第二十三話 間隙監視者
どこかの部屋からピアノの演奏が聞こえる。ラジオかレコードか、生演奏か判然とはしない。くぐもったその音を聞きながら、ゆっくりとヨナタンは少年に続いて自室に入った。
黒ずんだ石の壁と床。部屋の隅には流しがあり、その辺りが曖昧にキッチンということになっている。汚れた皿やコップが積み重なったままだ。少なくともこの区画は、これほどのボロ家でもきちんと水道が整備されているようだ。
ヨナタンは武器である魔法銃をホルスターから外し、ロッカーにいれて施錠した。少年は窓際の椅子に行儀よく座り、外の景色を見ている。景色といっても隣の建物の壁くらいしか見えなかったが。
「よし、分かった、君は常識はなさそうだけど無害そうだし、恐らく行く当てがなくて困っているわけだろ? 飯は出せないが、少しの間ならここにいてもいい」
「僕は常識があります、潤沢に」窓の外を見たままで少年が言う。
「それで、まず名前を聞かせてくれ、オレはヨナタン」
「ドミニク・フリードマン。フォージ村の方から来ました」
フォージ村。聞いたことのない場所だ。恐らく地方の小村だろう、退屈な生活に飽きて、壮大な夢を持ち飛び出してきたのだろうか。
「その村からどうやってここまで来たんだ?」
「最初は歩いて行こうと思ったんですが、途中で旅行者の方々に拾われました。すごく揺れて乗り心地の悪い馬車でこちらの方へ。あのまま歩いていたらいずれミイラになっていただろうと言われました。そんなことはなかったと思いますが」
無謀な少年だ。街道沿いを歩いていたのだろうが、下手をすれば結界の途切れた場所で瘴気に晒されたり、魔物に襲われたりといった目に合っていたかもしれない。とはいえ、無事に街の中にまで到達できたので、運は良いのだろう。
「しばらくこの街を見て回ろうと思います。一つお聞きしたいのですが、ここにも騎士はいるのですよね? 昨日はそれほど多くは見ませんでしたが」
「無論いるが、ここは見ての通り馬鹿でかいからな、騎士が足りてないんだ。要点、例えば〈間隙〉――聖岩の結界が及ばない地点だ――そういうところ以外は、冒険者とか、騎士じゃない兵士が受け持っている。大都市特有の問題だな。だからここでは、適合率の低いやつに一本だけ棘を刺した下級騎士も多い、普通は見習いで一本、正式に騎士になるときにもう一本って感じなんだけど。そいつらは正騎士には見下されがちだが、オレたちみたいな木っ端冒険者よりかはだいぶましさ」
「あなたは冒険者なのですか。辞めた方がいいのではないですか」
突然ドミニクは、真剣な顔でそんなことを言った。
「なんだって?」
「労働など己をすり減らすだけです。まして冒険者など、はした金と引き換えに寿命をドブに捨てているようなものです」
「そんなことは分かってるさ、だが必要な仕事だよ」
しばし少年は黙して、窓の外の壁をじっと眺めているようだった。
「ここは、十五階層だか十六階層らしいですが」ドミニクは視線はそのままで話し始めた。「この下にもいくつも階層があって、上にもまだあるってことでしょうか」
「そうだ、とはいえもちろん、都市全体で言えば各階層は水平じゃない。あとから崩れたり増築したりでそうなったのもあるし、元からそうだって場所もあるけど、この地区の十五階層と隣の二十階層が接続されてたり、もしくは隣の階層に行くためには別の方角から回り込まなきゃいけなかったりする、外から来た人は戸惑うだろうが、繋がりはめちゃくちゃだということさ」
「あとで乗ってみたいのですが、列車も通っているようですね、それもそういった感じでしょうか」
「ああ、列車の路線もいろいろあって、路線図が迷路みたいなので有名だよ。行ったら帰って来られないかもな」言いながら、その方がいいかもしれないとヨナタンは思った。「とりあえずオレは、今からシャワーを浴びて寝る。その間は好きにしてなよ。鍵は開けたままにしておく」
「それはどうも。ではお言葉に甘えることにします」
