勧善懲悪
夕暮れに照らされた街はどこかレトロな雰囲気を漂わせていて、見慣れた街並みが何故かいつもと違うものに見える。仕事で疲れた脳内ではさらにアンニュイなフィルターがかかっているように見えて、治は少し目を擦って瞬きをした。……うん、今日はちょっと疲れた。早く帰って休もう。
少々厄介な仕事を受けたため悠たちに一日店番を任せて隣街までやってきたが、仕事そのものより依頼人の方が癖のある人物で、肉体的疲労より精神的疲労の方が蓄積されている気がする。今回で依頼は完遂したため、もう早々に顔を合わせることがないであろうことがせめてもの救いだろうか。
そんなことを考えながら大通りを外れ路地裏の道を歩く治。車を停めた駐車場はこの角を曲がった先…というところまで差し掛かったあたりで、何やら剣呑で耳障りのする声と微かだが黒っぽい靄を感知した。
「ほら、早くしろよ」
「金さえ出しゃ無事に帰してやるって言ってんだろ」
「うわぁ…」
未だにこんな人たち居るんだな…という変な感心をしてしまうほどに典型的なカツアゲの場面が目の前に広がっていた。3名ほどの派手な髪色のオニーサンたちに囲まれた一人の人物は、小さく身体を縮ませながらも何事か抵抗の意志を示しているらしく、ぽつぽつとわずかに言葉を発する口元が少しだけ動いている。
普段であれば、こういった現場に遭遇した際は迷わず警察に通報し到着を待つのだが、あいにく今日の治は疲労困憊で冷静な判断が出来なくなっていた。疲れたから早く帰りたい、そのためにはここを通過しなければ、けれど道を塞ぐ彼らをなんとかしないと車にすらたどり着けないし…。回転の鈍い頭の中では最適解がなかなか出て来なくて、気が付いた時には考えがまとまるより先に、治はその場に一歩踏み出していた。
「あ?なんだてめぇ」
「あ、いえ、僕は怪しいものではなく…」
「うるせぇな!邪魔しようってのか!?」
「いやぁ、通行の邪魔をしているのはあなた方で、」
「んだよ文句あんのか!」
「あるかないかで言うとありますけど…」
「ふざけてんのかてめぇ!!」
足音を聞きつけた彼らは当然のごとく治に気付くと、眉間にシワをよせた強面で威嚇して来る。相手にする気はないとのらりくらりやり過ごそうとしたのだが、ぐわっと一人の男が拳を振り上げて突っ込んで来たところで、治はようやく考えなしに会話をしてしまったことを反省した。いくら不用意に出て来てしまったからと言って、いつもならもう少し穏便に済ませられるくらいの話術は身に着けていたつもりである。疲労というのはこうも人間の能力を低下させてしまうのか…と呑気なことを考えつつ、治は向かってくる拳を受け止め背後にぶん投げるついでに、男から立ち上る黒い靄を少しだけ消した。
「ちょっと、暴力はやめましょう?怪我しちゃいますよ?」
「っくそ、」
「話し合いで引いていただく方が、僕としても非常に助かるんですが…」
「うるせぇ!!」
一人の男が叫んだことが合図になったのか、残り2人が息を合わせて襲い掛かって来た。2対1はズルくないかなぁなんてのんびり考えながらも、治は顔すれすれの拳を避けていく。一人に足払いをかけ体勢を崩し、背負い投げたもう一人をその上に落とし、ついでにまだまだ剥き出しだった悪意と敵意を少しだけ消して、各々負傷した個所を庇いながら立ち上がろうとする彼らの前に、なるべく圧があるように見せるよう意識して仁王立ちした。
「これ以上は怪我が増えるだけだと思いますので、早々にここから立ち去っていただけますか」
腕を組んですっと目だけを細めた治に、3人組は分が悪いと悟ったのか顔を見合わせるとバタバタと慌ただしく去っていく。その姿が見えなくなるまで見送ってふっと肩の力を抜いた治が絡まれていた人物に目を向けると、何やらキラキラと期待のこもった眼差しで見つめられていて少したじろいでしまった。
「あー…その…お怪我はありませんか?」
「はい!大丈夫です!あなたのおかげで助かりました!」
「それは良かった。では僕はこれで、」
「待って!お礼くらいさせてください!」
