一期一会
春は出会いと別れの季節である。
なんてことを、中学だか高校の校長先生が毎年言っていたのを思い出した。年度の切り替わりや新生活の始まる季節、学生の時は入学卒業クラス替えなんかで目まぐるしく環境が変わっていたなと懐かしむ悠の目の前を通り過ぎていったのは、胸に花の飾りをつけて黒い筒を持った数人の学生たちだった。きっと卒業式が終わって、思い出作りにどこかへ行くのだろうかとなんとなくそれを見ていた悠の腕を、少しむくれた表情のレンがぺしりと小突いた。
「ちょっと、何ぼーっとしてんの」
「え、あぁごめんね。もう卒業式のシーズンだなって懐かしくなっちゃって」
言われて悠の視線の先を追ったレンは、あぁと納得したように呟いてすぐに視線を逸らす。意図的に目線を下げたレンに気付かずに学生たちを見送った悠は、店への帰路を辿りながら何の気なしにレンに聞いてみた。
「レンくんの学校はブレザーだった?学ランだった?」
「は?」
「俺、高校の時も中学の時も学ランだったからさ、ちょっとブレザーに憧れてて」
「……中学は学ランだったけど、高校はブレザーだったよ。たしか薄めのグレーのやつ」
「えぇ~良いな~!レンくん絶対似合ってたんだろうなぁ」
「さぁ、どうだろうね。あんまり着ることなかったし」
「へ?どうして?」
「オレ、高校にはほとんど行ってないから」
え…?とギリギリ声にならなかった呟きを残して、悠はその場に立ち止まってしまった。数歩遅れてそれに気が付いたレンは、振り返って不自然にその場に留まる悠の袖を引っ張ってとりあえずその場から立ち去る。角を一つ曲がったあたりでようやくゆっくりと自力で歩きはじめた悠に、レンはちょっぴり大袈裟にため息を吐いた。
「なに、そんなに驚くこと言ったっけ?」
「だって…その…」
「オレ、16で死んだんだよ。高校に在籍してたのだって1年ちょいだし、おまけに不登校だったし、制服を着る機会が少ないのは当然でしょ」
「不登校だったの今はじめて聞いたよ!?」
「きっかけもなくわざわざそんなこと言うわけないじゃん。バカなの?」
「そ、それもそっか…」
しょも…と肩を落として落ち込んだ悠に、レンはまた小さくため息をこぼす。一体何をそんなに落ち込むことがあるのか。たかが同僚が不登校だったこと?それを話してくれなかったこと?それとも、何気なく振った話題でなかなかデリケートな部分に踏み込んでしまったことだろうか。……なんなら全部気にしている可能性まであると思い至ったレンは、なるべく言葉を選びながら、けれどあまり深刻に思われないように、すこしだけ砕けた口調を意識して口を開いた。
レンが在籍していた高校は、近隣でも有名な進学校だった。有名国立大学への進学率が地元では一番高い高校だったらしく、レンの両親は是が非でもここに入学するようにと耳にたこができるほどに訴えていて、合格の報告をしたときの異常なほどの喜び方を、レンは今でも覚えている。
けれど、せっかく入学が決まった高校は、レンにとって快適と言える環境ではなかった。もともと自分が行きたくて選んだ高校ではなかったし、進学校だからなのか、勉学に励むクラスメイト達はみんな必死で切羽詰まった様子で、校内の空気はいつもぴりぴりと張り詰めずいぶん息苦しく感じていたものである。教員たちはそれを知ってか知らずか、みんな競い合って切磋琢磨しているのだろうなんて呑気に考えているし、そんな淀んだ空気に対するストレスは、いつだってそこに居る誰かに向けられるものであった。
「えっ…それって…」
「……要するに嫌がらせされてたんだよ。私物を隠されたり壊されたり、無視されたと思えば暴力を振るわれたり、幼稚なことする奴ばっかりだった」
幼稚なクラスメイトたちと状況を知ろうともしない教員たちに嫌気がさしたレンは、入学早々に学校へ行くことをやめた。行きたくもない学校がさらに面倒な環境になったのだから、それも当然のことだった。けれど、そんなことを両親に知られたら無理にでも学校へ行けと言われるに決まっている。そこでレンは、クラスメイトに勉強で負けたくないからなどともっともらしいことを告げて、両親に塾に通わせてくれるよう頼んだ。それからレンの高校生活は、昼間は塾の学習室にこもって勉強や読書、放課後は他校の生徒に混じって講習を受けて帰ることが日常になった。
「学校に行ってないの、よく親にバレなかったなって思うよ。でもあの人たち、テストだけ受けてその100点の答案用紙を見せてさえいれば満足そうにしてたから、オレが普段何しててもどんな学校生活を送ってても全然興味ないんだってよくわかった」
