合縁奇縁④
「治~朝だぞ起きろ~」
「…………ぅ?」
「どうした今日は寝坊助か………あ?」
毎朝目覚ましもなくきちんと起きて来る治が、朝のニュース番組が終わる時間になってもめずらしく姿を現さないものだから、ハルはひょこりと部屋を覗きにやって来た。掛け布団にくるまってもぞもぞしていた治は呼びかけにのったりと顔を上げて、けれどその頬がいつにも増して赤く火照っていたから、ハルはぱちりとまばたきして少しだけ眉間にシワをよせた。
「大変だ~!!治くんお顔が真っ赤じゃないか…!!」
「うるっせぇ!騒いでる暇あったらさっさと病院行く支度しろぉ!!」
どたばたどたばたと、室内を彷徨って騒ぐ社長にハルが怒鳴る。その横でぼーっとしている治の顔は発熱で真っ赤になり、鼻が詰まって息がしづらいのか瞳もうるうると潤んでいた。久し振りにしっかり風邪をひいた治を着替えさせてやりながら、保険証どこだっけ?診察券どこだっけ?とおろおろしている社長に指示を飛ばすハルは、なんとか支度を整えた二人の背後でぐったりと大きく息を吐いた。朝から多大な疲労を感じながらも二人だけでは心配なのでしれっと小児科まで同行したが、診断結果はごく普通の風邪だったため処方された薬を受け取って帰宅しやっと一息ついたところ、だったのだが……
「なんで!やだ!僕も治くんの看病するよ~!!」
「お前は今から仕事だろうが!」
「リスケしてもらうから平気だもん!」
「自分の我儘で先方に迷惑かけんじゃねぇ!」
「だって…!!僕は治くんが心配で心配で…!!」
「だったら静かに仕事行って早急に治を寝かせてやれ阿呆!!」
「わ~ん!暴力反対!」
仕事に行きたくないと駄々をこねる社長を、最後はつまみ出すようにして送り出したハルは、ようやく寝かせた布団の中ではふはふと苦しそうに呼吸する治の頭をそっと撫でてやる。少しだけおかゆを食べて薬を飲んだし、後はこの熱さえ引いてくれれば順調に回復に向かうだろうと、治がゆっくり眠れるように部屋から出ようとしたハルは、服の裾をくっと弱々しく引かれて足を止めた。
………それはまるで、あの雨の日のような、今にも消えてしまいそうな感触だった。
「っ…治、どうした?寝られないか?」
「は…はる、さ」
「うん?どうした治」
「…ゃ、だ」
「ん?」
「いっちゃ…やだ」
真っ赤な顔で目を潤ませた治は、そう言って少しだけハルの服を握り締めた。本当はちゃんと引き止めたいのに、熱でぼーっとする身体ではあまり力も入らないのだろう。だけど、治の望みは十分すぎるほどに伝わった。はじめての治の可愛らしいわがままを受け取ったハルはすぐに枕元に腰を下ろして、治の小さな手を握り返し汗で額に張り付いた前髪をそっと退けてやると、そこから早く熱が引きますようにと温度の低い手のひらをそっと乗せた。
「わかった。どこにも行かねぇから、お前は安心して寝てな」
「…ほんと…?」
「あぁ、大丈夫だからな」
「………………」
「…………どうした?」
「ぼく、いま…わるいこ?」
「いいや?全然悪い子じゃないぞ。なんでそう思ったんだ?」
「……やだって、いったから」
「行っちゃ嫌だって?そんなの悪いわけないだろ。治がそばに居て欲しいって思ったんなら、オレはちゃんと口に出して伝えてほしい。むしろ、ちゃんと言えてえらかったな、治」
そっとそっと、治のまるい額をなぞるように撫でてやると、息苦しそうにしながらも治は目を細めてほほ笑んだ。最近ぎこちなさが消えて来た治の笑みにハルも同じように返してやると、やがてとろりと治の瞳が眠そうにとけて瞼が下がって来る。そのままゆっくり寝ろよ、と優しく頭を撫でていると、その手に触れた治がぽつりと何事か呟いた。
「…ぃ、…て…?」
「ん?」
「ど、して…?」
「どうして…って?」
「はるさ、ぼくに…やさしいの…?」
「……治は、変なことを考えるなぁ、」
