勧善懲悪⑤
ふと目を開けると、あたり一面真っ黒な空間に居た。前を見ても後ろを見ても暗闇が続いているように見えるのに、なぜか自分の姿だけははっきりと視認できるのが不思議でならない。手を握って開いて、顔や身体をぺたぺたと触って、どこにも異常がないことを確かめて、さて、それじゃあこれからどうするかと治があたりをきょろきょろと見回していると、ばさりと小さな羽ばたきとともに目の前に白いカラスが降り立った。
「……え、生き返ったと見せかけてそんな美味しい話あるわけないよってパターン…?」
「え?あぁ、だいじょうぶだよ。ボクがちょっとおはなししたかったからよんじゃっただけ」
きっともうすぐ目が覚めるよと言われて、治はほっと胸を撫で下ろす。だって、知らぬ間にすっかり頼もしくなった後輩がわざわざ死後の世界まで迎えに来てくれたのだ。迷子のごとくなにもかもわからなくなっていた自分をしかと捕まえてくれた腕の感触だってはっきり覚えているのに、やっぱり生き返れませんでしたなんて笑い話にもならない。
「あのね、ボク、ずっとキミにあやまりたかったんだ」
「えっと……なにを?」
「あのひ、キミにとりついてっしまったこと。キミのしあわせをうばってしまったこと」
カラスが治にとり憑かなければ、治はきっと普通に平穏に、両親のもとで大切に育てられたのだろう。友人ができて好きな人ができてやりたいこともたくさんあって、カラスが知らない幸せな日々を過ごしたのだろう。
けれどあの日、一人ぼっちで寂しくて悲しくて辛くて苦しくて、カラスの心が壊れそうだったとき、優しく身体を撫でてくれた治の小さな手だけが唯一の救いだった。あたたかくてやわらかくて優しい手はカラスにはじめて与えられたもので、このあたたかさをずっと失いたくないと思ったカラスは、どこかでいけないことだと思っていたのに、母に虐げられる治を見ていたのに、どうしても治から離れたくなかった。
「だから…ごめんね。いまさらあやまったってどうしようもないけど、」
「カラスくんはさ」
「……え?」
「キミはただ、ともだちが欲しかっただけなんでしょう?」
「……それは、」
ともだちとか、家族とか兄弟とか、それはきっと、そばにあるだけで無条件に信頼できて安心できて、とてもあたたかいもので、たしかにカラスはそんなあたたかい場所をずっと求めていた。治のそばはとてもあたたかくて安心して、それをともだちと呼んでも良いのなら、カラスにとってとても幸せなことだった。けれど…
「キミと出会えて友達になれたこと、僕は嬉しいと思ってるよ。だから謝らないで」
「でも、」
「そりゃあキミのことを全然、ちっっっとも、これっぽっっっちも恨んでないって言ったら...多分嘘になる。キミと出会わなかったらきっと、僕は今も普通で平穏でなんでもない日々を過ごしていたかもしれないから」
「でもね、そうしたら今、僕が大切だと思っている人達とも、たぶん会えなかったってことでしょう?それなら、僕はキミと…みんなと出会ったこの人生の方が良かったって思うな」
「ねぇカラスくん、僕と…ともだちになってくれてありがとう」
カラスの目の前に胡坐をかいた治は、いつの間にか俯いてしまったカラスの頭をそっと撫でた。はじめて撫でられたときは小さな手でそっと毛並みをなぞるくらいだったのに、今はすっかり大きくなった手の指先でくすぐるように羽毛をかき混ぜている。くすぐったくて気持ちが良くて、思わずゴロゴロと喉を鳴らすように声を出したカラスは、するりと治の手にすり寄ってから顔を上げた。
「ふふ、やっぱり、さいごにおはなしできてよかった」
「うん。…………え?最後って、」
「ボクたち、ここでおわかれなんだ。キミはげんせに、ボクはあのよにいくから」
安達が使った呪いは、治の身体からも魂からも完全にカラスを分離させる効果があったらしい。カラスの意志とは関係なく無理矢理切り離された影響で相当のダメージを負ってしまい、もう一度治にとり憑くほどの元気は残っていないのだという。
「いままでありがとう。ボクのせいでつらいおもいをさせてごめんね」
「……辛かったことより、キミに助けられたことの方がずっと多いよ」
「……なら、よかった」
ばさりと羽ばたいたカラスは、治の肩に飛び乗って甘えるように頭を擦り付けると、もう一度羽を広げて飛び立ち上へ上へと進んで行く。ぐんぐんと小さくなるその姿はやがて黒い空間の中に溶けるように見えなくなって、首が痛くなるほどにそれを見送っていた治は、背後から聞こえた懐かしい声に振り返った。
――ほら治、早く起きろよ。みんな待ってるぞ
―――――――
