第三十話 聖女との邂逅
「馬鹿なのかお前は、穢れは邪神がこの世界を侵略するための手段、理不尽な災厄だ。一方、労働は世界を維持していくために必要不可欠な、生産的行為。その二つを並べて語る不明、それはお前がまともな人生から逃避するために、現実を捻じ曲げているからだ」
周囲の冒険者たちの中にも、ドミニクの素性を既に把握している者がいる。彼らはストレイと同じくこの少年の怠惰を快く思っていなかったために、痛快そうにこちらを眺めている。しかし、無論ドミニクはこの程度で揺らがない。ストレイの言う通り、現実を捻じ曲げてしまっているのだが、他者に面と向かって指摘されようが、その強固な歪曲はびくともしない。
「現実を捻じ曲げているのはあなたの方ではありませんか。この都市、いえ、ここ以外でも労働によって心身共に蝕まれ、健全な人生を踏み外した哀れな被害者が無数に存在しています。下級騎士たちや、危険な汚れ仕事に苦しむ冒険者たち。その労苦に対してあなた方は、何の疑問も抱かないというわけですか」
ストレイはこれを一笑に付すことはしなかった。彼女がひとかどの冒険者にまでのし上がる間に、そういった人々はいくらも見てきたからだ。物乞いに身を落としたり、体を売ったり、怪しげな薬物実験の被験者になったり、あるいは、狭苦しい集合住宅の一室で死体となって発見される。自ら命を絶った者もいる。
「ああ、だが、それは彼らが選んだ道だろう。そうしなければならなかった――」
これを聞きドミニクはいよいよもって、あからさまに軽蔑と嘲笑の表情を浮かべた。
「まさに思考停止と言う他ありませんね。しかしそれも自由だ。あなたのように悪夢的な現実から目を逸らすのも、自ら苦役を選び、悲痛のうちに生涯を全うするのも。しかし僕はそれほど愚かではないし、力もある。お互い好きにするといたしましょう」
そうして彼はギルドを退出する。ストレイも他の冒険者たちも苦々しい表情を浮かべていたが、ある人物だけは興味深そうに、ドミニクの背中を見ていた。その両目は赤く輝き、口元からは牙が覗いている。巨躯を折りたたむようにして階段を下りてきたその人物を見て、冒険者たちはたじろいだ。
「あの少年か……〈勇者〉を名乗るドミニク・フリードマン。彼の力が必要かも知れぬな」
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それからドミニクはまた周辺をうろうろしていた。早くもギルドの近くの道は概ね把握したつもりでいたが、街路樹の葉陰に新しい道を発見し、迷うことなくそちらへ進む。グネグネと曲がる急な登りの石段だ。やたらと長く、建物の合間で薄暗い。いつしか、都市の喧騒は消えていた。
やがて到達したそこは、どこかの屋上らしい庭園だった。こじんまりとしていたが、草木は手入れが行き届いているように見える。小さな噴水と、太陽神ダグローラの石像がある。
その前で祈りを捧げている人物がいた。ドミニクが近づくとこちらを振り返る。彼よりも多少年長の、陽光のように鮮やかな橙色の髪をした少女だ。
ドミニクはその、晴れ渡った空のような青い両目を見た瞬間、これまで感じたことのない安らぎを覚えた――まるで暖かな日差しを浴びているかのような。そして自然と確信する。この少女こそが――
「あなたが聖女なのですか」
少女は無言で、ゆっくりと頷いた。
常に落ち着き払っているドミニクであったが、さすがにこの邂逅には動揺した。まずは状況を正確に理解しなければならない。聖女はブランガルドにいたはずだ。偽情報だったのか? それともここまで移動したのか。自分がここに来るということが分かっていたのだろうか。
いや、そんなことより、重要な狙いが自分にはあったはずだ。この旅の目的。ドミニクは恭しく跪き、蒼天のような聖女の双眸をまっすぐに見て言う。
