百聞は一見に如かず 一見してもわからないこともある
『今注目のあの人!大企業「交流屋」を一代で作り上げた謎の社長の素顔を紐解く!!』
そんな胡散臭いテロップとともに、黒ずくめのいつもの恰好でニヤリと口元に笑みを浮かべた我らが社長が、無駄に格好をつけたポーズで大きくテレビ画面に写っているものだから、治は思わず持っていたチャンネルをテーブルに落としてしまった。
かちゃん、という音がリビングに響いて、次いで額に手を当てた治がすーっと長く息を吐いて動揺をやり過ごそうとしていると、ちょうどキッチンで遅めの昼食を完成させた悠が、ほかほかと湯気とソースの香ばしい匂いを立ち上らせた焼きそばを両手に顔を出した。
「霊剣さん?どうかしました?」
「自分の職場の社長が何の予告もなくお昼の情報番組に生出演してたらどう思う?」
「え?あ、社長だ!すご!」
「……あの人、今まで自分がフォーカスされるようなメディアは全部断ってたのに…どうゆうつもりなんだろう」
眉間にシワをよせた治は、とりあえず食べましょう!と言う悠に促されてダイニングの席に着く。二人揃っていただきますの挨拶をして、キャベツがたくさん入ったコンソメスープを一口飲んで、焼きそばにトッピングされた目玉焼きの黄身をとろりと割ったところで、にぎやかなBGMとともに改めて登場した我が社の社長が、司会者やコメンテーターたちに拍手で迎えられていた。
『社長さん、お忙しい中ようこそおいで下さいました!』
『いえいえこちらこそ、こんなに怪しい人間をお呼びいただけるなんて夢かと思いました!』
「…怪しいって自覚あったんですね」
「まぁ、本名も素顔も明かさない会社経営者なんて、世間一般的には怪しさの煮凝りみたいなものだよね」
「……言われてみれば」
少々お行儀が悪いとは思いつつ、治と悠はもぐもぐと焼きそばを食べながらテレビに映る社長について話す。本来名前が表示されるはずの部分には『交流屋:社長』の文字しか並んでいないし、怪しい黒ずくめの隙間から唯一見える口元は、にやりと固定された笑みが浮かぶばかりで人形やロボットのようだった。
『いや~社長さん、本日も素敵なお召し物ですねぇ』
『いつも全身真っ黒ですよね?季節関係なくそれなんですか?』
『ええもちろん!もはやこれがボクのトレードマークですので!』
『夏とかものすごく暑そうですよね…。その格好になったのには何か理由が…?』
『いやぁ…だってねぇ…。ボクもなかなか大きな会社の社長ですし、なにか良くないことを考えてる人たちに目を付けられないようにしてた方が良いかなと思いまして!』
『逆に目立って目を付けられませんか?』
『それがねぇ大丈夫なんですよ!みんなだいたいボクを見て「あ!怪しいやつだ!」って逃げちゃうんで』
『そ、それは…なかなか斬新な護身術ですね…?』
きゃらきゃらと笑いながら言う社長に司会者がぽかんとしつつ告げると、それが面白かったのか笑みを深めた社長を中心にひとしきり笑いが起こる。粗方おさまったところでようやく着席を促された社長は、黒い上着の裾をひらりと整えてから白い革張りのソファに腰を落ち着けた。
『それでは、まず「交流屋」についてお聞きしていきたいのですが、』
『はいはい、なんでもお聞きください』
『「交流屋」の事業は運輸業、宿泊業、サービス業など多岐にわたりますが、ここまで拡大されたのには何か目的があったのでしょうか?』
『いやいやそれがねぇ、ここまで会社が大きくなっちゃったのはボクも未だにびっくりしているんですけど、』
『社長さんご本人でも…?』
『そう!ボクはただね、人と人とのコミュニケーションとか、それに伴うお仕事や取引なんかがもっと円滑になれば、悩みやストレスを抱える人が減ってみんな嬉しいんじゃないかなと思って、自分にできることを考えてみただけなんです』
『なるほど…そんな会社を、社長さんは一代で作り上げられたんですよね?そのきっかけや経緯などお聞かせいただけますでしょうか?』
『そうですねぇ………始まりは、露店の占い師の真似事からでした』
『占い師、ですか?』
『ええ。来店されたお客様の悩みを聞いて、アドバイスをしたり、お悩みの解決に協力したり…あぁ、それで、だんだんと解決のお手伝いをすることが増えてきて、いつの間にか"なんでも屋さん"みたいに思われていましたねぇ』
「……そうなんですか?」
「うん。ついでに言うと、当時お客さんが来てたのはここの店だったよ」
「え!?」
