第五十六話 地下室の勇者
「おい、勇者様、着いたぜ。ナローレーンだ」
ドミニクは商人の声で目覚めた。そこは薄暗い通路だ、どこぞの屋敷に入り込んだのだろうか――馬車ごと? なるほど、この領邦は、それ自体が一つの巨大な建物らしい。商人たちは、市場になっている一室へ移動するとのことで、廊下をごとごとと進んでいった。
一人残されたドミニクはまず辺りを見回す。道幅も天井の高さもそれなりにあり、少し先で道は分かたれている。燭台がところどころにあり、辺りは薄暗く照らされている。誰かが作ったのではない――例えば大工が設計図通りに――ここは自然に発生した、一種の迷宮なのだ。
通路を気の向くままに進み、突き当りにあった扉を開ける。まさに誰かの住まう、一室のような場所だった。フェイチェスターで住み着いていたヨナタンの部屋に雰囲気は似ている。床にはいくつもの書物が積み重なっているが、それらは何か赤茶けた液体が付着し、読めそうにはなかった。液体がまだ乾いていないので、犯人はそこらにいるかも知れない。
部屋の中には、ドミニクが入ってきたのとは異なる扉が二つあった。別に何かを目指して進んでいるわけではないので、迷うということはない――目的があり、それとはそぐわない方向へ行きついて初めて「迷う」ことができるから。ここにいるという勇者にも、出会えないなら出会えないで別に構わない。あるいは、僭称者かも知れないし。
そう、何も目指さなければ、迷うことはない。未達という結末も、失敗も、挫折もない。だのになぜ、誰もが何かに執着し、それを目指そうとするのか? 思うにそれは、邪神の仕掛けた狡猾な罠だ。人心を荒廃させるための。
建物の繋がりはフェイチェスターと似ていた――どこに何があるか、位置関係がめちゃくちゃなのだ。向こうもここも、誰かが精緻にデザインしたわけではないから当然だ。もうもうと蒸気が舞う調理場を抜けると、今まさに葬儀が行われている厳粛な一室だったり、その向こうでは大勢が酔いしれる饗宴が開かれていたりする。この人々は――ドミニクは思った――現実に存在する、ここの住民なのか? あるいはこの迷宮の一部なのか。ときおり、そういうことがあると冒険者から聞いたことがある。迷宮の魔物は外部から住み着くものの他に、その場所で生まれた、迷宮主の被造物も混じっているという。時には人族に見える存在が生み出されることさえある。とはいえ彼らが、迷宮の魔物と同じく有害な存在とは限らない。その場所について案内やアドバイスをもたらしてくれることもしばしばだし、どこから出したのか怪しげな品を売る、商人だったりもする。ともすれば、ここにドミニクを連れてきたキャラバンが、このナローレーンが生み出した被造物かも知れなかった。
本人に聞くのが一番早い。ドミニクは次なる一室、煙たい賭場でサイコロ賭博に加わらず、酒を静かに飲んでいる剣客に話しかけた。
「なんだぁ小僧、ここはおめえのようなもんが来る場所じゃあねえぞ、とっとと帰りな、しみったれたガキんちょめぇ」
「あなたはこの迷宮が生み出した存在なのですか? それともそうではなくて、よそで生まれてここにたどり着いた存在ですか?」
「どちらであろうと違いはない。確かめるすべは、ないのだ」いきなり剣客の口調が神妙なものに変わった。「わたしが自らの母親から生まれた存在だろうが、この迷宮の壁からぬるりと吐き出された存在だろうと、今やわたしは独立した一個の人間だ。どちらなのかは、自分で決めることができる。君だってそうだろう?」
「僕はイエスかノーかで答えられる質問をしたはずですが」ドミニクは冷淡に言った。
「ここで生まれた存在だ」剣客は答えた。「ただ博徒としてくだらぬ生を生きるのみ。君は先ほどわたしが言ったように、疾く帰りたまえ」
「ここに勇者がいるというのは本当ですか?」
「本当だ。しかし、勇者としての活動はしないということだった。世を乱したくはないと彼女は言った」
怠惰な無能者か。ドミニクは失望した。その人物と会話すれば、自らの優越がさらにはっきりするだろう。説教しなくては。
「その人物はどこに?」
「最下部の霊安室だ。さあ、この場をこれ以上乱さずに、疾く立ち去り給え」
ドミニクは部屋を出て、できるだけ下へ向かって進むことにした。坂道や階段、はしごをただひたすら降り続ける。それだけでいい。
■
謎の等身大の人形が漬かっている汚い浴室や、無言で山と積まれた乾パンを紳士淑女が貪っている食堂、大ネズミが走り回る廊下などを越えてドミニクは地下へ向かい、それらしい場所にやって来た。
最後にとてつもなく長い梯子を下り、広大な空間の天井からその場所へ到着した。緑色の灯りを照らす不穏な燭台に囲まれ、いくつもの棺桶が並んでいる。それらの中央に、勇者はいた。椅子に腰かけ、その少女は一切の瞬きをせずに佇んでいる。
「初めまして」ドミニクが近づいて話しかけても、彼女は目を見開いて眼前の虚空を睨んでいるのみだ。
「あなたは死んでいるのですか?」
「いや、生きている」地下の勇者は答えた。「便宜上生きていると言ったけど、実際は死んでいるようなものだから。わたしはここから出ないで、誰とも話さない。ここに来る人はほぼいないけれど、来てもすぐに帰る。わたしはここから出るつもりがないから」
「あなたはどのような勇者なのですか」
「その詳細は説明しないけど、君がフェイチェスターで出会ったあの男と同じく、死者を裁くための力だ。ドミニク・フリードマン」
ダミアーノのことらしい。彼女はここにいながら、他の勇者のことをある程度把握しているようだ。それよりも、死者を裁くための力と言うのが気になった。
「ダミアーノの〈矮小なる太陽〉はそのための力なのですか? 彼は、どこにでも忍び込むための力だと言っていましたが」
「あの光の力をもってすればそうすることもできるが、ダグローラは邪神が蘇らせた死者に抗するためにあれを与えた。例えば君の力も、本来は邪神との戦いで穢された大地を浄化するためのもの。前任のアウルスもそのために用いた。とはいえ神のねらいは、大抵人族にとってはそぐわないもの。恐らくわたしも、自らの力を正しく使うことはできない。だから、ここから動かないことを決めた」
「屍を蘇らせるという勇者が野放しになっています。ダミアーノはそれをどうにかするつもりはないでしょうし、あなたがその堕落した勇者を裁くべきではないのですか」
「わたしはそうしない。道を踏み外した勇者を裁くのは〈審判者〉の役目だ」
この少女は頑ななようだ。強大な力を持つ者こそ、柔軟性が必要ではないのだろうか。




