第八話 黒き猟犬
それから数日後、いつものように騎士団の詰め所で正午近くになってからドミニクが目覚めると、スタンとジャニスがやって来た。
「とんでもないことをしてくれたな、ドミニク。オーマには近づくなよ。貴様のツラを見た瞬間、成敗しようとして樹になりかねんからなぁ」
身に覚えがないので、ドミニクが説明を求めると、二人は無言で彼を下層階へといざなった。
昇降機を降りて、普段来ることのない港の積み下ろし場にやって来ると、まずドミニクはその風景に目を奪われた。ヘイゼルウィックは入り江に沿って建っている建物群である。その最下部に位置するそこは広大な洞窟で、魔道具の明かりがぼんやりと照らす先では貨物船が停泊し、あちこちで積み下ろしが行われている最中だった。
しかしスタンが見せたいのはその光景ではなく、奥の埠頭だった。そこには数人の若者たちがいて、ぼうっと座り込んでいる。鍋や器が置かれていて、「仕事に疲れ、自由を選択した我らに施しを」を書かれた札があった、港の労働者相手に物乞いをしているらしい。彼らはときどき酒を少しずつ飲んだり、歌を歌ったり、浅瀬に足を浸したりはするが、別段目的があって集まった感じではないようだった。
これを見せられても思うところがなかったので、ドミニクが黙っていると、
「分からないか? 貴様、先日ブラッドを物乞いに引きずり込んだろう」
「ああ、彼はそんな名だったのですか。それが?」
「あいつが他の冒険者たちに何を言ったか知らんが、あそこにいる奴らも貴様らと同じく悪性の、怠惰という病に感染してしまったのだ。ああして金を乞い、時には魔物を狩ってその肉を食らう、しかもだ、あの中には騎士も一人含まれているのだぞ。よりによってそいつはオーマの部下だった。あいつがそれを知ったとき発した金切り声が聞こえなかったか? 貴様は熟睡中だったから無理もないが」
「何が問題なのか、話が見えてこないのですが」
スタンは呆れたように首を振って、
「現在、騎士は極めて貴重な戦力だ。太平の世が続き、穢れ石の発生も滞っていた頃ならまだ良かった、だが昨今は各地で瘴気と魔物が溢れ、騎士はいくらいても足りないような状態なのだぞ。そこでああして職務放棄をされてはどうだ?」
「彼らは真の自由に目覚めた者たちなので僕としては賛美したいところですが、そういう事情なら、騎士を急募すればよいではありませんか」
「いいか、騎士の数は無制限に増やせるわけではないのだ。聖棘への適合のみならず品格、誇り、そういった精神性と不屈の闘志が求められるのだ。だのに貴様が誘惑したせいで……ああ、貴様に言っても無駄だな、もうおれは分かっているんだ、どうせ貴様は、他者がどうなっても一切心動かされまい」
諦めたようにスタンが息を吐くと、これにジャニスも深く頷き、
「我々は、あなたに不用意な発言を控えるように要請するわ」
「僕は言いたいときに言いたいことを言いますよ。ブラッドさんに対しての助言も、誤りだったなどとは思っていません。彼は労働という毒に冒され、中毒に陥っていました。ハイドラの毒を受けた冒険者には直ちに治癒を施すのに、労働の毒には手を出すなとおっしゃるのですか」
「貴様の言葉が一番の毒物なのだ。まあ、言っても貴様が聞く耳を持たぬのは百も承知だが、こちらとしてはその口を噤めとだけ諌めておこうか。まったく、お館様もとっととこのような小僧を追い出してしまえばいいものを」
「領主様は僕を滞在させておくことに賛成なのですね」
「いいや、賛成も反対もしない。あのお方は……そう、優柔不断だからな、ここだけの話だ。お頭――ダルトン団長は未だに貴様を利用したがっているが、おれやジャニス、そしてオーマ、他のたくさんの騎士と冒険者は、反対だ――その動機はさまざまだがな。だが、最終的に判断を下すのはお館様だ。
あの方が通常の優柔不断と違うのは、決められないということを決めたら、強い意志でそれを貫き通す点だ。どっちつかずのまま、貴様は我が騎士団に居座り続け、ただ飯を喰らい、悪しき言葉で労働者を堕落させるというわけだ。おれとしては、騎士たちが強き心でそれを跳ね除けることを期待するものであるが――」
そう言ってスタンは苦々しく、たむろする若者たちを見やった。オーマの部下だったというくだんの元騎士がどの人物か、ドミニクには見分けは付かなかった。
■
その後ドミニクが冒険者ギルドに顔を出すと、フィリップがいて、やや愉快そうに話しかけてきた。