大人が子供を守って、優しく、大切にすることは、治にとっては当たり前のことではないのだろうか。
ハルは、自分はいい歳した大人だと自覚しているし、子供を気にかけてやって当たり前だと何となく思っていたけれど、治にはその優しさに理由が必要らしかった。何となくやっていたことに理由を見付けるのはひどく難しいけれど、やっぱり何となく、はじめから抱いていた気持ちは確かにあった。
「そうだな…難しいけど言葉にするなら……お前のちっこい手がはじめてオレの手を取ったとき、絶対にお前を守るって誓ったんだ。だから、あの雨の日からお前はオレの大事な人間の一人になったし、大事なやつを守ることも優しくすることも、別に普通のことだろ?」
じっと治の瞳を見ながらそう言ったハルは、しばらくしてあれ?これ答えになってるか…?と不安そうに目を逸らす。さっきまできりりと格好良かったハルの姿はもうそこにはなくって、ハルさんどうしたんだろ?へんなのとくすりと小さく笑った治は、さっきまで胸に渦巻いていたモヤモヤした気持ちがなくなったのを自覚して、すとんと気持ちよく眠りにつくことが出来た。
――大事な人を守るのも優しくするのも普通のことなら、ぼくがハルさんのそばに居たいって思うことも、今度はぼくが優しくしたいって思うことも、きっと普通のこと…なんだよね。
夢の中のハルは、そうだなと笑って、また治の頭を撫でてくれた。
―――――――
「治くん!お誕生日おめでとう!」
「おめでと~!」
「あ、ありがとう…」
照れくさそうにお礼を言う治の頭を、社長とハルがわしゃわしゃと撫でる。ぼさぼさになった髪を恥ずかしそうに笑いながら直す治に差し出されたケーキには、カラフルな5本のろうそくが刺さっていた。
治とハルと社長が出会ってから、治はもう2回目の誕生日を迎えていた。何も話さない無表情だった子供が徐々に表情豊かになって、ゆっくりと言葉を発するようになって、今では簡単な自己紹介程度なら流暢にできるようになっている。相変わらず自己主張は控えめだが、治の性格上こんなものだろうとハルは思っている。
絵を描くことが好きで、本を読むのが好きで、手先が器用で、少し前からハルのマネをしてキッチンに立つようにもなった。毎度苦労して治の食事を用意しているハルに申し訳なくなったらしいその提案に、また余計な心配をしていると眉間にシワをよせたが、出来ることが増えるのはまぁ良いことかと火を使わない約束を条件にハルの監視下で許可を出した。数日後には治が自分で作った塩むすびをハルにもどうぞと差し出してくるから、同じものが食べられない自分が心底恨めしくて悔しくて、ハルは隣で美味しそうな塩むすびを得意気に頬張る社長の腹に渾身のパンチをお見舞いした。拳は綺麗にすり抜けたため、ただただ悔しさが上乗せされただけだった。
切り分けられたショートケーキを頬張って、治は口の端にクリームをつけたままにこにこと嬉しそうにしている。もぐもぐ動く口元のクリームを拭ってやろうとハルがティッシュを手に取ると、フォークをきちんと皿に置いた治はハルからティッシュを受け取って自分で綺麗に口元を拭った。
「はるさん、ぼくもう5さいです。じぶんでできます」
「っはは、そうか…えらいなぁ治」
「ふふ」
嬉しそうに胸を張った治は、隣で同じようにケーキを食べている社長にもティッシュの箱を差し出す。子供のように口元をクリームで汚した社長の世話を笑いながら焼いている様はもはやどちらが親なのかわからなくて、ちぐはぐなその親子を見てハルも吹き出して笑った。
――ずいぶんとしっかりしすぎた子になっちゃったなぁ…。でも、オレが世話しなくても良くなったってことは、喜ぶべきこと…なのかな。
この日、ハルは一人ある覚悟を決めた。
「……それ、本当なの?ハルくん」
「嘘言ってどうするんだよ。それで生まれ変わる順番が遅くなるわけじゃあるまいし」