そそくさとその場を立ち去ろうとしたのに、先ほどまで絡まれていた青年はどこにそんな力があったのか、がっしりと捕まえた治の腕を離そうとしない。別にお礼が欲しくてあの3人組を追い払ったわけではないのに……ただただ早く店に帰りたい一心の治はどうにかこうにかお礼をしたいと主張する青年に断りを入れるが、何故か青年は一向に引き下がってくれなかった。そんなに押しが強いならばさっきのカツアゲ相手にも十分対処出来たんじゃなかろうかと思ったけれど、口に出すことをぐっと我慢した治は、とりあえず青年の言い分だけでも聞いてみるかと綱引きのように腕を引っ張っていた力をゆるめた。
「…あの、僕はたまたま通りすがっただけなので、お礼とか本当に大丈夫なんですが…」
「いいえ!それじゃ自分の気が済まないんで!」
「……じゃあ、今日は急いでいるので……後日ここへ連絡してもらってもいいですか?」
一先ずこの場を収めるための手段として、治は交流屋の名刺を差し出した。これなら霊剣の名前と店の電話番号しか記載していないし、青年の気が変わってお礼なんて良いかとでも思い直してくれれば、そのまま処分されるだろう。ひとまずその情報をもらえただけで満足したらしい青年は深々と頭を下げて、意気揚々とその場を去って行った。
―――――――
「あの後、帰りに渋滞に巻き込まれるしガス欠になるしで…ほんと、疲れてるときってなんかこう…いろいろやらかしちゃうんだよねぇ…」
「いや、どれもこれも霊剣さんに落ち度ないですよね…?」
最低限の身支度を整えながらもくたびれた様子でリビングにやって来た治に、朝一番に元気のないこの人もめずらしいな…と思いながら挨拶した悠は、昨日の出来事を聞いて案ずるように治の顔色を窺う。帰りが遅くなるとの連絡が来ていたため、終業後は少し申し訳なく思いながらも先に休ませてもらっていたが、まさか知らぬ間にそんな大変な目にあっていたとは…。昨日は仕事も家のことも任せっきりでごめんね…と申し訳なさそうにする治に、悠は先ほど淹れたばかりのあたたかい緑茶を差し出しながら言った。
「なんなら、今日も休んでもらっても大丈夫ですよ?最近そこまで忙しくない感じですし、俺がわかんない仕事はレンくんが教えてくれますから!」
「…ふふ、頼もしい後輩ができたなぁ…」
ふふんと少しだけ胸を張る悠にくすりと笑みをこぼして、治は出されたお茶に口をつける。じんわりと身体の奥からあたためてくれるその温度にほっと一息つくと、体内に残っていた疲労も一緒に出て行くような気がして、治は心なしか軽くなった肩をぐるりと回した。
「気持ちは嬉しいけど、それは今度の機会に取っておこうかな。昨日は報告書も書けなかったから、それも早く終わらせときたいし」
「そうですか?でも、マジで辛かったら言ってくださいね?俺一人でも頑張りますから!」
「わかった。ありがとう霊山くん」
ぐっと拳を握り締めきらきらとやる気と活力にあふれた眼差しの後輩にちょっぴり癒され、自分も負けていられないと治は淹れてもらったお茶を飲み干して気合を入れて立ち上がる。腹が減っては何とやら。まずは朝食をしっかりとって今日も一日頑張ろうとキッチンに向かっていた足は、業務時間前にも関わらず来客を知らせる呼び鈴の音で止まった。
「……あれ、この時間からお客さん…ですかね?」
「うーん…どうかな?僕ちょっと出てみるよ」
「あ、はい!じゃあ俺朝ごはんの用意しちゃいますね」
「うん、ありがとう」
とたとたとキッチンに駆け込んだ悠には言わなかったが、治はちょっとだけ嫌な予感がしていた。そもそも、事前に連絡もないのに業務時間前に訪ねてくるような客は総じてめいわk……やっか……いや、癖のあるお客さんであるとだいたい相場は決まっている。お隣や近所のご婦人たちは呼び出し音と同時に良く通る声でご挨拶してくれるし、宅配業者だってまだ配達には早い時間だった。どうか、悠の作った朝食があたたかいうちに食べられる相手でありますように…と願いながら開けた立て付けの悪い玄関扉は、修理していればすぐさま閉めたかったな…と治は思った。
「あ!おはようございます!昨日は大変お世話になりました!」
「あー…おはよう、ございます…?」