ふっと息を吐くように嘲笑したレンは、何かを思い出すように遠くを見つめて目を細めた。
その姿が16歳とは思えぬくらいに大人びて見えて、けれど、長いまつ毛の下でゆれる瞳が迷子の子供のように不安そうに見えて、悠は思わずぶら下がるレンの右手を取った。
「は?いきなりなに?」
「いや…ごめん。嫌なこと思い出させちゃったなって、思って」
「別に、オレが勝手に喋っただけじゃん。それに、死んでから親とも学校のやつらとも関わんなくて済んだから、いっそ清々してるよ」
ふいっとそっぽを向いたレンの右手は、するりと悠の手をすり抜けた。
―――――――
店の営業も終わりすっかり日も沈んだ夜のこと、治と悠とレンは人気のない学校を訪れていた。ここは数年前から幽霊が出ると噂になっていた学校で、深夜には心霊スポットとして好奇心に煽られた人々の不法侵入が後を絶たないという。学校側は度々警察に相談していたが不法侵入が無くなることはなく、ついに先日心霊現象が起きて怪我人が出たとネットニュースにも取り上げられてしまったため、今は臨時休校となっている。
真っ暗闇にそびえ立つ校舎をほうと見上げる悠の背後で、車からごそごそと荷物を取り出した治は紺色のジャケットを羽織る。胸に『交流屋 警備』と書かれたそれは、交流屋のセキュリティ事業の担当者から借り受けたものだった。
「交流屋にそんな部門まであったなんて…」
「なんか、ホテルとかレジャー施設展開するうえで必要だからって社長は言ってたけど」
なるほど…と納得しながら、悠もジャケットを羽織って首から社員証をかける。今回彼らは、表向きは不法侵入者対策に派遣された警備員。けれど実際は、幽霊が出るという噂の真相調査を社長直々に命じられたのだった。
「今更聞くのもなんだけど…良かったの?レンくん」
「それこそ今更でしょ。案内役が居た方が便利なのは事実だし、オレは別に構いませんよ」
レンの返答を聞いて苦笑する治と心配そうに眉尻を下げる悠。何を隠そうここはレンが生前通っていた高校で、昼間にレンの話を聞いていた悠は、あまり思い出したくない記憶の場所に再び訪れることになってしまったレンの気持ちを案じて唇を噛んだ。
「レンくん、今回はお言葉に甘えるけど、少しでも辛かったら言うんだよ?あと、どこに悪意があるかわからないから、僕のそばから離れないでね」
「わかってます。店長だって、前みたいに簡単に悪意を消せるわけじゃないんですから、気を付けてくださいよ」
「そうだね。じゃあ二人とも、お守りは肌身離さず持つように。行くよ」
自分もポケットの中で小さな紫紺色のお守りをぐっと握り締めた治は、大きな懐中電灯で足元を照らしながら校舎に足を踏み入れた。
幽霊が出るという噂の現場は、西校舎2階から3階の間の階段だった。ここを午前または午後の11時ちょうどに通過すると、誰もいないはずの背後から背中を押されて階段から突き落とされるというのが報告されている被害の情報で、なんでも数年前に起きた事故が発端のそれは、当時その階段から転落し打ち所が悪く死亡した生徒が、通りかかった者に危害を加えている…という話らしい。
「その生徒は死んだことに気付いてないから誰かに見つけてほしいんだとか、誰かに突き落とされたからそれを恨んで無差別に復讐しているとか、人によって結構バラバラな噂話が広まってますね」
「まぁ、噂話なんてそんなもんだよねぇ」
「勝手なこと言うよね。そんな面倒くさいことするわけないじゃん」
「………………ん?」
「ん?」
「なに」
「いや、レンくんなんだか当事者みたいなこと言うなと思って」
「当事者だからに決まってるじゃん」
「へ!?」
「その"事故"とやらで死んだ生徒、オレのことだよ」
―――――――
「おい待て、待ってってば!」
「…………」
すたすたと廊下を速足で進んで行く男子生徒を、険しい表情の男子生徒が追いかけていた。3日間のテスト期間が終わり少し緊張がゆるんだ生徒たちは何事かとそれを見送って、そっと目を逸らしてまたそれぞれの雑談に興じる。徐々に他の生徒たちの視線が消えて行きようやく廊下の突き当りの階段に差し掛かったころ、だんだんと声と息を荒げはじめていた男子生徒は、追いかけていた生徒の腕を乱暴に引っ掴んだ。
「っお前、バカにすんものいい加減にしろよ!」
「…………」