「そう、だけど…」
「大丈夫だろ。治も大きくなったし、お前と二人でもやっていけるよ」
そう言って友人の肩を叩いたけれど、俯き加減の顔が上を向くことはなかった。
現世での死後あの世で暮らす人々には、いつか必ず天からの通達がやって来る。どんなシステムなのか本人にしか認知できないその通達は、機械的に現世へ生れ落ちるその日を知らせて来る。それは死後数日であったり数年後であったり100年後であったり、明確な法則のない知らせを心待ちにしている者も居れば、現世に残してきた者を想い転生を望まない者も居る。
ハルは、まぁ順番が来るならそれに従うまでだろうな…と思っていたのに、いざその通達が来た瞬間、頭に浮かんだのは喜びでも悲しみでもなく、治のそばを離れなければならないという不安と寂しさだった。
出会ったあの雨の日から、小さな命が無事に穏やかに育つようにずっと見守って来た。少し目を離せば消えてしまいそうだった幼子は、今は元気にすくすく成長できている...と思う。まだまだ治の成長は見ていたいし、あと1年で小学生になる治にそろそろランドセルを買ってやらなければと、社長と少し気の早い話もした。この先、ちゃんと治が幸せになれるのか。見守りたい気持ちはあれど、残された時間はあと数日しかない。
「……治にも、明日伝えとこうと思うんだ。いきなりいなくなるよりちゃんと挨拶はしたいし」
「…それは、そうだろうけど、」
「大丈夫だろ。治はしっかりしすぎてるくらいだし、むしろお前を置いてく方がオレは不安だよ」
治に迷惑かけないようにしろよ、なんて呑気に話を終えたつもりのハルは、眠る治の顔をそっと眺めて自身も眠りについた。
「うまれ、かわる…?」
「そう、今のオレの魂が、現世で新しく生まれるってこと。だから、今のオレはもうすぐいなくなっちゃうんだ」
「はるさん、あかちゃんになる…?」
「あ、う、うん…まぁ…そうだな」
「あかちゃんのはるさん、ぼくといっしょにいてくれる?」
「あー…どうかな。生まれ変わった後は、どこに生まれるかもわかんないし…前世のことを覚えてるわけでもないから…」
「……あえない…?」
「………でも…治ならもう、オレが居なくても大丈夫だよな?」
そう言って口角をあげたハルの表情は、お世辞にも綺麗な笑みとは言えなかった。見慣れないハルの下手くそな笑みに驚いて、それからハルの言葉を自分なりに咀嚼した治は、ぱちりと見開いたままの両目からぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。驚いたハルは咄嗟に後ろに居た社長を振り返ったが、当の社長は呆れたような顔をしてやれやれと首を振るばかりで、ちっとも助けてくれる様子はない。やがて治がずびっと鼻をすする音で我に返ったハルは、そばにあったタオルを手におずおずとハルの顔を覗き込んだ。
「えっ、は、治…?」
「……っなに、」
「そん、な、なんで泣いて、」
「ない、てない…もん」
「いやお前、そんなぐしょぐしょに泣いてるくせに…」
「だって…ないたらはるさん、こまる」
「こま...らないこともないけどさ…!」
「だって、うまれてくるって、いいことなんでしょ…?おめでとうって、いうことなんでしょ…?」
「…そう、だな」
「だったらね、ぼく、はるさんにちゃんと、いってらっしゃいしなきゃ…だめでしょ?」
「………かもな」
「でもぼく、わるいこだから、いってらっしゃいしたくないって…おもっちゃった」
「……………」
「はるさん…ぼく、まだはるさんといっしょがいいよ、っ」
くしゃりと表情を歪めた治は、ついにわんわんと声をあげて泣き出してしまった。いつも声を押し殺すように泣いていた治の慟哭は切なくて痛々しくて、つきりとハルの胸を刺す。たまらず治を抱き締めた腕はするりと小さな身体をすり抜けて、けれど、ハルの腕に包まれたと理解した治は、その両腕にぎゅっとしがみついた。
