第四十話 どん底
また会おう、と言って次の瞬間にはダミアーノは、最初からいなかったかのように消えていた。ドミニクとしてはもう会いたくはなかった。勇者が世界の敵となるまだ見ぬ未来を示唆され、気分が悪い。しかしいつものように、数分後には頭の中から、都合の悪い想像は姿を消していた。
いかに他の勇者が下衆ぞろいだろうと、いや、むしろ彼らが下衆であればあるほど、人々は自分のみを崇拝し、真の勇者と理解してくれるはずだ。何も問題はないではないか。
それにしても、ドミニクは列車内で一人思う、勇者と聖女の違いというのは、何だろうか。男なら勇者、女なら聖女と呼ぶだけで、どちらも同じなのだろか。次にナナに夢で会ったら聞いてみよう。
恐らく確かなのは、ふさわしい勇者と聖女が出会うことで、最大の力を発揮できるという点だ。ナナと話したわずかな時間で、それを確信した。ダミアーノも、北の聖女も、ふさわしい相手をまだ確保できていないし、自分のように会話したこともないはずだ。ならばやはり、自分は彼らの先を言っている。真にダグローラと那由他の神々が祝福しているのは自分のみで、他の勇者と聖女はきっと、自分を支援するため、あるいは邪神の目を逸らすための囮に過ぎないのだろう。
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しばらく先の、〈造船所跡〉という駅で降りた――こんな内陸の都市のただ中で、どんな船を造るというのだろうか?
列車を下りると、その時点でもう悪臭が漂う。騎士クロフォードの腕に咲かせた花にも劣らぬ、甘ったるい腐臭。どうやら何か生き物の死体が放置されているらしい。血と吐しゃ物と、アルコールの臭いも濃厚だ。
改札を出ても、地上への出口は見当たらない。続く地下道の各所では、あからさまに人相の悪い人々が、何やらこそこそと話している。むしろを敷いてそこで寝ている者も大勢いる。清潔な衣服の人物は誰もいやしない。ハーフムーンでさえ裸足で逃げ出しそうな、どん底の、何者でもない奴らの巣窟。ゴキブリや蜘蛛が当たり前のように這いずり回り、誰かの顔なんかに乗っかってもそれを払いのける気力すらなさそうだった。
「兄ちゃん、こんなところに何の用だい、降りる駅を間違えたか?」
話しかけてくる男がいた。薄汚れた髭のドヴェルだ。点滅を繰り返す灯りの下、新聞紙の上に座り、瞬きしない目でドミニクを見つめている。
「間違いではありません。面白そうだったので降りました」
「よしたほうがいいぞ、ここはあんたみてえなお坊ちゃんが来るところじゃあない。いわゆるスラム街さ。脛に傷だらけの悪党の巣、暴力も殺しもありの暗黒街。おまけに最近は辻斬りが出る、その被害者だって誰も悲しんじゃくれねえ、全部はぎ取られて、素っ裸で転がされ、目玉や臓物、骨さえも下手すりゃ奪われちまう。そういう場所だよ。しかも間隙に近いから、たまに魔物さえ迷い込んでくるのさ」
「衛兵はいないのですか?」
「ああ、こんな薄汚ねえとこにいる貧乏人が死のうと、守ってくれるような騎士様なんてなあ。自警団という名のならず者どもが、ゆすりたかりのやりたい放題さ……」
「ここは造船所の跡だそうですね。いったいなぜ、そんな名前なんですか?」
忠告を無視しての質問だったが、ドヴェルの男は親切に答えてくれる。
「ここいらはな、ずっと昔は馬鹿でかい運河だったのさ。いまじゃ涸れ、そのからっぽの川底にこの汚ねえ場所ができたってわけだ。それでも当面はまだまともな街があったが、反逆者を出したかどで黒犬組に焼き討ちに合ってな、今じゃこの有様さ」
「なら焼かれてもしかたないですね。それから、ここのボスというか、有力者は誰ですか? 挨拶しに行きたいのですが」
「おいおい、馬鹿を言うんじゃあない、親分さんがあんたと会うなど……」
「なるほど、渡世人の元締めがいるのですね。それさえ聞ければ大丈夫です、では」
もはやこの少年には何を言っても無駄と判断し、相手は立ち去るドミニクを黙って見送った。
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そうして地下道を進んでいくが、なかなかどうして、悲惨な光景が続いている。死体丸ごと、もしくは肉体の一部が無造作に転がっていて蠅が集っており、今まさに脇道の奥で切った張った、剣がぶつかり合っているであろう金属音、悲鳴、怒号。死体から身ぐるみを剥いでいる人々もいる。ドミニクが彼らに、良いものはありましたかと尋ねると、いんやシケてやがんぜ! と笑顔で返答する死体漁りたち。
十分も歩かないうちに強盗がドミニクを取り囲んで金を出せと言ってきた。即座に全員が樹にされる。周囲では、それをまったく気にせず、何か危ないブツを取引するギャングたち。銃声。恫喝の声。まるでお祭り騒ぎだ、しかしこの場所では日常らしい。
再び悪漢が、身ぐるみ剥いでやるとばかりに短刀を向けてきたので、体を半分だけ樹に変え、元締めのいる場所を聞き出した。彼が仕切っている賭場があり、そこにだいたいはいるということだった。
遠巻きに物陰から、汚らしい格好の住民がこちらを見ているのを感じた。なにやら囁き合っている、大方、勇者としての力を目の当たりにし、畏敬の念を覚えているのだろう。今すぐに食料を提供し、永遠の忠誠を誓うくらいはしてもいいはずだが、恐れ多く、遠慮しているのだろうか。
地下街の出口の一つがあったのでドミニクは外へ出る。地下道と大して変わらない、薄暗く狭い路地だ。巨大な建物の数々が、陽の光を遮っている。それらは古い工場の一部らしかった。傾き、いくつかは倒壊している塔の上に、違法に掘っ立て小屋が増築されている。
いつの間にか、ドミニクの周囲をいかにもならず者といった風情の、ボロ布の覆面をした人々が取り囲んでいた。ドミニクは、元締めに会いたいので賭場まで連れて行くように要請した。
ならず者たちは物言わず、ナイフを向けてくる。ここにも新たな街路樹を植えることになったか、と思っていると、悪漢どもを誰かが制した。
それは、角までもが生えた恐ろし気な、悪魔の仮面を付けた人物だった。声からすると若い女らしい。
「あんたら、この少年を誰だと思ってんだい? 勇者様だぜ、相手を樹にしちまう、アウルス・アンバーメインの後裔。大人しく元締めんとこに連れて行きな」
話の分かる人が現れて良かった。こうでなくては。日の当たらぬ地の底、薄汚い場所で悪党どもに囲まれながら、ドミニクは深く頷いた。




