親の心子知らず 兄の心を知る妹
客足もなくのんびりと事務仕事を片付けていた悠は、静かな空間と縁側から差し込む温かな日差し、ついでに昼食を食べて満たされた食欲の影響で、とろとろと睡魔に襲われていた。治お手製のオムライスも卵がとろとろふわふわですごく美味しかったなぁ……なんて、思い出したらよだれが出てきたので慌てて拭うと、隣からくすくすと押し殺した笑いが聞こえて来た。
「……眠そうだね?」
「う、すみません…」
「まぁ仕方ないよ。少し休憩にしようか」
ぱたんと使っていたノートパソコンを閉じた治は、さっさと立ち上がるとお茶を淹れるためにキッチンへ向かう。すぐに急須と湯飲みを二つと、先日社長が買って来たというちょっと高級らしいどら焼きを二つお盆に乗せて戻ってきた治に、悠は姿勢を正して礼を告げた。
「どら焼きがあったから今日は緑茶にしちゃった」
「良いっすね!」
ノートパソコンや書類を一旦テーブルの端に避難させて、二人はそろっておやつタイムに落ち着いた。ふっかふかの生地に挟まれたこしあんは上品な甘さでしつこくなくて、あたたかい緑茶との相性が抜群に良い。さすが社長チョイスのお菓子…とほっこり幸せに浸っていた悠は、不意に滅多に鳴らない店のインターホンがぴんぽーんと間延びした音をたてたのに驚いて、ごきゅりと熱めの緑茶を飲み下してしまった。
「っぐ、っほ、」
「うわ、ちょっと大丈夫?」
「っす…」
「涙目なんだけど…」
さすさすと悠の背を撫でた治は、けれど来客を待たせるわけにはいかぬと席を立つ。お茶とおやつを下げるついでにお水でも飲んで落ち着いておいで、と優しく送り出された悠は、冷たい水を飲んだ後に客人用のお茶を出さねばとお湯を沸かした。
「悠!ちょっと悠!?居るんじゃろ!?」
「え、ちょ、お客様!?」
治の戸惑ったような声ととてつもなく聞き覚えのある声が客間から聞こえたのは、キッチンのケトルがそろそろお湯が沸くぞーとこぽこぽ鳴り始めた時だった。普段は客を立ち入らせることのないキッチン付近まで聞こえた声に何事かと顔を覗かせた悠は、そこに居た人物を見てぎょっと目を見開く。
「か、母さん!?」
「え!?」
「悠!無事なん!?」
「えっ、な、なにが…!?」
母と呼ばれたその人は、づかづかと悠に詰め寄ると全身をくまなく見渡して、ぺちぺちぺたぺたと悠の身体に触れる。やがてほっとしたように息を吐いて落ち着いたのを静かに見ていた治は、事情を詳しく聞くべきか…?と2人を客間へと誘導した。
――――――
「えーと、つまり、息子さんからの仕送りが急に増えたから、変な仕事をしてお金を荒稼ぎしているんじゃないか、と心配で駆け付けられた…ということですね?」
「ええ、そうなんです」
客間に3人で腰を落ち着けてしばらく、当初の勢いがすっかり落ち着いた母親から事情を聴いた治は、少々ぶすくれた表情の悠とゆっくりとお茶を飲み下した母が目線だけで口論している様子を見てこっそり苦笑した。
悠が実家にいくら送金しているのかなんて詮索するつもりはないけれど、フリーターから正社員になったためにその額が増えたことは明らかだ。もしや母に転職の報告をしていなかったのでは…?それならば母の動揺っぷりも納得できるものがある、なんて疑いの眼差しを向けた治に、悠は慌てて弁明の声をあげた。
「えっ、いや違いますよ!?かぁさ…っ母にはちゃんと、交流屋の正社員として雇ってもらえることになったから、仕送りの額増やすねって言いました!」
「増やすねって言われたって、いきなり今までの2倍も3倍も送られてきたらびっくりするに決まっとるじゃろ!」
「えっ」
テーブルを叩いて言った母の言葉に治が目を見開くと、悠はそんな治を見てきょとんと首を傾げる。いくら交流屋の給与が他企業と比べても潤沢な方だったとして、アルバイトを掛け持ちしていた悠の以前の稼ぎとそこまでの差になるだろうか。これは母の意見に分があるか…?と考えた治は、近くの書棚から交流屋の求人情報を引っ張り出してきた。
「えーと…お母様、こちら参考までにご覧いただきたいんですけども、」
「あ、はい」
「こちらウチの求人情報でして、給与は高卒大卒で少々差があるものの、大体このようになっております」
「まぁ、結構いただけるんですねぇ」