「大丈夫、お前は優しくてしっかり者の良い子だよ。…でも、だからって、オレが居なくても大丈夫だとか、勝手な思い込みだった、ほんとにごめん。それに……オレだって、叶うなら…治ともっと一緒に居たいよ」
「…っん、ぅん…!」
「辛いなら辛いって、嫌なことは嫌だってちゃんと言ってくれ。……残りの時間は少ないけど、たくさんわがまま言ってくれ。精一杯、オレが叶えるから」
「……ぅん」
「そんで、それでも寂しくなったら、寂しくてどうしようもなくなったら…オレを呼べ。そうしたら、どんなに時間がかかったって、オレはお前に会いに行く」
「…ほんと…?」
「あぁ。死んだ人間のオレと死にそうだった子供のお前、本当なら会うこともなかったはずなのに……オレたちは奇妙な"縁"で結ばれて出会ったんだ、この"縁"はそう簡単に切れないよ。…だから大丈夫、きっとまた会えるから」
ゆっくりと顔を上げた治の頭を、ハルはその形をなぞるようにそっと撫でる。ほんとうに?絶対また会える?とまだ不安そうに眉尻を下げる治に、ハルは内緒話をするように悪戯っぽく笑って囁いた。
「オレたちが絶対会えるように、ひとつおまじないを教えといてやるよ」
「おまじない…?」
「って言っても、オレの名前なんだけど」
「………?」
「"ハル"って、オレのあだ名であって本名じゃないんだ。だから、お前にだけオレのホントの名前を教えとく。ガキの頃女みたいってからかわれたからあんまり呼ばれたくないけど…治だけは特別な」
「とくべつ…」
「名前って、そいつの魂の一部なんだよ。だからそれを呼んでくれたら、オレがお前を見付ける手掛かりになるはずだ」
な?と首を傾げたハルに、治は少し逡巡して迷う素振りを見せて、やがてこくんと一度だけ頷いた。よし、と頷いたハルは治の耳元に口をよせて、こっそりと自分の名前を紡ぐ。聞き間違えないように耳を澄ませて、言い間違えないように幾度かハルに確認してしっかり名前を記憶した治は、それから右手の小指をぴんと伸ばしてハルに差し出した。
「はるさん、やくそくね。ぜったいあいにきてね」
「……あぁ、約束な」
ぎゅっと絡んだ小指が上下に揺れて、それから名残惜しむようにゆっくりとほどけて離れていく。そんな二人の小指を繋ぐようにしっかりと結ばれた縁の糸は、じっと二人を見守っていた社長の目にしか映っていなかった。
それから数日後、朝起きた治の枕元に「またな、治」と短いメッセージのメモだけを残したハルは、静かに姿を消していた。
―――――――
「じゃあ…今その人は、現世で生きているってことですか?」
「霊剣さん、ちゃんとその人に会えたんでしょうか?」
「さぁ、どうだろうねぇ?気になるなら霊剣くんに聞いてみる?」
そう言ってにやりと口角をあげて笑った社長は、きっとその人がどこに居るのかも、二人が再会できたのかも全部知っているんだろうなと、悠は思った。手元のアルバムにもう一度目を落とすと、ほんのり笑みを浮かべた幼い治の隣に、なんだかぼんやりと人影が見えて来たような気がして……まさかとその写真をよく見ようとした悠の背後から、地を這うような低い声が聞こえて来た。
「こんなところで3人揃って何をしてるのかな?」
「わぁああ!!?」
驚いて悲鳴をあげた悠の手から、危うくアルバムが落下しそうになったのを何とかキャッチした。おそるおそる振り返ると、腕を組んで仁王立ちした治がじとりと目を細めて悠たちを見渡していて、ぱちっと悠と目が合った治はやれやれとため息を吐いた。
「休みの日とはいえ、何をごそごそやってるのかと思ったら…」
「懐かしいでしょ?治くんってばこんなところにアルバムしまい込んじゃって~」
「いい年してそんなに見返すものでもないでしょう」
