パワースポット
壁のペンキは、塗り直しもされずに剥がれたままになっていた。
部屋の中央に置かれた横幅が1800mmで、奥行きが600mmの安価な折り畳みのテーブルも、手入れもされずほったらかしにされ、木目色でメラミン化粧された天板も縁も、所々が欠け剥がれていた。
梓之は、冷ややかに見詰めて指でなぞった。
「遅いな。言伝、頼んだのによ」
と、同僚の安岐が小憎らしそうに言った。
「昼休みなんて、あるようでないようなもんだからな。俺達には」
と、梓之が苛立ったように憎々しげにほざいた。
作業着のポケットから四つ折りにした紙を取り出して広げ、梓之は皺を伸ばした。
「賛同してくれるかな?汐莉」
と、安岐が紙を手に取って不安そうに言った。
「説得するだけさ」
梓之が、その不安を掻き消すように言った。
「うん、そうだよな」
と、安岐は不安を掻き消したかのような笑みを、一瞬口元に浮かべた。
梓之と安岐の二人は、折り畳み式のパイプ椅子に横並びに並んで座り、落ち着かない様子で卓上を指で叩いたり、小刻みに足を揺らしたりしながら今や遅しと待っていた。
安岐が、ハッとして言った。
「汐莉」
「ごめん、遅くなって」
同僚の汐莉が、済まなそうに入室してきた。
「悪かったな、急に呼び付けたりして」
梓之が、謝罪した。
「ううん」
とパイプ椅子を引いて座ったが、汐莉はどこか落ち着かない様子だった。
「昼休み時間、平気なのか?」
安岐が気遣ったが、汐莉はその気遣いをスルーして
「用って?」
と聞いてみた。がしかし、梓之と安岐は言い難そうに黙りこくっていた。汐莉は訝しそうに、テーブルを挟んでその前に坐している二人を交互に見た。
「どうしたの?」
と、汐莉は再度聞いていた。
梓之と安岐は目と目を見交わして、互いを促すように肘で突き合った。
「口に出すのも憚られるような事?」
と汐莉に言われて、梓之は重い腰を上げるように卓上の紙を、そろりそろそろと押し出した。
汐莉はその紙を手にして目を通し
「噂は本当だったのね」
と、乗り気の無さそうに押し戻した。
「俺達と同じ気持ちなら」
と、梓之は促した。
「…そうじゃない、…とは言わないけど」
梓之と安岐が何故にそういう行動を起こそうとしたのか思ったのか、その心情が理解できないわけではなかった。だが、その提案に同調するするにはまだ曖昧模糊としていて、汐莉は不明瞭に返答した。
「私以外の他の人には?」
汐莉が尋ねると、梓之と安岐は口を閉ざしたまま首だけを横に振った。
「それ、貰っとく」
汐莉は、若干残念そうな面持ちで四つ折りにした紙をポケットに納めようとした梓之に言った。
「その気になったら」
梓之は、汐莉の手の平に四つ折りの紙を載せて見据えるように言った。
「うん、そうする」
と首を縦に振って、汐莉は二人を残して部屋から廊下に出て、後ろ手にドアを閉めた。
汐莉は、仕事の帰り道にある井之頭恩賜公園に立ち寄ってベンチに座り、井の頭池を物憂げに眺めていた。
日光に照らされた掻い掘りされた井の頭池は、水中一面に生い茂った絶滅危惧種の水草イノカシラフラスコモが揺らめき、水面には空や木々の彩りが反射して、モネの描いた池のような透明感の溢れる美しい光景が広がっていた。
1590年(天正18年)
湧水池として知られる井の頭池は、德川家康の命によって江戸の飲料水確保のために作られた日本初の水道・神田上水の水源となった。
【江戸名所図会】
相伝ふ、慶長11年大神君(徳川家康)たまたまここに至らせ給ひ、池水清冷にして味ひの甘美なるを賞揚し給ひ、御茶の水に汲せらる。
【神田御上水源井之頭弁財天略縁起】
家康が自らの手で水を汲み、関東随一の名水だと誉めて、お茶を入れるのに使った。
と、どちらにも書き記されて残されている。
1917年(大正6年)
井之頭恩賜公園は、日本で最初の郊外公園として開園された。
井の頭公園の湧水は、縄文時代から湧いている歴史ある湧き水で、古くから湧水は湧き出るものとされて、才能やアイディア、言葉や、音楽や芸術に良い影響を与えるパワースポットであると言われている。
汐莉はベンチに座ったまま、まるで湧水から湧き出ているパワーを引き寄せるかのように、天空に向って伸ばして両手を大きく広げた。
「汐莉!」
同僚の芙蓉が駆け寄って来て、
「何かあった?」
と、汐莉の横に座った。
「ううん、何もないよ」
と返して、汐莉は両手を下ろした。
「そう」
「うん」
二人の会話はここで途切れた。
暫くして、突然に
「私にも、パワーを」
と言いながら、芙蓉が天空に向って両手を伸ばして大きく広げた。
「汐莉も」
「ええ?」
「パワーを貰って」
「貰って?」
「そうすれば」
「そうすれば?」
と、同じ様に天空に向って両手を大きく広げた。
「ウフフフ」
二人は、気恥ずかしそうに笑った。
「話す気になった?」
「うん」
汐莉はバッグから四つ折りの紙を取り出して、芙蓉に手渡した。
「噂は本当だったんだ」
と、芙蓉が四つ折りの紙を広げて言った。