「さらに、ウチの店舗で業務にあたると特別手当もつきまして、合計でこのくらい、保険料や税金など引かれて実際手元に入るのは、おおよそこのくらいでしょうか」
どこからか取り出した電卓をたたきながら説明する治の話を、母はふむふむと頷きながら聞いている。やがて見せられた数字を見てほう…と納得したように呟いた母は、そこから少しボタンを押しながら治に返した。
「ちなみに、先月この子が送ってきた金額がこれですので……この子、ひと月こんなもんで生活していることになるんですが…」
「……これもうお小遣いの金額ですねぇ…」
電卓が表示している5ケタの数字を見て、治と母は揃ってため息を吐いた。遅れて数字を見た悠がだいたい合ってる…なんて呑気に呟いた直後に母からしばかれたのを見て、治は思わず頭を抱える。そんな二人の様子に未だ首を傾げている悠に、治は言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。
「あのねぇ、これはお母様が驚くのも無理ないよ」
「え、でも…」
「きみ、これでちゃんと生活できてるの?」
「あ、はい。この店に来てから家賃と食費はかかってないですし、服も以前譲ってもらったやつで今のところ十分だし、俺、あんまり大きい買い物だってしないし…」
「そうかもしれないけど、もう少し自分のために使ったって良いんじゃないかな?」
「いえ、今はこれで十分ですよ。そんなことより俺は、妹のために使ってほしくてお金を送ってるんです。妹…唯は来年受験生なんですけど、今のうちにお金を貯めておいたら行きたい学校の選択肢だって増えるだろうし、仕送りが増やせるようになったから、予備校とか学習塾も必要なら行けるようになるし、」
「悠…」
息子の想いを聞いた母は、我が子にそんな心配をさせたことを情けなく思うと同時に、昔から妹想いであった兄の変わらぬ優しさを嬉しく思う。突然送られてきた大金には驚いたが、ならば言う通りに妹のために、妹が不自由なくやりたいことを選択できるように、これからも遠慮なく使わせてもらおうと心に決めた。……妹のことしか考えていないバカ息子を甘やかすのは、またの機会にすることにして。
「そう言えば、母さん一人でここまで来たの?唯は?」
親子の話し合いも無事終わったところで、治は中断していたおやつタイムの再開を提案した。せっかくだからと悠の母にも淹れ直したお茶とどら焼きを差し出して、まぁ親子でのんびりしてもらおうかと腰をあげかけたところで悠が口を開いたものだから、治はなんとなく退席のタイミングを失ってしまった。
「あぁ、唯はオープンキャンパスに行っときたい学校が近くにあるからって、最寄り駅までは一緒だったけどそこからは別行動にしたんよ」
「え、あいつ地元で学校探すって言ってなかった?なんでわざわざこっちで…?」
「都内の大学にも行きたい学部があるからって言っとったね。あと、一丁前に学費のことも気にしとったみたい」
「はぁ~~やっぱりか」
「うん。でも、アンタのおかげで、そんなこと気にせんで良いって胸張って言えるわ」
「そうだね。それに唯すごい人見知りするから、いきなり見知らぬ土地で一人暮らし…ってのは心配になる…」
「まぁ、こっちならアンタが居るし私は良いと思ったけどね。昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって悠の後をずっとついて回ってたから…やっぱり近くに居ないとさみしいんじゃないの?」
「えぇ…?それ何年前の話だよ…。最近はちょ~っと実家帰ったら睨まれるし洗濯物一緒にしないでとか言われるのに…?」
「あら、そうなの?」
「特にパンツ混ざってるとめちゃくちゃ怒られる…あれめっちゃ傷つくんだけど…」
「…それ、思春期の娘を持つお父さんの悩みじゃない…?」
「はは、まぁ…俺が父親代わりになんなきゃ、って思って不要なお節介した自覚は多々ありますけど…」
顔を覆って落ち込んだ悠の物悲しい悩みに思わず口を挟んだ治は、苦笑しながら顔を上げた悠の背を何となくぽんと撫でる。少し年の離れた妹を殊更に可愛がって目をかけてしまうことは、きっと自然のことなのだろうと思うし、多感な時期の少年少女がそれをうっとおしいと跳ね除けてしまうのも、なんだかよく耳にする話だなぁと、少し同情してしまった。