「そうやっていつもすました顔して俺のこと見下して!出来損ないだって笑ってんだろ!」
「はぁ?そっちこそ被害妄想もいい加減にしてくれる?あんたのせいで面倒な被害に合ってるの俺の方なんだけど」
ぱしりと些か乱暴に腕を振り払った男子生徒は、シワの寄ったグレーのブレザーをピシッと整えてため息を吐く。まだ何か言いたげだった男子生徒がぎりりと歯ぎしりしている隙に、用がないなら帰るからとさっさと踵を返した。
「っおい!話はまだ…っ!」
「!?」
どすん!と背中に衝撃を感じて、男子生徒は目を見開いた。ふわりと内臓が持ち上がるような浮遊感に慌てて手を伸ばしたけれど、階段の手すりは指先をわずかに掠めて離れていく。肩越しに振り返った背後では、右手を突き出した男子生徒が大きく目を見開いていて、けれど視線がかち合った彼の口元が歪に持ち上がったのを、確かに覚えている。
そして、頭が割れるほどの衝撃を感じた瞬間、レンの身体は何も痛みを感じなくなっていた。
―――――――
「頭が割れるほどって言うか、実際に割れたんだろうね。即死だったし」
痛いって思う間もなかったよと空笑いしたレンは、階段の踊り場でしゃがみ込むとそっとリノリウムの床を撫でた。話をしながら迷いなく進んで行くレンの後を黙ってついてきた悠は、ここがレンの命が終わった場所であると理解してぐっと息を詰まらせる。そんな悠の背をとんと叩いてレンの隣にしゃがんだ治は、手元のタブレットに表示された校内の地図と周囲をくるりと見渡した。
「……ここが、噂の現場で間違いないみたいだね。レンくん、案内してくれてありがとう」
「いいよ。大した手間でもなかったし」
「霊山くんと先に帰る?ここは一旦僕一人でも大丈夫そうだし、」
「お気遣いなく。それに、今日で全部終わらせた方が店長も楽でしょう?」
「それは、そうだけど…」
「心霊騒動の犯人がどこにいるか、オレには見当がついてます」
すくっと立ち上がったレンは、ゆっくりと階段を上がり3階のフロアに到着する。廊下の端に設置されているロッカーの元へ迷わず進んでしばらくじろじろと観察すると、口元に人差し指を立ててから治と悠を手招いた。
「少し静かにしてもらって、オレの言うことには頷くか首を振って答えてください」
「このロッカー、人が一人や二人隠れるくらいには十分な大きさだと思いませんか」
「ついでに、オレが通っていた頃は、もっと小さくて古い掃除用具入れがここにありました」
レンの言葉に二回頷いた治と悠は、自分たちの背丈くらいのロッカーとレンが"これくらい"と手でなぞって見せた掃除用具入れのサイズ感を見比べて顔を見合わせる。心霊騒動が噂され始めたのはレンの死後、おそらくこのロッカーが設置された時期も近しいのではないだろうか。だとすると、心霊現象に見せかけようとした人間がここに隠れて一連の事件を起こした、という憶測はすぐに立って……けれど、いやいやまさかそんな単純な話なわけ…と思ってロッカーの扉に手をかけた悠は、わずかに空いた扉の隙間をこじ開けて飛び出してきた人物に驚いて尻もちをついた。
「うわぁ!やっぱりいた!」
「確保!」
「っえぇ!?はい!」
治の号令に飛び起きた悠は、飛び出してきた勢いで隣に転んでいた人物の腕を掴んで背中に回し、そのまま膝で体重をかけて簡単には起き上がれないようにする。ジタバタと藻掻くのは悠と同い年くらいの青年で、ライトで青年の顔を照らした治は膝をついて青年と目線を合わせた。
「夜な夜なこの学校に忍び込んで、心霊現象のフリをして通りかかる人を階段から突き落としていたのはあなたですか?」
「し、知るかよ!なんで俺がそんなことっ…!」
「どちらにせよ、不法侵入の現行犯ではありますので、警察に通報させていただきますね」
「はぁ!?俺はここのOBだぞ!関係ないやつは黙ってろ!」
「………あ」
治の隣にしゃがみ込んで青年をまじまじと観察していたレンが、怒鳴って眉を吊り上げた表情を見て何かを思い出したように声をあげる。スマホで110番を入力した治となおも暴れる青年を抑え込んだ悠の視線を受け取ったレンは、ふっと嘲笑するように息を吐いて青年を指差した。
「コイツ、オレを突き落とした張本人ですよ。こんな幼稚なことするのはあの時のクラスメイトくらいだろうとは思ってたけど、まさかアンタが出て来るとは…」
「……ぇ、」
「ここはアンタにとっても、あんまり良い思い出の場所じゃないと思ってたけど」