ふと目を開けると、真っ白い天井と煌々と部屋を照らすダウンライトが視界に映った。次いでアルコールや薬の匂いがして、あぁもしかしてここは病院か...と思うと同時にぴりりと腹部が引き攣る感覚がする。痛み止めでも投与されているのか激痛は感じないけれど、動くにはちょっと支障があるなと思いながらなんとか枕を背に上体を起こすと、ベットの足元に突っ伏すように寝ている悠と可那子が居た。
「あら、そんなとこで寝てたら風邪ひいちゃう…」
起こすか?でも今何時だろう寝かせておいた方が良いのか?だとしてもせめてブランケットくらいかけてあげないと…。うろうろと部屋を見回した治は、壁際に置いてあるソファに薄手の毛布が数枚重ねて置いてあるのを見つける。良かった、あれを使わせてもらおうとベットから降りようとしたとき、ふわりと壁をすり抜けて病室に入って来たレンとばちっと目が合った。
「……アンタ何抜け出そうとしてんだ!!」
「え、えぇ!?ちょ、誤解...!」
「ん?あ!霊剣さん起きてる!」
「え?ほんとだぁ…!!」
いつもより大きなレンの声と、それで目を覚ました悠と可那子までが一斉に喋り出して、わっと一気に病室が騒がしくなる。
…………と思ったら、治にずずいと詰め寄った悠と可那子がぴたりと口を閉じた。あまりにも急に静かになって戸惑う治のことは、さっとうつむいてしまった二人の視界には入っていないらしい。ど、どうしたの…?とおそるおそる声をかける治に対してレンがやれやれとため息を吐いた直後、顔を上げた二人は同時に治に縋り付いた。
「「よか、よがっだぁ"~!!」」
「めっちゃ泣いてる…!?」
「だって、だって死んじゃったかと思ったんですよ…!?」
「そうですよ!あんな血まみれで…!真っ白い顔して…!」
「ご、ごめんね、びっくりさせたよね…」
「びっくりどころじゃないですよ!」
「もう、もうほんと、こっちのほうが心臓止まるかと…!」
わんわんと子供のように泣く二人を必死に宥めようとするが、言葉にならない泣き声にかき消されて治の慰めなど耳に入っていないらしかった。仕方ないなと二人の頭や背中を撫でてなんとか落ち着かせようとして、けれどそのせいか一際ぎゅうとしがみついてきた二人の腕が不意に傷口を圧迫してしまったらしく、治の腹部に激痛が走った。
「あ、いだだだだだ…!」
「「わぁー!死んじゃいやだぁ!!!」」
「だったら一旦離れなよ!二人が傷に障ってんの!」
レンの指摘にはっとしがみついていた二人が離れて、しばらくすると痛みがじんわりと引いてほっと息を吐くことができた。顔をあげると未だに涙目の二人が落ち着かない様子で治の様子を窺っていて、なんだか少し申し訳なくなる......と同時に、胸の奥がじんわりあたたかくてくすぐったくなった。
「……二人とも...心配かけてごめんね。僕はもう大丈夫だから、泣かないでよ」
ぽん、と二人の頭に手を置いて揺らすように撫でると、またほろりと涙をこぼした二人は必死に頷いて見せる。悠と可那子の止まる気配のない涙に苦笑していると、むすっとした表情で腕を組んで何かを言いたそうにしているレンと目が合って、治はおいでと手招きした。
「レンくんにも心配かけちゃったかな?ごめんね」
「………だって、店長が死んじゃったら、この二人の面倒を見られる人が居なくなっちゃうでしょう」
そう言ってそっぽを向いたレンの目尻がちょっぴり濡れているのに気づいた治は、ぐっと手を伸ばしてレンの腕を引くと、倒れ込んで来たまるい頭をわしゃわしゃと撫でる。やめろと言葉では拒否するものの、大きな抵抗もせずその手を受け入れているあたり本当に心配をかけてしまったらしい。しっかり者だけれど、店では最年少のレンを今はとびきり甘やかして労わろうとかまっていると、便乗してレンの頭に手を伸ばした悠だけしっかり避けられてしまっていて、治は申し訳ないと思いつつもくすりと笑みをこぼした。
「そういえば、霊剣さん髪どうしたんですか?」
「え?」
「白いとこが無くなって…っていうか、え!?目!目も黒くなってる!!」
涙がすっかり落ち着いた頃、悠が思い出したように言った言葉に、治は思わず自分の髪に触れる。いつもなら適当に掴んだ右側頭部の黒髪に白色が混じっているはずなのに、探せど探せどそこには絹糸のような黒髪しかなかった。驚いてぱちくりと瞬きした目も、今は左右とも同じ黒曜石のような深い黒色をしていて、咄嗟に可那子が差し出した鏡を覗き込んだ治は、ややあって寂しそうに目を伏せた。
「全部もとに戻ってるね。多分、友達とお別れしたからだと思う」
「え、どうゆうことですか?」