「つまり、ここは「交流屋」はじまりの場所ってこと」
「へぇぇえ~~」
関心と驚きと感動が混ざったような感嘆の声をあげる悠に、治はくすりと笑みをこぼす。
会社の資料にも載せていないその情報は世間にとってもめずらしいものだったらしく、画面隅に映るコメンテーターたちも悠と似たような表情をしていた。
『それって、当時は「交流屋」という看板は掲げていらっしゃらなかった、と言うことですか?』
『そうですね。当時は……あれ、なんて言ったっけな』
『…社長さん?』
『…あはは!当時の店の名前を忘れてしまいました!ボクじゃいい案が浮かばなくて友人に任せてしまったもので…』
『あ、あはは…そうなんですね。ちなみにそのご友人というのは…』
『あ、今は一緒に仕事してないんですけど、はじめはその友人と二人だけで営業してまして』
『なるほど?』
『ボクが実際にお客さんと対面してお仕事を受けて、彼はそのサポートだったり裏方の仕事を主にやってくれていましたね』
『「交流屋」は、従業員たったお二人から始まったんですね!』
『それが今や、従業員2万人を超える大企業とは…何か成功の秘訣なんてあるんですか?』
『いやいやそんな。ただ、ボクはちょっとだけ、良いご縁を見つけるのが得意だっただけですよ』
『…と、言いますと…?』
『例えば…とある商品を売りたいが上手くいかなくて悩んでいるAさんが居たとします。商品自体はとても良いものだし、Aさんの営業スキルも申し分ない。けれど出会う客層のニーズと商品が合っていないことに気付いたボクは、とあるお店の店長であるBさんを紹介しました。Bさんは甚くAさんの商品を気に入り大量発注すると、店頭にどどーんとそれを売り出しました。Bさんのお店のお客さんたちにも気に入られた商品はどんどん売れていき……結果、商品は一時完売、AさんとBさんお二人の利益にもつながった、という実例が過去にあります』
『な、なるほど…』
『それはご縁と言うより、社長さんの営業手腕と言うことでは…?』
『いえいえ、ボクはただ偶然二人の話を聞いて、あ、この二人の仕事はきっと相性がいいぞ。と引き合わせただけで、経営や売り出し方については本当に口も手も出していないんですよ』
『それ…ほんとうに占い師みたいですね』
『ふふん、そうでしょう?あとは…逆に悪い縁から誰かを助けることだって出来ちゃったりするんです』
『え!例えばどんなふうにですか?』
『そうですねぇ…。最近あったやつだと……とある青年が、突然仕事をクビになるし家は火事でなくなるしで散々な目に合っていまして』
『あらまぁ』
『それはまた…不運が重なりましたね…』
「…………ん?」
「……なんか、聞いたことある話だね…?」
唐突に耳に入って来た身に覚えのありすぎる青年の話に、悠はごちそうさまでしたと合わせた両手をそのままにテレビを見る。少しだけソファから身を乗り出した社長は、ピンと右手の人差し指をたててにこりと笑みを浮かべて続けた。
『さらに不幸は続くもので、青年は自分で自宅に火をつけただろう!とあらぬ疑いをかけられてしまいます。事情聴取をさせてくれと言う刑事さんの目はもう犯人を見る目付きそのもので……このままでは青年に身に覚えのない前科がついてしまう…!と気付いたボクは、咄嗟に二人の間に入り青年の身柄を引き取ることにしたんです』
『引き取った…んですか?社長さんが?』
『ええ。思った通り、そこで青年と刑事さんのねちねちに絡んでいた厄介な縁はすっぱり切れたみたいでして……その日家も仕事もなくなった彼は、今も元気にボクの会社で働いてくれていますよ!』
「ねぇこれ絶対俺の話なんですけど!!?」
「そ、そうだね…」
「え、あの、社長ってそんな特殊能力持ってるんですか?縁が見えるだとか悪い縁から助けてくれただとか…」
「……ちょっと…あの人のことだから否定できないのが怖いところなんだけど…。でも、会社にとって、お客さんにとって良い仕事ができる人と、ウチの会社に引き入れるべきじゃない人を見分ける能力...っていうか嗅覚?は昔からすごかったなって思うよ」
治曰く、社長は治の幼少期から仕事場に治を連れて行くことが多々あったらしく、そこで社長の下で働く人や交流屋に商談を持ち掛ける人、付き合いの長い客人などと対面する機会もあったという。
