自署
「しなかったんだ」
芙蓉が、残念そうに言った。
「もちろん、賛同はしてるわよ。してるけど」
「してるけど」
芙蓉が、鸚鵡返しに言った。
「何となく」
「何となく」
色々と思う所があるのにそれを口に出せない苛立ちを抑え込もうとしているかのように、芙蓉はまたしても鸚鵡返しに言った。
「うん、何となくね」
「私も、思われたのかなぁ……」
芙蓉が、無念そうに囁いた。
「何を?」
「何を?」
芙蓉が、からかうように真似をした。
「さっきから」
「さっきから」
「やめて」
「やめて」
「怒るよ」
と、汐莉は拳を上げた。
「怒るよ」
と、芙蓉は拳を上げた。
瞬間、汐莉と芙蓉は心の迷いが吹っ切れたかのように大口を開けて空に向って高らかに笑った。
夕暮れ時の空は、沈みゆく太陽の日の光で赤く染まっていた。
「夕焼けに、向って歩み、入る如し」
「中村汀女の俳句ね」
「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」
「字余り。ビートたけしの俳句」
「ううん。1980年の流行語」
汐莉に訂正されて、芙蓉はクスッと苦笑いした。
「少人数なら」
「バツ」
「多人数なら」
「マル」
「説得すれば」
「そうすれば」
汐莉と芙蓉は、膝と膝を突き合せて、大きく点頭した。
それから数日の間、梓之と安岐は、汐莉と芙蓉を交えて同僚達の説得に当たった。
壁のペンキが塗り直しもされずに剥がれたままの部屋の中に、折り畳みのテーブルとパイプ椅子がスクール形式に並べられ、十数人の同僚達が着席していた。
その卓上には、『私達全ての者は、与えられた義務を果たしている。なのに、私達全ての者には、権利は与えられていない。だから、私達全ての者は、義務だけでなく権利も同じように与えられることを要求し、ここに主張する』と、書かれた紙が置かれてあった。
同僚達は説得には応じて出席はしたものの、だからといって、プリントに書かれてある成し遂げたいと思っているその志には意志には賛同するまでには至っていなかった。
「君等が躊躇う気持ちはわかる。これが成功しなければ、俺達の運命はどうなるのか明々白々、火をみるよりも明らかだからな」
と言って、梓之は同僚達をじっくりと見廻した。
「わかってながら、どうして、それをやる必要性があるんだ!」
と、出席者の一人が納得がいかないとばかりに叫んだ。
「このままでいいのかッ!」
と、梓之の横の椅子に坐している安岐が怒鳴り返した。
瞬間、まるで箍が緩んだかのように各自が口々に勝手気ままに叫び始めて、収拾がつかなくなった。
「落ち着いて、落ち着いて」
「話し合いましょう、話し合いましょう」
梓之と安岐を挟んで両脇の椅子に座っている汐莉と芙蓉が、立ち上って宥め賺した。しかし、その喧噪さが収まることはなかった。突然、
「静かにしろよ!二人が困ってるじゃねえか!」
大きな声が響き渡り、部屋中に静けさが戻った。
汐莉と芙蓉は声の主の方を見遣って、有り難そうに軽く会釈して腰を落した。
「俺達は義務を押しつけられるだけで、権利を主張する権利もないんだ。それでいいのか?」
梓之は、眉間に皺を寄せて険しい表情で主張した。
「いいとは思ってないわ。思ってはいないけど……」
と、女性が俯き加減に告げた。
「多くの仲間達を犠牲にしてまで」
と、別の女性が付け足すように主張した。
「それでもやるしかないんだッ」
「それでもやらなきゃいけないんだッ」
梓之と安岐は声を揃えて訴えかけた。
「どうしてだ!」
と、一人の男性が納得がいかないのか苛立ったように立ち上った。
「それに甘んじていれば、未来永劫、俺達は何事に対しても主張というものができなくなってしまうからだ」
と、梓之も立ち上った。
「そうは思わないのか?」
と投げ掛けられた男性は、返す言葉もなくすごすごと椅子に座り直した。
「この意志に賛同する者は、これに署名してくれ」
と言って、梓之は署名用紙に自署した。
それから安岐、汐莉、芙蓉、他の同僚達へと署名用紙を順送りにして名前を書き連ねた。
「この誓いが強固なものだとの表れとして署名の下に、指の一部を切って自らの血液で捺印して貰いたい」
と、梓之は一同を見廻した。
梓之の意に従って、一同はカッターナイフで指先を微かにカットした。だが、指先の小さな傷からは赤い血が流れだすことはなかった。何故なら、署名した梓之と安岐と汐莉と芙蓉と同僚達の一同は、赤い血が流れている人間ではなく、AIだったからだ。