奇人変人④
可那子が、母の身体が常人より弱いということを理解したのは、物心ついてすぐの頃だった。
その日、梅雨明け直後の日差しが強く降り注ぎ、可那子の住む地区では湿気も合わさって朝から蒸し暑い一日だった。けれど、休日に一緒に公園へ行こうと約束していた可那子と母は、まだ涼しい午前の内からお弁当を持って出かけ、それを食べ終えた頃に帰りましょうかと提案した母の言葉を、この時の可那子は拒絶したのだった。
「どうして?もう暑くなってきちゃうわよ?」
「平気だもん!それよりもっと遊びたいの!」
公園に遊びに来ている他の子供たちは、いつも日が暮れるまで目一杯遊んで、お腹がぺこぺこになってからやっと家に帰るのだ。いつもそれを羨ましく思っていた可那子は、日傘の下で顔を火照らせる母にも気付かず駄々を捏ね、母の白い手を思い切り引っ張って公園に留めようとする。困ったように眉をよせた母は、ややあって仕方ないわね…と可那子と目を合わせると、公園の片隅にある時計を指さした。
「良い?可那子。あの時計の、今、上を向いている長い針があるでしょう?」
「…?うん!」
「あれが、くるっと回って6のところに行くまで。それまでは遊んでも良いわ」
「ほんと!?」
「ええ。でも、6のところに来たら、一緒におうちに帰りましょうね?」
「うん!わかった!」
遊んでも良いと言われたことが嬉しくて、可那子は深く考えないまま返事をした。そのまま公園に居た子供たちの元へ駆けて行った可那子を見送った母は、近くの木陰のベンチへ腰かけるとほぅ…と息を吐いた。ギラギラと照る太陽は、てっぺんを少し過ぎたところに居た。
「ねぇねぇ、可那子ちゃんのお母さん寝ちゃってるよ?」
「ん?」
言われてふと可那子が振り返ると、日の当たるベンチで母が横になっている姿が見えた。はっとして可那子が時計を見ると、長い針はまだまだ6を指していなくて、だけど、母が眠くなってしまったのなら帰った方が良いかもしれない…。と思った可那子は、わたし帰るね!と宣言してとたとたと母の元へ駆け寄った。
「ママ?眠たかったの?ごめんね、おうち帰ろう?」
そっと母の服の袖を引いてみても、母は目を開けなかった。それからゆさゆさと身体をゆすって、頬に手を伸ばしてはじめて、可那子は母の体温がいつもより異常に高いことを感じ取る。よく見れば眉間にシワを寄せている母は苦しそうに浅い呼吸を繰り返していて、ひゅっと息を飲んだ可那子は大声で泣きながら母を呼んだ。
公園に居た子供たちの保護者は何事かとそちらを振り向いて、やがて泣き叫ぶ可那子の傍でぐったりと横たわる母に気付く。ただ事ではないと駆け付けた彼らが救急車を呼んだことで、可那子の母は一命を取り留めることができた。重度の熱中症だったそうだ。
「ごめん、なさ…!ごめんなさい…!!」
病室の母のそばで泣きじゃくる可那子を、父は責めることもせずに、ただ慰めるように頭を撫でていた。可那子は悪くないよ。遊びたかったんだもんな。いつも我慢させてごめんな。パパがそこに居れば良かったな。父が言葉を重ねる度に涙がどんどん溢れてきて、決して自分を責めることはない父の代わりに、可那子は自身を責めるようにただただ涙を流した。
―――――――
「そのあと…可那子ちゃんが中学生になる前だったかしら?先生の奥様が亡くなったの」
「そうよねぇ?ちょうど先生が今の病院に転院して…」
ちょっぴりお酒が入って、女性陣の口が些か緩くなって来たらしい。悠の仕事やプライベート、好みの女性のタイプなんかを根掘り葉掘り聞いてきた彼女たちは、次いで可那子の話をし始めた。
彼女たちの間では良く知られた話らしいが、生憎悠は可那子と出会ってまだ数日しか経っていない。だというのに、思いがけずそんなデリケートな話を聞かされて、悠はどう反応して良いかわからずただ空笑いをしていた。
これ以上話を聞くのも申し訳ないし、でもここで自分が退散してしまえば他の人が捕まるんだろうか…。いやそもそも俺にここから上手く脱出できる技量ある…?だんだんと遠い目をし始めた悠の視界に、シャンパングラスを片手に持った可那子の父が映って、悠は思わず背筋を伸ばしていた。
「嵜本くん、良ければ一杯付き合ってくれるかな」
「は、はい!もちろんです、」
突然現れた当事者に、好き勝手に開いていた女性陣の口はぴたりと閉じた。少し彼を借りて行くねと言う可那子の父の言葉にこくこくと首を縦に振った女性陣は、ぺこりと頭を下げた悠とともに二人がその場を去って行くのをただただ見送っていた。
「…すまないね。聞いていて、あまり気持ちの良い話ではなかっただろう」
「いえ、その…むしろ、自分なんかが聞いてしまって申し訳ないと言いますか…」
夜風の吹く船のデッキまで出てくると、そこにはほとんど人はいなかった。ふぅと息を吐いた可那子の父は潮風を浴びるように目を細めてからそう言うので、悠はきょろりと目を逸らしながら頬をかいた。…き、気まずい…。