扉の先に居たのは、昨日不可抗力ながらもカツアゲから助けた青年だった。キラッキラの笑顔を顔に張り付けぴしりと姿勢を正す姿は、スーツでも着ていれば確実に新人の営業マンに見えていただろう。自分の後輩であったなら訪問前にきちんとアポを取っておこうねなどと指導をしたいところであったが、治は頭を抱えてしまいたい衝動をぐっと堪えてとりあえず対応してみることにした。
「えーっと…君は、どうしてここに...?」
「昨日いただいた名刺で検索したらここの住所が書いてあったんで、とりあえず来てみました!」
「わぁ…とてもアクティブだね…」
「じつは折り入ってお願いがあるんですが、俺をここで働かせてもらえませんか!」
「………なんだって…?」
がばりと90度に腰を折って頭を下げた青年の発言に、治はその頭を上げさせようとした手を中途半端に宙に置いたままぽつりと聞き返す。それを声が届かなかったと解釈したらしい青年は、もう一度元気よくここで働かせてください!と言った。違う、聞き取れなかったわけじゃない。
「あの…すみません、うちは今人員も足りてますので…従業員の募集はしていないんですよ」
「じゃあいつなら募集してますか!?」
「それは…僕の口からはなんとも…」
「そんな…俺、どうしてもここで働きたいんです!アルバイトでも良いんです!」
「どちらにしても、僕は採用担当じゃないので…。交流屋に興味があるなら、本社のサイトから求人情報を見てもらった方が、」
「でも俺、本社や他の店舗じゃなくてここが良いんです!」
「そう言われましても…」
「ここで働きたいんです!」
「いやその、」
「ここで働かせてください!!」
「…なんか、ジブリ映画でこんなシーンあったような…?」
「え?あ、霊山くん」
ひょこりと玄関扉の影から顔を出した悠は、治と青年を見比べてきょとんと首を傾げた。朝ごはんの用意はほとんど終えてしまったという悠に、そんなにここで押し問答をしてしまっていたのか…とちょっとした疲労感を覚えた治が事情を説明するより先に、青年は悠にもがばりと頭を下げて自己紹介をする。
「おはようございます!昨日こちらの方に危ないところを助けてもらったため恩返しをしたくやってまいりました!ここで働かせてください!」
「えーっと、俺にそんな権限はないからなんとも言えないけど…恩返ししたいってのはわからなくもないような…?」
「ちょっと霊山くん!?」
「いやだって、俺もあなたにいろいろ助けてもらってる立場なんで…」
味方になってくれると思っていた悠の裏切りにも近い発言に、治は思わず詰め寄るように悠へ振り返る。それをどうどうと宥めるような仕草をする悠をほうと見ていた青年は、自分の意見が肯定されたことが嬉しかったのか、両手の拳を握り締めて興奮気味に力説をはじめた。
「そうですよね!昨日もすごかったんですよ!?向かってくる悪漢をちぎっては投げちぎっては投げ、なんか不気味な黒いもやもやを一瞬で消し去り、戦意喪失した相手を一睨みで退散させて、それはそれはもうカッコ良かったんですよ!!」
「わかるなぁー!先輩意外と武闘派なところあるんですよね!」
「はい!昨日の俺にとってはまさにヒーローで…!」
「まって、」
「はい!なんでしょう!?」
「……きみ今、黒いもやもやがどうとかって言った…?」
「…あ、」
「あ、えっと、悪漢どもの回りにあった煙みたいなやつですよね!最初はタバコでも吸ってるのかと思ってたんですけど、あなたが手をかざすだけで消えちゃったから、なんか手品みたいですごいなって思いました!」
キラキラとした彼の笑顔で頭を抱えたくなるのは何度目だろうか。青年の言う黒いもやもやとは十中八九悪意のことだろう。しかも昨日のそれは悪意になったばかりの、悠ならばまだまだ見逃してしまうくらいの存在感の薄い悪意だった。それが視認できている青年は、もしかすると治と同じ"目"を持っている可能性がある…?
降って湧いた可能性に、昨日知り合ったばかりの青年を問答無用で突き返すことも、かといって安易に引き入れることもできなくなった治は、藁にも縋る思いで社長に連絡を入れた。
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