「あ、ちなみにどこの大学だって言ってたっけ?」
「あら、言わんかった?●●大学ってとなり街の、」
「はぁ!!?」
「な、なに!?」
「よりによって!?あそこ地元で良い噂聞いたことないんだけど!?」
「え!?そうなん!?」
「ちょっと俺、唯のこと迎えに行く!」
「あ!ちょっと!」
言うが早いか、どたどたと部屋を飛び出して行った悠に治が唯一言えたことは、社用車使っても良いけど法定速度は守ってね~という、なんとも少しずれた注意事項だった。
――――――――
「あ、あの、私もう帰るので、」
「え~?いいじゃんもうちょっとさぁ」
「そうだよ、せっかく見学に来たんだしゆっくりしていきなよ~」
「あ、なんならお茶でも一緒に行く?質問があったら俺らなんでも教えてあげちゃうよ~」
都内某所の私立大学。真新しい赤色のレンガ造りの大きな校門付近で、一人の少女を3人の男が壁際に追い詰めるようにして取り囲んでいた。俯きながらじりじりと後退する少女の挙動は例えるならば怯える子兎のようで、喰らいつくまであとわずか…と楽しそうにげらげらと卑下た笑みを浮かべる男たちの顔は、背後から伸びた手が強引に獲物を掻っ攫ったことでスッと温度を失った。
「唯、もう見学は終わったでしょ。帰るよ」
「え、お、お兄ちゃ、」
「…ちょ~っと待ちなよお兄サン?」
獲物を横取りした男がさっさと踵を返して立ち去ろうとするものだから、男たちはその肩を掴み引き留めて、少女と二人まとめて取り囲む。じろじろと観察した相手はひょろりとした体躯の優男で、あぁなんだ、こんなやつ簡単に片付けてやるかと目配せした3人の男たちは、気安げに男の肩を組んだ。
「え、なになに?この子のお兄サンなの?」
「…………」
「あーそっかそっか。でもねぇおにーさん、妹ちゃんまだ見学の途中だからさぁ、おにーさんひとりで帰ってよ」
「そうそう、これから俺らが案内するんでぇ」
「…あぁそうだ、夕飯何が良い?駅前に何件かおススメの店あるから母さんと待ち合わせて…」
「っ、テメェ」
「シカトしてんじゃねぇぞ!」
ひょいと潜り抜けるようにして男たちの腕から逃れた男は、何事もなかったかのように少女の手を取って、幼子を誘導するようにゆっくりと導いていく。あくまでも男たちを相手にしない姿勢のそれにカチンと怒りのスイッチを入れた男たちは、背後から男に向かって拳を振りかぶった。
「お兄ちゃん…!」
「…――ぇな、」
ぎゅっと咄嗟に目を閉じた少女は、ダァンと何かが叩きつけられたような大きな音を聞いてびくりと身を震わせた。けれど、直後にしんとその場が静まり返ったことに気付いておそるおそる目を開けると、コンクリートの塀を蹴り上げるように置かれた兄の足が男の胴を掠める位置にあって、青ざめたその男の顔をわざと下から睨み上げるように見た兄が、今まで少女が聞いたこともないような低く唸るような声を発したのだった。
「うるせぇよ。俺の妹に近付くんじゃねぇ」
決して大きな声ではなかったのに、その一言にぞわりと身を震わせた男たちはそそくさとその場を去って行った。直接それを向けられたわけでもない少女ですら怖いと思ってしまったのだから、それも当然のことだろう。いつの間にか集まっていた野次馬も、関わるまいと思ったのかそそくさとその場を去って行く。
やがて、ふぅと静かに息を吐いた兄は近くの駐車場まで妹を連れて行き、黒い軽自動車の助手席に妹を座らせ、自分も運転席に乗り込みバタンとドアを閉めた瞬間、ハンドルに顔を突っ伏して大きなため息を吐いた。
「っはぁ~~!マジでびびったぁぁぁぁぁ……!!」
「…………へ?」
「三対一はヤバかったマジで足ガックガクだったのバレなくて良かった助かったぁ~~!!」
しおしおと空気が抜けたようにハンドルに凭れかかるのは、本当にさっきまで怖い顔をしていた兄と同一人物なのだろうか。そのギャップに驚いてぱちぱちと瞬きしながら兄を見つめるしかできなかった唯は、やがてへにょんと下がった眉の兄と目が合ってぷっと吹き出した。
「お兄ちゃん、さっきまでちょっとカッコよかったのに一瞬で台無しなんだけど、」
「えぇ?俺にしてはカッコよく助けたつもりだったんだけど…?」