「聖女様。僕は宿り木の勇者、ドミニク・フリードマン。お会いできて光栄です。さっそくですが、僕を一生涯に渡り、恒久的に養ってください。無茶なお願いはいたしません。ただ、寝床と食料と、書物を購入したり演劇を見たり、粗末なもので構わないので釣竿を買ったり、時折多少豪勢な食事をしたり、その程度の資金を提供していただけば、僕は他に何も望みません。頼れるのは貴女だけなのです。何卒、太陽神ダグローラに代わり、僕に庇護を与えてください、聖女様」
この、彼の魂よりの願望を聞き、聖女は開口一番、
「いいよ」
二つ返事で承諾したのだった。
ドミニクは、世界とはこの瞬間のために存在していたのだろうと確信するほどの喜びを覚えた。深々と頭を下げ、「ありがたき幸せ。感謝いたします、聖女様」と述べた。だが、世界と神々はそれほど甘くはないのだということを、ドミニクは思い知ることになる。
「だけどドミニク君、今すぐには無理」ずっと昔から知っている仲のように、親しげに聖女は言った。「私のこの体は、一時的に顕現しているだけの仮のものだから。力がまだ足りない」
奈落に叩き落されたようにショックを受けるドミニク。いや、絶望には早い。「まだ」と言うからには――
「何かあるのですね。貴女が完全になるための手段が」
「そう。私の力は君と連動している。君がもっと、勇者として強力な力を得たなら、私はもっと確かな、奇跡の力を獲得できる。そうすれば君が遊ぶためのお金くらい、いくらでも供給できる」
「聖女様。誤解していただいては困るのですが、僕は無尽蔵に資金を手にしたいわけではありません。恐らく僕を安心させるためにそうおっしゃったのでしょうが、僕は先ほど申し上げたように、ごくわずかな費用さえあればそれでいいのです」
「そう、慎み深い、さすが勇者。じゃあ本題に入る、君が力を手にする方法について。もうすぐ邪神は本格的に勇者と聖女を抹消しようとする。各地に自分の肉体の断片から作った魔物をばら撒くはず。それはこの世界を蝕む災厄。あなたはそれを滅ぼさなければならない」
ドミニクは、通常ならば真っ向からそれを拒否したことだろう。しかし、相手は聖女であり、自分の庇護者。継続的な労働は無理だが、二、三体くらいどうにかするなら……いや、しかしやはり……と彼が葛藤しているところに、聖女はさらに付け加える。
「他の勇者と聖女に先を越されないように頑張って。ダグローラより遣わされし〈陽光の聖女〉ナナの名において、君に勇者としての活動を命じる」
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ナナがその場から陽炎のように消え去った後も、ドミニクは呆然とたたずんでいた。日が暮れ、辺りに暗闇が訪れてしばらくして、彼はやっとその場を後にすることができた。
勇者は自分のみではなかった。他にも勇者がいて、神々と聖女の加護を受け、日々安寧を手にするために戦っているのだ。
恐らくブランガルドにて目撃された聖女は、ナナとは異なる人物だ。北の樹海だけではなく、各地に同時多発的に、勇者と聖女が目覚めているのだろう。邪神の攻撃に抗うために。
許すまじ、邪神。この世界を破滅させようという汚れた野望。それを食い止められるのは、勇者と聖女のみなのだ。その二人が完全に力を合わせなければ、この危機は乗り越えられまい。
だが、今日分かった、陽光の聖女ナナは自分を賛美し、肯定している。それはすべての勇者の中で、自分が最も力を持つものだからだろう。清廉なる魂の持ち主たる自分が――ドミニクの自賛は留まることを知らず、いつしか声に出ていた。
「僕こそが勇者、陽光の聖女が加護を受けし――〈宿り木の勇者〉。太陽神ダグローラ、そして那由他の神々よ、感謝いたします。僕を選んだその慧眼。そしてご照覧あれ。僕の偉大なる軌跡を。それは気高く、光り輝いている。ここまで我ながら偉大な人生だった。そしてこれからも。素晴らしい、なんて素晴らしいんだ」
夜の街で少年は一人、高らかに笑うのだった。