そうして少年は出て行った。あるいは、もう戻って来ないかも知れない。ここは複雑だ、言ったように列車でどこか別の地区へ行ったり、徒歩で妙な場所に迷い込んで戻れない、ということも起こりうる。その方が好都合だが。
■
集合住宅から出たドミニクは、いつものようにぶらぶらと歩いた。朝の通勤時間に差し掛かり、通りに人が増え始めている。
フェイチェスターはどこも、平坦でまっすぐな道というのはあまりなかった。ばらばらの断片を無理やり組み合わせて作られたような場所ばかりで、階段も非常に多く、大抵極めて急だった。橋や階段は壊れたまま放置されているものもしばしば存在し、今にも折れそうな板切れが掛けられていたり、崩落した穴がそのままになっていて跳び越えなければならない箇所もいくつかあった。トンネルを潜るとどこかの屋根上、民家のバルコニーや廊下や庭、食堂の調理場、下水であったりしたが、通行人はそこを平然と通っていく。
人数もだが、種族もヘイゼルウィックに比べると富んでおり、あの地ではほぼ見ることがなかったドヴェルやベンシック、褐色の肌と象牙色の髪の東方人、そして子供のような〈風生まれ〉もいくらか見かけた。少数だが、獣の相を持つ獣人さえもいた。
ドミニクにとっては、煩雑に入り組んだ大都市はとても興味深いものだった。目の前の線路を列車が轟音とともに通り過ぎて行っても、誰も目をくれようともしない。高塔の隙間を、騎士を乗せたロック鳥が飛んでもだ。彼らにとっては、この広大な都市が日常の舞台なのだ。
楽器を弾く大道芸人、駆けていく騎士たち、露天で威勢よく声を張り上げる商人。ヨナタンのようなしがない冒険者たち。次第に街は目覚め、動きつつある。都市そのものが蠢くそのさまを、ドミニクは長い間、道端で見つめていた。
■
人気のない路地を突き進んでいると、妙な場所に出た。行き止まりで、視界が急に開けている。都市そのものに大穴が開き、遥か眼下の底には木々が生い茂る緑の絨毯があった。
「おい、そこで何をしているんじゃ。ここは民間人立ち入り禁止じゃぞ」
そう声をかけてきたのは、ドヴェルの女騎士だった。ドヴェルの女性は皆、髪をひたすらに伸ばし、小柄な体全体を外套のように覆い隠しており、その人物もそうだった。彼女は長大な銃を手にしている――人族を撃つためのものではなさそうだった、もっと強大な何かを想定した武器だ。
「聞いておるのか? ここは結界の間隙、下から羽のある魔物が飛んでくるやも知れぬのじゃ。すぐ立ち去れ……」
「この穴も誰かが開けたものですか? 最初からここに?」
「それを聞いたらすぐどこかへ行ってくれるか? 二百年ほど前に、巨獣が湧いて崩したという話じゃが事実かどうかは知らぬ。歴史について学びたくば、図書館か、この地区の教会にでも行け、ダニエラという司祭が教えてくれよう。さあ早く……ん? お前、どこかで見たような顔じゃな……?」
怪訝そうにドミニクを見つめる騎士に、後ろから現れた別の人物が話しかけた、「そいつは勇者僭称者とかっていう例の小僧さ、ヘリュ。確かドミニクつったな」
朝食のサンドイッチを手にゆっくりと登場したその騎士もまた、飛来する魔物を撃つための長い銃を背負っている。
「こやつが勇者というのか、クロフォード?」
「僭称者だ、何か魔剣を持ってるっつう話だった、教会から告知が来てただろ、まあ悪さする感じじゃねえが、食いものと寝床をたかる野郎だってよ」
「それはそれは、とんだ厄介者じゃな」
「それより、ギルドの方から連絡があったぜ、やっぱ冒険者はまだ送れねえってよ。『緊急じゃねえならこっちも人手不足なんでもうちょい待て』とかっつってさ」
「ヴァイン支部長め、やはりエルフなど信用ならぬ。とくれば、あの憎き〈膨れ蟲〉はこちらでどうにかするしかなかろう」
「ヤダなあ、あんな薄汚ねえところへ入ってくなんてさ。いや待てよ、そうだそこの――ドミニク。あの話はマジなのかい?」クロフォードと呼ばれた騎士が、少年に歩み寄り、聞いた。「相手を樹にしちまう魔剣ってのは?」