「……そうかもね。ありがと」
急にそっけなくもお礼を言われたものだから、悠は思わず妹の顔をぽかんと見つめてしまった。その視線にいたたまれなくなってふいっと視線を逸らしてしまったけれど、これは一応本心なのだから訂正するつもりはない。車内にちょっと気まずい沈黙が落ちたが、ややあって妹の耳が少し赤くなっていることに気付いた悠は、ぽんぽんと妹の頭を撫でてから車のエンジンをかけた。
「で?オープンキャンパスに行ってどうだった?」
「……どうって?」
「学校の雰囲気が自分に合うかとか、先生の印象とか、カリキュラムが充実してるかとか?」
車でゆっくりと帰る道すがら、悠は妹に問いかけた。なぜかそれにむすっとした唯の表情を横目にちらりと見た悠は、信号待ちの間に妹の方へ振り向く。
「…授業は、まぁ、他の学校と似たような感じかな。とれる資格も大体同じみたいだし」
「ふぅん。…じゃあ別にわざわざこっちに進学しなくったって良いんじゃない?」
「……でも、こっちの方が奨学金多く使えるし、寮もタダって言うし、」
「その代わりさっきみたいのがうようよ居るから、俺としては地元で進学してほしいところだけど、」
「…………ほら出た。お兄ちゃんのそうゆうとこ嫌い」
「う、」
久々に正面から妹の"嫌い"を聞いて、悠は多大なダメージを受けた。そのタイミングで青になった信号にゆっくりとアクセルを踏み込んで、頬杖をついて窓の外を眺める妹をまたちらりと見遣る。しばらく無言で車は進んで行ったが、やがて観念したように唯が口を開いた。
「……確かに、一番行きたいところは地元の専門学校だよ。資格も取りやすいし就職のサポートもあるって聞くし、あと、友達も行くって言ってるし、」
「じゃあ、そこに行けば良いんじゃない?」
「…学費、結構かかるよ」
「そんなのどこの大学行ったって似たようなモンだよ」
「そうかもしれない、けど」
「それに、お金のことを考えるのは俺と母さんだけで良い」
「っだから、そうゆうとこが嫌だって言ってるの!!」
「…………」
ばしんとシートにぶつけられた妹の拳をそっと捕まえて、悠は車を静かに路肩へ止めた。ハザードの音が規則正しく鳴る車内で、悠はシートベルトを外して身体ごと妹に向き合う。俯く妹の頭をそっと撫でた悠は、ぎりぎりと力が込められた拳をゆっくりとほどいた。
「…唯は、俺の事きらい?」
「…嫌い」
「う~ん…そっか…。どんなところが?」
「……お兄ちゃんなのに父親みたいな振る舞いをするところ」
「う、うーん…以後気を付けます…」
「私のわがままはホイホイ聞く癖に、私にわがままとかお願い事とか言ってくれないところ」
「そこはまぁ…兄ちゃんのプライドというものが一応ありまして…」
「無駄に家事スキル高いところ。私イマイチできないのに」
「ん!?そこ嫌われると思わなかったな!?」
「……私の失敗したバレンタインチョコ、美味しいって嘘つきながら食べるとこ」
「噓じゃないよ。毎年どんどん美味しくなるから来年も楽しみだなぁ」
「……来年こそ美味しいやつ作るから、覚悟してて」
「ふふ、わかった」
「……あとね、」
「…あれ、思ったよりある…」
「私を、いつまでも子供扱いするところ」
「…子供、っていうか、俺にとって唯は大事な妹だからね。ちょっとくらい甘やかすのは許してほしいなぁ」
「………大学の学費を工面するのは、兄の甘やかしにしてはやりすぎな気がするんだけど、」
「あぁー…そこの話につながるか…」
じっと妹の頭を見ている状態だった悠は、そこで顔を上げてじとりとした目を向けられてついと目を逸らす。今度は唯の視線から兄が逃れる構図になったが、兄はすぐに観念して妹と目を合わせた。
「その…唯はさ、小さい頃から将来なりたいものがあったじゃん?」
「…そんな昔から言ってたっけ」
「『わたし、おおきくなったらワンちゃんのびようしさんになる!』ってこんなちっちゃい時から、」
「ねぇちょっと今の私のマネ!?キモいんだけど!?」
「アッ…キモいは初めて言われたかも…つら……」
「話逸れてる!」
「あっ、ウン、ごめんって、」
