!」
「あら、ほんとに見えてない。良かったねぇ」
がばりと死神に頭を下げたつもりの悠だったが、その頭の向きは死神から少しだけズレていた。死に近しい人にだけ認識できる死神を感知できないのは、まだまだ死期が遠いという一理の証明であるため良いことではある。以前自身のせいで幽体離脱をさせてしまった後輩が死に近付いたわけではないと今更ながらに判明して安心しかけた治だったが、にこにこと笑みを描いていた死神の口元が急に真一文字になった瞬間、ぞくりと嫌な予感が背筋を走って冷や汗が米神をつたうのを感じた。
「良いことが判明したところでさ、ちょっとキミたちに来てほしいところがあんだよね」
「……それは、今すぐにですか」
「まぁ、早い方が良いと思うけどね。社長サンに会いたいなら」
今日ずっと探していた人物の名称に、治の背中はピンと張り詰めた。呼吸が浅くなるのを自覚しながら前髪に隠れた死神の瞳を見つめるが、ただただ治の返答を待つ死神はそれ以上何もアクションを起こすことはなく………カラカラに乾いた喉でやっと唾を飲み込んだ治は、ゆっくりと頷いた。
―――――――
死神の案内に従って車を走らせること1時間ほど。都心部を離れてひたすら山道を登った先には、緑の木々の間に佇む真っ白い大きな建物があった。ほとんど窓のないその建物は中の様子も見えず、築年数のわりに綺麗すぎる外観が不気味さを醸し出している。大きくて頑丈そうな門扉の前に車を停めて観察するように建物を見ていると、近くの古くなった看板に"交流屋 開発研究部"と書かれていた。
「開発研究部…?」
「交流屋ってそんな部署もあるんですね…!?」
「いやでも……研究施設は都内にあったはずだし、ここには僕もはじめて来たよ」
狭間支店の店長になる前に、治は社長に連れられて全国各地の支店に顔を出している。本社から海外の拠点まで、はたまた小さな村の出張所まで把握している治の記憶のどこにもないこの施設に社長が居るというのだろうか。怪訝そうに死神に視線をやると、困ったように後頭部をがしがしかきながら口を開いた。
「まぁその…ほんとうは黙ってろって言われたんだけどさ、後で店長くんに恨まれんのも嫌だったから」
「恨むって、」
「入ればわかるよ。キミなら顔パスで行ける」
ちょいちょいと死神が指さした門扉の端にはインターホンがあった。この施設に入るには鳴らす必要があるだろう。震える手を抑え込みながらボタンを押すと、ややあって通話に出た人物がはっと小さく息を飲んだ音が聞こえた。
「……夜分遅くにすみません。私は交流屋狭間支店で店長を勤めている者です。こちらに社長が居るとお聞きしたのですが…」
『少々、お待ちいただけますか』
少し強張った女性の声でそう聞こえたあと、通話の向こうがざわざわと騒がしくなる。いくつかの会話と幾人かがぱたぱたと走り去る音が過ぎ去って、お入りくださいの声で門がゆっくりと開いた。
「……じゃ、オレはこの辺で失礼するよ。あとはキミたちでなんとかして」
「はい。ありがとうございました」
ひらりと手を振って森の中に消えて行った死神を見送って、治はすうと深呼吸して施設に足を踏み入れた。
「ここは本社開発研究部と違い、社長が個人的に立ち上げた施設になります」
「個人的に…?」
「言葉の通りです。いろんな思いつきをされますので、我々もそれに応えられるように日々努力しております」
長い長い廊下を歩きながら、施設職員の説明や雑談をほどほどに聞いていた。治と悠を出迎えたのはここの施設長を名乗る人物で、挨拶を交わす治と施設長を周りの職員たちが沈痛な面持ちで見ていたのが、悠はどうにも気になって落ち着かなかった。
まるで病院のような、清潔なのにどこか息苦しく緊張する空間に飲まれそうだった悠は、ひとつの大きな扉の前で急に足を止め振り返った施設長に、びくりと大袈裟に肩を揺らしてしまった。
「……こちらの部屋に、社長が」
「案内いただきありがとうございます」
「……まだ、ご説明すべきことは多々ありますが、まずは一目見ていただいた方が早いかと存じます」
覚悟はよろしいですか。そう言いたげな施設長の眼差しに、悠はこくりと息を飲む。隣ではいと答えた治の声は平坦に聞こえたけれど、こんな病院のような空間で、仰々しいほどの部屋に居る身内がどうなっているかなんて、悠には悪い想像しかできなくて、身勝手ながら治の心身を案じてしまった。
するりと何の抵抗もなく開けられた大きな扉の向こう、不気味なほど真っ白で、不健康なほど清潔に保たれた部屋のベッドに横たわっていたのは、見慣れない白い病衣に身を包んだ生気の感じられない社長の身体だった。
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