にんまりと不格好に口角をあげたレンは、ぽきりと指を鳴らして青年に手を伸ばす。真っ直ぐ青年の額に伸びる手を見た悠は、レンが青年に何か危害を加えてしまうのではないかと慌てて口を開いた。
「だ、ダメだよレンくん…!」
「な、なんであいつの名前を…!?」
レンが伸ばした手は青年に届く前にすっと形を変えて、急に顔を上げた青年の額にダメージのないデコピンをお見舞いした。手応えのなかった右手を握って開いて動かしながら、当たるわけないじゃんとため息を吐いたレンに、危害を加える気はなかったのかと安堵した悠は、急に震えだした青年を拘束する手を少しゆるめる。床に倒れ込んだまま頭を抱えた青年は、うわごとのように何かをぶつぶつと呟きだした。
「や、やっぱり、やっぱりあいつここに居るんだ…!俺のこと恨んで殺そうとして…!俺の人生を全部邪魔して…!大学に行けなかったのも、父さんが出て行ったのも、母さんが病んだのも、全部全部あいつの呪いなんだ…!!!」
「はぁ?言いがかりもほどほどに、」
「レンくんは、そんなくだらないことしない」
ぶつぶつと好き勝手に被害妄想を並べ立てる青年に、レンが聞こえないながらも反論する前に悠が行動を起こした。蹲っていた青年の顔を上げさせたかと思えば胸倉を掴み、常よりも低くなった声できっぱりと言い切る。ぎらりと鋭く光った瞳に気圧されて青年が口を噤んだ隙に、悠は畳み掛けるように口を開いた。
「誰かを恨むとか妬むとか、そんな子じゃない。まわりをよく見てて気配りができる子で、どんくさい俺の面倒だってなんやかんや見てくれるし、つっけんどんな態度だけど真面目で一生懸命だし、俺がたまに弱音吐いたって黙って聞いてくれるし、俺とか店長が危ない目に合ったら心配してくれる優しい子で、」
「ねぇちょっと一回黙って!聞いてて恥ずかしいんだけど!」
「霊山くん、ヒートアップする気持ちはわかるけど、一旦落ち着こうか」
レンが悠の腕を引っ張って制止するのと同時に、治も青年の胸倉を掴んでいた手をほどきにかかる。持ち上げられていた身体がぺたんと床に着地した青年は、まるで今でもレンとかかわりを持っているかのように語った悠を呆然と見上げて呟いた。
「あ、あんた、アイツのなんなんだよ…」
「俺?俺は…レンくんの友達だけど」
ふふんと自慢げに腰に手を当てた悠の背中を、レンは思い切りぺちんと叩いた。
―――――――
その後、治が呼んだ警察に青年は連行されて行った。住居侵入の現行犯、心霊騒ぎに乗じた傷害罪、そして数年前にこの高校で起こった事故が実は殺人事件であった可能性を本人がほのめかしたため、警察は再捜査を行うことになるらしい。
「心霊騒ぎも、そのせいで学校が無くなれば良いって思って起こしたみたいだし、」
「まあ学校さえなくなれば、嫌な思い出の場所も自分が人を殺した現場も、一気になくなって都合が良いもんね」
レンに恨まれていると信じ込んでいた青年は、きっとこの数年間神経をすり減らして生きてきたのだろう。身の回りに起こる些細な不幸に怯え、疲弊して生活にほころびが生じ、また小さな不幸が重なっていくという悪循環。哀れに思うことはあれど、一番初めの引き金は自分で引いたのだから同情の余地はないと治は思う。
それよりも、今回の件はレンの昔の古傷というものをつつきまわすことになってしまったなと心配の目を向ける治に、レンはいつものように一仕事終えたと伸びをしてけろりとした顔をしていた。
「思ったより早く終わって良かったですね。帰りましょうよ」
「…そうだね。レンくんのおかげだよ、ありがとう」
「別に、昔の記憶がたまたま役に立っただけですよ」
ふいとそっぽを向いてするりと車に乗り込んだレンに、治はこっそり笑みを浮かべる。つっけんどんな態度だけど真面目で一生懸命で…優しい子。悠の言っていた言葉の一部を思い出した治は、きみもなかなか人の事を見てるよねと、ジャケットを脱いでふうと一息ついた悠に目配せした。
「よし、じゃあ帰るよー」
「はーい」
「はい」
軽快に走り出した車はあっという間に学校を離れて行き、暗闇の中にぼんやりと溶けていく学校を振り返って見ていたレンは、それが真っ黒く見えなくなるとほっと息を吐いてシートに座り直した。
――これで今度こそ、アイツらとの縁が切れたかな。
その日、少しの安堵と多大な疲労感とともに帰宅したレンの視界に、何かのカウントダウンを示す数字がぼんやりと浮かび上がった。
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