例えば、子供好きなのかにこにこと治に笑みを向ける人、興味すらないのかテキパキと仕事の話だけを進める人。この二人の人物は、治目線の初対面の話だけ聞いていれば好印象なのは前者であったが、どうやら長く交流を続けているのは後者の人物で、今は本社で幹部クラスの役職についているという。前者の人物とは、いつの間にかさらりと関りがなくなっていた。
「普通はね、初対面で良い人そうだなぁ…って思った人と仕事したいなとか、今後関わっていくならこんなタイプの人の方がいいなって、少なからずあると思うんだよね。でも、社長はそうゆうタイプが特にないのか、新入社員も商談相手も一緒に仕事してる社員さんたちも、人柄とか働き方とか結構バラバラなんだ。でも、どの人も社長が直接対面して迎え入れた人たちで、今もずっといい仕事が出来てるなって印象はあるから……まぁ、そうゆう審美眼のようなものは持ってるんじゃないかな?」
「……なるほど?」
「…ふふ、実は社長は未来が見えるんだよ!とでも言ったほうが良かった?」
「いやでも、今それあながち否定できないんすけど…」
『ああそうだ、ボクが一方的に話すばっかりじゃちょっと信憑性に欠けるかもしれないから、今この場に居る人のご縁もちょっと見てみましょうか?せっかくだから、皆さんのお悩みも解消できるかもしれないよ』
『えぇ!良いんですか!?』
『それは興味深いですね!是非お願いします!』
治と悠が話している間に、画面の向こうが少し騒めきはじめた。どうやら社長が即席でお悩み解消コーナーをはじめることにしたらしく、裏方が少し慌ただしくなった後に社長と出演者3名が向かい合うように椅子に座る。横並びになった出演者たちは心なしかそわそわしているようにも見えて、その中でも一番落ち着きのない様子の男性にくすりと笑みを向けた社長は、ゆっくりと手を差し伸べて彼を一番に指名した。
『お兄さん、アナタのお悩みは?』
『はい!ずばり、私は結婚できますでしょうか!?』
『それは、素敵な女性と巡り合うことができますか?というご質問でよろしいですか?』
『そうです…!!』
『ずっとそれ言ってますよね田中さん…』
『ですがアナタ、結婚したいと本気で思ってはいませんね?毎日仕事で疲れて帰宅して、真っ暗な部屋を見て寂しくなって、あぁ…出迎えてくれる誰かが居たらなぁ…なんて思って安易に"結婚"って言いだしたタイプでしょう』
『ぐっ…』
『図星を突かれましたね』
『そんな方が焦ってお相手を見つけようとしたって、上手くいかないことは目に見えています。ボクとしては、パートナーよりもペットを身近に置く方がおススメですね』
『そうなんですか…!でもウチのマンションペット禁止なんですよ~引っ越そうかな~』
『いやペットで良いんですか!?』
『良くないですよ!でも私いま結婚に向いてないって言われたも同然ですよ…!?』
『しかし!!そんなアナタに朗報です!!』
『なんですか!?』
『なんと、こちらにマッチング率驚異の99.8%を誇る結婚相談所のパンフレットが…!!』
『な、なぁんだって~!?』
「……なんだこれ」
「よく無理矢理宣伝に持っていきましたね、社長」
ばばーん!と社長がどこからともなく取り出し掲げたのは、白地にゴールドの箔押しで『交流屋~縁結び庵~』と書かれた分厚いパンフレットだった。ゴテゴテしてあまり趣味が良いとは言えないデザインのそれは一昨年立ち上げたばかりの新事業のパンフレットで、こちら良ければご利用ください!ありがとうございます!と大袈裟な仕草でやり取りをした社長と男性は、揃ってカメラに目線を向けてぐっと親指を立てた。治はちょっとだけその二本の指をあらぬ方向へひん曲げたくなった。
『はい、茶番はこのくらいにしまして、』
『ちゃ、茶番って言わないでくださいよ社長~』
『次の方、お悩みはなんですか?』
『は、はい…!えっと、私は…』
さらりと男性をスルーした社長に指名されて少々慌てた様子の女性は、相談事を口に出すことをためらっているのかもごもごと口ごもる。その女性に急かすような合図を送るスタッフを制した社長はすたすたと彼女の前に歩み寄って膝をつくと、そっと耳を傾けて口元に人差し指を立てた。
『大丈夫ですよ、ボクにだけこっそり教えてくだされば良いので。アナタが人に知られたくないことはボクも口にしません』
『は、はい』
少し戸惑った後にごにょごにょと何事かを社長の耳にささやく女性の声は、くぐもっているのと社長の大袈裟な相槌にかき消されてマイクに認識されることはなかった。話し終えて不安そうに眉尻を下げる女性にぐっと親指を立てて見せた社長は、なぁるほど~と手を打ち鳴らしながらソファに戻りぽすりと腰かけた。