「簡単に言うと、僕が今まで悪意を消してた能力が使えなくなった、ってことかな」
「え!?」
「あれは、僕自身の能力じゃなかったから」
悪意を消すこと以外にも、悪意の気配を察知することも痕跡を辿ることだって、きっと今までのようにスムーズにはできなくなるだろう。悪意を見極めることに長けていた右目も、退ける能力を持つ髪もなくなってしまって、これから治は自分の目や身に着けてきたスキルだけを頼りに悪意と対峙しなければいけない。けれどそれは、今まで悠や可那子だってやって来たことだし、カラスと一緒に悪意と対峙してきた日々だって経験値になっている。長年一緒に居た友達と別れた寂しさはあれど、不思議と不安や恐怖はあまり感じない。問題ないよ大丈夫だ、と笑みを浮かべた治は、改めて悠と可那子とレンの顔を順番に見つめて言った。
「みんな、僕を助けてくれてありがとう。これからもよろしくね」
――――――
【先日発生した山崩れの現場で、身元不明の一人の遺体が発見されました―】
「あ、ここ…」
「ん?あ、」
数日の入院生活から治が店に戻ってきて、久しぶりにみんなで朝食を食べようと食卓に並んだ時に流れたニュース映像は、治の手を止めるのに十分な内容だった。隣県のとある田舎町の山肌が一部崩落したらしく、そこに建っていた古い社が埋もれてしまったという情報は出ていたが、被害者が居たというのは初耳だった。
「このお社、近いうちに調査に行かなきゃって思ってたのに…」
「仕方ないですよ。調査予定日の前日?くらいに霊剣さん死んでましたし」
「言い方...」
ニュースでは前日に大雨が降った影響だとか、古くなった社の崩落が原因だとか言われているけれど、掲示板やSNSでは呪いだ災いだ祟りだと好き勝手に騒いでいる人間が大勢いることも治は知っていた。実際に被害者が出たとなれば、インターネットの海はさらに大荒れになるだろう。社そのものは壊れてしまったけれど、現場には一度訪問して調査する必要があるかもしれない。
「ここ、地元じゃかなり有名な心霊スポットだったんですよね?」
「うん。本来は近くの村の人がお参りするだけの普通のお社だったんだけど…」
「ずいぶん前に廃村になってからは手入れもされてなかったみたいですし、悪意が集まりやすい場所と言えばそうですよね」
「建物が崩れちゃうって、よっぽどの悪意が蓄積してたんだろうねぇ…怖い怖い」
「うわっ!社長!?」
音もなく食卓に現れてしれっと会話に参加した社長に驚いて、悠は手元のグラスを倒してしまった。急いで布巾を手渡す治と仕方ないですねぇと新しい飲み物を取りに行く可那子を見てけらけら笑っている社長は、3人が腰を落ち着けるのを待たずに空いている椅子にどさっと腰かけた。
「ところで霊剣くん、体調はどう?」
「あ、はい、もう問題なく動けますよ」
「そっかそっか。それは良かった。ボクはもうキミのことが心配で心配で…」
「泣き真似するならもう少しそれっぽい声色にしません?」
「いやだなぁ。心配したのはホントだよ!」
「そ、れは…その…ご心配おかけしてすみません」
気まずそうにおずおずと頭を下げる治にひらりと手を振って、社長はちらりとテレビに目を向ける。画面はニュースから流行りのスイーツ特集へと切り替わっていて、可那子が瞳を輝かせて食い入るようにそれを見つめていた。なるほど、今度お土産に買ってきてあげよう。
「あ、社長朝ごはん食べました?良ければ俺たちと同じメニューならありますけど、」
「気持ちだけもらっておこうかな。今からちょっと会っておきたい人が居るから、ボクはもう行くよ」
「あらま、お忙しいんですね」
「ふふん、まぁね」
ニヤリと口角をあげた社長は、見送りに席を立とうとした治を手で制し自分だけ立ち上がる。またね、と治の肩を叩いた拍子に細く細く繋がっていた黒い糸をひらりと手で掃った社長は、それが切れて消えたことを確認すると、治の皿から最後の一切れだった卵焼きをかっさらって逃亡した。
――彼が死んじゃったのはお気の毒だけど、あの悪意には自分から近づいたんだから……自業自得だよね
「そう言えば、まさかキミが助けてくれるなんて思わなかったなぁ」
「はぁ?オレのことなんだと思ってんの」
「ほどほどにお仕事の出来る優秀な死神くん、かな?」
「それ褒めてんの?貶してんの?」
「やだなぁ、しっかり褒めてるし感謝してるよ。ボクの息子を助けてくれてありがとう」
「……別にアンタのためじゃないって」
「あら、そうなの?」
「…………誰だって、お気に入りのおもちゃがなくなんのはイヤだろ」
「ふふ、そうゆうことにしておいてあげるね!」
「……にやにやすんじゃねーよ!」
.