「聞いたぜ、お前さんちょいとした革命を起こしたようだな」
「僕はただ二、三、聞かれたことに答えたまでです。こちらのギルド内では動揺が広がってはいないようですね」
「まあ元より冒険者なんてのは根無し草だからな、オレだって物乞い、流れ者みてえなもんさ。で、これからどうするんだい? また扇動を続けるってか?」
「スタンに釘を刺されました、だからというわけでもないですが、僕は別に扇動者ではありません。ただ、僕の言動を見て影響を受けるのも、嫌悪感から排除を試みるのも自由というだけです」
「革命もか?」
「そのつもりはないのですが、それすら自由とお答えしましょう」
ドミニクがそう言ったとき、背後から愉悦を含んだ声がした。「いいや、そのような自由はありはしないね……」
振り返ると、いつやって来たのか、一人のエルフが立っていた。
ヘイゼルウィックの騎士たちとは異なる黒い鎧を纏っていて、臙脂色のマントの裾には獣の牙のような、ギザギザの白い模様が付けられている。
いつしかギルド内の喧騒は止んでいた。フィリップも息を飲んで絶句している。
「上様と将軍府へ二心を抱く自由など、ありはしないんだ。そのあり得べからざる野望を抱けば、例外なく狩られる……それがミラベリア全土における、絶対の法だよ、少年」
うっすらと笑みを浮かべながら囁くエルフの女騎士は、オーマや他の騎士たちとは違い、髪と双眸すべてが灰白に染まっている。
「帝都の〈黒犬組〉……なんでこんな所に……」
誰かがそんな風につぶやくのが聞こえた。
「いかにもわたしは反将軍府勢力調査部隊〈黒犬組〉のオルテンシア、我らの本拠地は確かに帝都に置かれてはいるが、各地に我々のような遠征隊が散らばっているのさ。で、こちらに何やら怪しからぬ集団が発生しているということで赴いたのだけれど、少年、少しばかり話を聞かせてもらってもいいだろうか?」
問いかけに対しドミニクの返答はなく、オルテンシアと名乗った騎士は微笑みながら彼の隣に腰掛け、コーヒーを注文した。
「まあ、君に反逆しようという野心があるとは、わたしも思ってはいないが、なにしろ特殊な存在だからね、〈勇者〉殿」
「どこでそれを知ったのですか?」ドミニクが相手の顔を見ずに聞いた。
「どこの領邦にも、表で活動する騎士団の他に、影で動く隠密が存在する。金ずくで動く〈隠密組合〉もね。あるいは盗賊のギルドだ、彼らが市井の情報を絶え間なく集めている。もちろんキャスリングにもそういう集団がいるし、他の隠密とのネットワークもある、協力者、内通者、そういうのがね。
で、キャスリングとしては勇者の存在を放っておくわけにはいかない、聖女と結びつきの強い力だ。とはいえ、君の力はまだ発展途上だし、人格的にも何か悪さをするって感じでもないと見ている。今重要視すべきなのは聖女のほうさ。君を連れて帰りたい気持ちはあるけど、無理強いはできないのだろう? わたしも樹にはなりたくないものでね」
「二つ質問があります」唐突にドミニクが言う。「まず、あなたは将軍府側の手勢なのですか? 次に、聖女についてどれくらいご存知ですか? つまり現在の居場所とか」
ゆっくりとコーヒーを飲んでから、オルテンシアは答える。
「一つ目の質問については、そうだ。〈黒犬組〉はキャスリング守護官の下、逆徒より尊主様の御身と帝都の民を守るための特務騎士団として設立された。そもそも総将軍とは尊主様より、騎士の総指揮官として賜りし天命。よって上様が――将軍府が尊主様をお守りするのは当然のこと、一騎士に過ぎないわたしとてそうだ、この身に余る名誉だよ」
「そういった大義名分の下、帝都を監視し、統制していらっしゃるわけですね」
これにもオルテンシアは笑みを崩すことなく、しかし何も答えなかった。
「二つ目の質問については、あくまで公に出回っている噂でよければお教えしようか。聖女はブランガルドの北東部にいるらしい、目撃情報がいくつかあったそうだ」
ブランガルド――北に広がる巨大な樹海。戦乱の世の生き残りである、隻眼の老エルフが納める地だ。
「それで彼女は何を? 僕と同じく自由を享受しているのでしょうか」
「聖女だからね、救済を齎しているんだよ。向こうはこちらに比べれば穢れは少ないけど、もともと強力な獣が生息しているぶん、そいつらが変異して、危険な魔物が大量に発生している。聖女はどうやらそれらを浄化し、西を目指しているようだ。穢れの発生源、禁断の地をね。未確認の情報ではあるけど、いかにもな話じゃあないか」