『え~と、皆さま向けに少しだけお話しますと、まぁ…人間関係のお悩みということで、』
『…はい』
『そうですよね~?ボクもね、難しいと思うんです他人と関わるの。だってみんな全然違うこと考えてて行動してて、好きなことも嫌なことも許容できることもできないことも全部違う人間がご近所で生活するわけで、そりゃあトラブルや悩みが起きないほうがおかしいってもんです』
『そ、そうですか』
『アナタの場合もね、どうしても嫌でもう我慢ならないって思うなら、その人と関わらないようにするというのもひとつの選択肢です。人生長いんだし、なるべく嫌なものとは関わらない。これは心穏やかに生きていくうえでとっても大切なことです。我慢なんてよっぽどするもんじゃないんだよ』
ぴんと立てた人差し指を振りながら社長は言う。それにこくりと神妙に頷いた女性に笑みを浮かべた社長は、でもね…と続けてその指を彼女へ向け、そこから何かを辿るようにつつりと指を滑らせる。その先には複数の番組スタッフがそれぞれの仕事をこなしながらもじっとこちらを見つめていて……その中の一人をサングラス越しに見つめた社長は、少しだけ身を乗り出して女性と目を合わせた。
『キミがその人に言われたことされたこと、もう一度だけ思い出してみて。それはただただキミを責めるだけのものだった?キミを陥れようとするものだった?……ボクは、厳しくても全部キミのためのものだったんじゃないかって思うんだけど』
言われて女性は少しだけ目を見開いた。社長の言葉に思い当たる節があったのだろうか、何かを思い出すように俯いて、それからゆっくりと大きく頷く。うるりと滲み始めた彼女の目元にそっとハンカチを差し出して、社長は芝居がかった動作でくるんとカメラに向き合った。
『厳しいことを言われたり怒られたりするのって、誰しも嫌だって思うよね?でも、それを嫌だって全部突っぱねる前に、自分にとって大事なことを言われていないかって精査することはしたほうが良いと思うな。それを踏まえて、それでも厳しい言い方する人とは付き合いたくないって思うなら離れたって良いし、言い方きついけどこの人良い人だな…って思えたら、案外その人についていくと良いことあるかもしれないし』
『ボク目線のアドバイスを言うと、キミとその人のご縁はとっても良いものに見えるよ。でも例え良いものだったとして、今のキミが耐えられないほどつらい思いをしているんならそれはすぐ断ち切ったって良い。他の良いご縁はきっとまた繋がるから。でもキミがもう少しだけ頑張るって言うなら、ボクからその人にもうちょっと優しくしてよ!って一言言っておくから。ね!』
『わ、わたし...頑張ります…!頑張りたいです…!』
『良く言ったね!良い子!上出来だよ!というわけでどこかの誰かへボクから一言!あんまり厳しいことばっかり言ってると可愛がってる子から嫌われちゃうぞ!叱ることと褒めることはきちっとメリハリつけて!特に誉め言葉はちゃんと口にして伝える!この子は優しくて素直な子だから、きっと優しくした方が伝わるぞ!!』
ずずいとカメラににじり寄って指を突き付けた社長は、画面がほとんど真っ暗になるほどに近付いて言いきると満足そうに息を吐いた。それを見ていた誰かが気まずそうに小さく咳払いするのを視界の隅に捕らえると、再び颯爽とソファに腰かける。ついと視線を最後の相談者である一人に向けると、その男性は気まずそうにおずおずと切り出した。
『あの…この次ってとっても言い辛いんですけど…』
『そんなことないよ!遠慮なく言っちゃってください』
『えっと…近々車を買い替えようと思っていて、』
『なるほど!あと3カ月待ったらこれだ…!っていうものに出会えますよハイ解決!』
『えっ、あ、ありがとうございます…!』
『社長!ちょっと男女で対応に差がありすぎですよ…!』
『だって、キミたち彼女ほど深刻に悩んでないでしょう』
『『くっ…!』』
『交流屋はお客様に寄り添ってお仕事をさせていただくのでね、真剣なお悩みには真剣に、素朴なお悩みにはそれなりに対応させていただきます!』
堂々と胸を張る社長の前に沈んだ男性陣二人に、スタジオから笑い声が上がる。先ほどまで涙ぐんでいた女性にも笑みが浮かんだところで、何やらカンペが出されたのかぱちくりと瞬きをして口を開いた。
『えーと、"結局社長の素顔が何も"…あ!そういえば私たちばかり悩みを相談して、結局社長さんご自身のことが何も…』