べしべしと自分の腕を容赦なく叩く妹をなだめながら、なかなかのダメージを負った胸のあたりに手を添えて咳払いする。これを言うと妹の負担にならないだろうか、と思って今まであまり面と向かって言わなかったことを、悠は口にする決意をした。
「俺はさ、唯と違って将来こうなりたい!とか、この仕事がしたい!って言うのが全然なかったから、正直、明確な目標がある唯のことが羨ましいなって思うこともあったし、ずっと一途に夢に向かって頑張ってる唯を、勝手に自慢の妹だと思ってる」
「…だから?」
「…だから、唯の夢が叶えば良いなっていうか、それが今は俺の夢でもある…って言ったら押しつけがましいけど…。そのために俺ができることって、お金出すことくらいしかないんだよね、情けないことに」
「……それ、情けなくないでしょ」
「そうかな?」
「そうだよ。ムカつくけど」
「ムカつ……そ、そっか…」
再びふいっと顔を逸らした妹に、悠はまた機嫌を損ねたか…と困ったように頬をかく。けれどすぐに
振り向いた妹がじっと悠を見上げてくるから、もしやまだ嫌いな要素があるのか…とどきどきしながら身構えた。
「お兄ちゃんは、ずるい」
「へ?」
「一人だけ先に大人になって、私のことなんか置いていくんだ」
「え、いや、俺の方が年上だしそれは…」
「うるさい」
「ハイ」
「…私がトリマーとしてちゃんと仕事できるようになったら、お兄ちゃんは嬉しい?」
「…唯が、好きなことできて幸せだったら、俺は嬉しいよ」
「…わかった。仕方ないから、お兄ちゃんのために私頑張る」
「俺のため?」
「うん。それで、今は無理だけど…お兄ちゃんにもらったもの、してもらったこと、いつか全部返すから覚悟しといて」
「……さっきから楽しみにしてての言い方が物騒なんだけど、」
「覚 悟 し て て !」
「…わかった、(楽しみに)してる」
「…………今なんか含みなかった?」
「ないない。そろそろ帰るよ」
こっそり笑ってシートベルトを締め直した悠は、ゆっくりと車を発車させた。
――――――――
「ヒーローみたいな登場の仕方だったんだね、"お兄さん"?」
「いや…間一髪でほんと焦ったんすよ…」
夕飯の食卓でのんびりと治お手製カルボナーラを食べながら、悠は思い出したようにほっと息を吐いた。
母と妹は今頃帰りの新幹線の中で、弾丸ツアーすぎて驚いたが明日もそれぞれ仕事と学校があるため致し方ないだろう。ちゃっかり母が交流屋系列の温泉旅館パンフレットを持ち帰ったらしいので、もしかしたらまた近いうちにやって来るかもしれないが。
「でも妹さん、進学先だいたい決まったみたいで良かったね」
「ほんとっすよ。地元なら仲の良い友達も母さんも居るし、俺も一安心です」
「過保護なパパみたいですね。典型的な思春期の娘に嫌われるタイプです」
「ねぇ今日それちょっと克服したところだからさぁ!まだ瘡蓋にもなってない傷口えぐらないでくれる!?」
「私は自分の経験と世間一般の意見を総合して述べたまでです」
「ハカセ、今その意見はしまっておいてあげて」
「はーい」
治が差し出したデザートでさっさと口を閉じた可那子は、悠の傷口をつつくだけつついてするりと自室に引っ込んでしまった。通り魔のごとく鮮やかに急所をえぐって行った可那子にぶつぶつと文句を言いつつ復活した悠は、残り僅かになったカルボナーラをくるくるとフォークに巻き付けながら眩しそうに自分を見ていた治と目が合ってきょとんと首を傾げた。
「…どうかしました?」
「ううん。兄妹仲が良くて素敵だなぁって思っただけだよ」
「そ、うですかね。なんか、親バカならぬ妹バカって言うか、」
「良いじゃない。妹さんのこと、ずっと大事にしてるんでしょ?カッコイイと思うけど」
「…だって俺、子供の頃に誓ったんです。生まれたばっかりの妹のめっっちゃくちゃ小さい手が俺の指をぎゅって掴んだとき、あ、この子は俺が絶対守るんだ。って」
「………そっか」
―――お前のちっこい手がはじめてオレの手を取ったとき、絶対にお前を守るって誓ったんだ
頬杖をついた治がしみじみとこちらを見て小さく呟くものだから、自分の発言にだんだんと恥ずかしくなって俯いた悠は、治が何かを思い出すようにゆらりと瞳を揺らしたことに気付かなかった。
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