「えぇ~?ボクはいつでも小さくて可愛かったころの治くんを見返したいのに?」
「いつまで親バカやってるんですか。だいたい、休みの日に用事があるから来店するって言ったのはあなたなのに、こんなところで遊ばないでくださいよ」
「え~怒んないでよ。出張土産持ってきただけだからさ、みんなで食べよう?」
「わ~い!お土産!いただきます!!」
「あっ、こらハカセ!」
社長が掲げた紙袋をいち早く奪い取った可那子が、我先にとキッチンの方へ駆けて行く。その後を笑いながら社長が追いかけて、少し散らかった物置部屋には治と悠が残された。
「…まったく、散らかしといて片付けないんだから」
「あ、すいません俺が、」
「ん?霊山くんが謝ることないよ。どうせハカセが何か探しててぐちゃぐちゃにしたんだろうし」
「……どっかで一部始終見てました?」
「見てたら散らかす前に止めたんだけどなぁ」
ふふ、と苦笑した治は、散らかった雑貨をサクサクと適当に箱に放り込むと、アルバムを一つにまとめはじめる。悠も身近にあった数冊をまとめていると、ひらりと一枚の写真が零れ落ちて来た。
それは、昔この店の前で撮った、幼い治と社長とおそらくもう一人が手を繋いで写っているものだった。
「……あ、」
「あ、どっから落ちたんだろ。確か最後の方のページに入れてたと思うんだけど…」
悠から拾った写真を受け取った治は、一冊のアルバムを手に取ると後半の方のページを開いてぺらぺらと隙間の空いた部分を探している。やがてひとつのポケットが空いているのを見付けると、そこに写真を差し込んで名残惜しそうにページを閉じた。その横顔が懐かしむようで、少し寂しそうで、思わず様子を窺うように見ていた悠は不意に顔を上げた治と目が合って少し肩が跳ねる。それにまた苦笑した治は、アルバムを大きな箱にしまい込みながら尋ねた。
「ハルさんのこと、気になる?」
「っえ、あ、その…」
「隠さなくて良いよ。そうゆうの、霊山くんはいつも顔に出てるから」
「う…すみません」
「………ハルさんとはね、ちゃんと会えたよ」
「ホントに!?良かったっすね!!」
「うん。元気そうだったから、僕も安心した」
「へぇ~!昔の話とかしたんですか?」
「ううん。ハルさんは僕のこと覚えてなかったし」
「え」
「そんなもんだよ。前世のこと覚えてる人なんて普通居ないでしょ?」
「そう…っすね、すみません」
「気にしないで、僕はまた会えただけで満足なんだから」
ぽん、と悠の肩を叩いた治は、棚の上によいしょと箱をしまってぱんぱんと手に着いた埃をはらう。それからゆっくり息を吐いて今しがた片付けた箱をぼんやりと眺めながら口を開いた。
「…ねぇ霊山くん、ここでの生活はどう?」
「え?」
「辛いこととか不便なことはない?あったら遠慮せずに言うんだよ?」
「不便だとか…そんな!確かにはじめはいろいろありましたけど、今はもう…なんか普通に楽しんじゃってますね」
「…そう、良かった」
「へへ、霊剣さんのおかげっすよ。いつもありがとうございます」
「そんなことないよ。……僕は、昔もらった恩を返してるだけだから」
「そう…なんですか?」
きょとんと首を傾げた悠は、不意に廊下から可那子に大声で名を呼ばれる。どうやらお茶を淹れたいらしいが上手くできないという訴えに二人で小さく笑って、ちょっと行ってきますね、頼んだよ、なんてアイコンタクトを交わす。すぐ行く~という返事をしながら部屋を出た悠の背を見送って目を伏せた治は、ぽつりと小さく呟いた。
「ねぇ、僕はちゃんと恩返しできてるかな?"悠さん"」
小走りに廊下を進んでいた悠は、誰かに名前を呼ばれたような気がして足を止めて振り返り、待ちくたびれた可那子に背後からタックルされて廊下に沈んだ。
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