『え?そうだったっけ?』
『そうですよ!もう番組も終わっちゃいますし、何か社長さんの秘密の一つや二つ暴露してほしいんですけど…!』
『そんな簡単に言っちゃったら面白くないから言わないよ~』
『そこをなんとか…!』
『え~?じゃあせめて代わりに……何かもうひとネタ…』
ううむと悩んで上を見上げた社長は、顎に手を添えてこてりと首を傾げる。しばらくして何かを見つけたのかきょろきょろとあたりを見回すと、近くに居た男性の肩にポンと手を置いた。
『あのね、ボクさっき彼女に"嫌なことは我慢しなくて良い"…みたいなこと言ったでしょう?』
『え、は、はい』
『キミもこの場に居るみんなもね、我慢しなくて良いんだよ?たとえ自分より立場が上の人だって、嫌なことは嫌って言って良い。特に彼みたいな人にはね』
ぴっと社長が指さしたのは一台のカメラだった。それを構えていたカメラマンが驚いた表情をするが、社長はいやいやキミじゃあないよと手を振って見せる。社長が見据えていたのはモニターの向こうの一人の男であって、なぜかぴりりと張りつめたその場の空気に、誰かが息を飲む音が聞こえた気がした。
『ここに来た時にね、ちょっと嫌なご縁が皆さんに繋がってるなって思ってたんです。で、今それの出所がわかりました』
ざわ…とどよめくその場の空気も気にしないで、社長が一人の男の名前を呼ぶ。それはこの場の誰もが知っているもの、この番組を作り上げているプロデューサーのもので、編集室でずっとモニターを見ていた一人の男はぴくりと眉間にシワをよせた。
『人とのご縁って、その人によって良い縁悪い縁っていろいろあるんです。AさんからBさんにとっては良い縁でも逆だと悪い縁だったりとか、もちろん双方にとって良縁である場合だってたくさんありますよ?でもアナタ、ここの皆さんにとって悪縁過ぎるんですよねぇびっくりするくらい』
なになに?アナタとアナタとアナタもパワハラの被害に?まぁキミはセクハラ?残業を強要された?暴力を振るわれた?台本をぶん投げられた?倉庫に閉じ込められた?まぁまぁまぁ…酷いことするねぇ…みんな大変だったねぇ…とスタジオ内を一人で喋りながら歩き回る社長の姿を、カメラは静かに追いかけている。社長に言葉をかけられた者は皆総じて図星を突かれたような、恐怖を思い出したような、隠し事を暴かれたような凍り付いた表情をしてそっと視線を下げるものだから、無言の肯定をする被害者がこんなにも多く居るのだと社長は嘲笑にも似た乾いた笑いを隠すこともしなかった。
『あーあ、こんなやりたい放題な人って居るんだねぇ。ほんとにびっくりだよ。みんなよく頑張って耐えてたね。でも、もう我慢しなくて良いと思うんだ。これだけ嫌なことされて黙ってるなんて良くないよ。嫌なことは嫌って、今日こそちゃんと言ったって良いとボクは思うな』
言って、社長がひらりとカメラへ振り返った途端、背後でスタジオの扉がどたんと大きな音を立てて乱暴に開かれた。息を切らしてそこに立っていたのはプロデューサーの男で、つかつかと社長に歩み寄ろうとしたその足を止めたのは、男の前に立ちはだかった人の壁だった。狼狽える男の前に立つ人々の瞳はどれも闘志や覚悟でぎらついていて、思わず後ずさった男へ多くの糾弾の声が降り注いだ。
スタジオ内は一気に騒然となったが、誰もそれを止めるものはなく、カメラはただただ顔を青くして小さくなっていく男とそれを取り囲む集団を映している。画面の端で他人事のようにそれを眺めていた社長は、カメラに映されていたことをさも今思い出したかのようにぽんと手を打ってカメラの目の前に躍り出た。
『さてさて、皆さんのお悩みもこれで解決しましたかね?交流屋は様々な分野で皆さまに寄り添う企業です!どうぞよろしく~』
背後の喧騒もまるっと無視して画面に映る社長は、そう言ってニヤリと口角をあげるとひらひらりと手を振った。直後に画面はCMに切り替わり、どこかの保険会社のマスコットが音楽に合わせてぺこぺこと踊っている和やかな映像になる。そのあまりの温度差に画面を見ながら呆けていた治と悠だったが、ふと我に返った治がぺちんと手を叩いて、その場の奇妙な空気を散らした。
「…………さて、仕事に戻ろっか…」
「…そうっすね」
治と悠は揃って何も見なかったことにして、そそくさと残りの業務に取り掛かった。
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