「…妻が早くに亡くなったのは本当だよ。だけどそれは、私も可那子もある程度覚悟はしていたことだから、今さら誰かに哀れまれるのは本意ではないんだ」
ましてや、ああやって広められてしまうのも困ったものだよ…とグラスに口をつけるハカセの父は、悠が直立した姿勢のまま固まっているのに気づいてふふ、と笑みをこぼす。
「いやすまない。君を責めているつもりは全くないんだ。だから楽にしてくれないか」
言われて悠は、息を止める勢いだった姿勢からほんの少しだけ肩の力を抜く。それを見て海の方へ身体を向けた可那子の父は、デッキの柵に寄り掛かって夜空と海を見ながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「妻と過ごした時間は短かったけれど、私はとても幸せだったよ。それに、彼女は私に大切な娘も残してくれた」
――あなたはとても寂しがり屋だから、私が居なくなったらダメな人になりそうね。
悪戯っぽく笑って言った彼女は彼の手を取って、小指同士を絡ませてきゅっと力を込めた。
――大丈夫よ。あなたを一人ぼっちには、絶対しないから。
彼女は約束通り、彼を一人にはしなかった。けれど、彼が一番そばに居て欲しいと願ったのは、他でもない彼女一人だけだった。叶わなかったその願いは、そんなに烏滸がましいものだっただろうか。
「…そういえば君は、可那子と同じ店で働いているんだったね」
「は、はい」
「じゃあ、もしかしたら、私の妻と会ったことはあるのかな?」
「え!?」
「あの店で働いているということは、君もミえる人間なんだろう?」
私はそういうものにはどうも縁がないらしくてね…と苦笑するハカセの父に、悠は必死で今まで会った幽霊たちの事を思い出してみる。でも、可那子と知り合ったのもつい数日前なのに、その母のことなんて記憶に残っているはずもなかった。
「…すみません、俺、まだあの店で働きだして日が浅くて……多分、お会いしたことはないと思います」
「……そうか。いや、良いんだ。ただ妻が元気にしているかどうか、聞いてみたかっただけだから」
死んだ人間が元気かどうか、なんて可笑しな話だけどね…と寂しそうに海を見つめた可那子の父曰く、以前はよく可那子から、死んだはずの母の様子を聞かされていたらしい。今日は学校の宿題を終わらせるまでずっと隣で見張られていただとか、目覚ましをかけ忘れた父を起こそうと寝室をうろうろしていただとか、父の休日に可那子がはじめて作った手料理は、すこし焦げてしまったものの母がつきっきりで手解きしてくれたものであるとか……幽霊なんてとても信じていなかった父は、その料理を一口食べて、あぁ、まだ彼女は自分たちのそばに居てくれるのだと、しっかりとその味を噛み締めた。
「だけどここ数年、可那子から妻の話を聞かなくなってね、ちょっと久しぶりに様子を聞いてみたくなったんだ」
いやいや、すまなかったね。忘れておくれ。悠の背中をぽん、と叩く可那子の父に、悠は店に帰ったら治に相談してみようと心に誓った。
店に来てもらえれば、きっと奥さんと合わせられるはず。たとえ姿が見えなくても、自分たちが仲介に入ることはできるし……あ、そうだハカセが仲介役をすれば、親子三人で久しぶりの団欒も…。
そこまで考えたところで、悠はそのハカセが、父とおしゃべりをしたいからと悠にいろいろと押し付けて行った可那子が、今この場に居ない違和感に気が付いた。
「あの、そういえば、可那子さんは…今どちらに?」
「ん?あぁ、学生時代の友人がこの船に乗っているらしくてね。二人で話がしたいからと、どこかへ行ってしまったんだ」
私はあっさりとフラれてしまったよと可那子の父が笑うのに苦笑を返す悠は、ポケットのスマホが震えるのを感じてそれを取り出す。メッセージの発信者がハカセになっていたのでどこか安心しつつもそれを開くと、本文と添付されていた画像を見た悠の心から、ちっぽけな安堵はどこかへ吹っ飛んで行った。
『コイツは預かった。
無事に返して欲しければこちらの指示に従え。
くれぐれも、警察や第三者に他言はしないように』
添付されていた写真には、手首を縛られ口をガムテープで塞がれた可那子が眠っているらしき姿が写されていて、悠ははっと息を飲む。画面に写る姿を見る限り怪我はしていないようだけれど、それもこちらの動き次第と言うことだろう。スマホを握り締める悠の姿を不審に思った可那子の父がどうかしたかい?と様子を窺って来たけれど、慌ててスマホの画面を隠した悠は、ちょっと上司から連絡が来たので失礼します…!なんて適当なことを言って、急いでその場を後にした。
あぁ、くそ、あの時感じた悪意はこれだったのか…!!
ぞわりと臓器の一部を掴まれたような不快感を思い出して、悠はスーツの上から胸元をぎゅっと掴んだ。…ハカセ、頼む、無事で居て…!
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