第十二話 黒騎士
ヘイゼルウィックを経ったのち、ドミニク・フリードマンは北と思われる方向へ歩を進めた。コンパスも持たず、人に道を尋ねることもせず、時折太陽の方角から曖昧に北を判別し、ゆっくりと歩いた。
街道は聖石に沿って伸びているため、完全ではないにしろ瘴気や魔物からは保護されているが、ドミニクは時折気の向くままこの安全な道を外れたり、また戻ったりしながら旅を続けた。瘴気はどれほど濃厚であっても〈宿り木〉により浄化され、彼の周囲は常に清浄な空気が保たれていた。大抵の事柄において適当・奔放なドミニクも、衣服や身の汚れには敏感だったので、魔術によって常に清められており、食事も魔剣によって新鮮な果物が供給されていた。
質素だが快適な旅の最中、ある騎士と遭遇した。
巨大な神像、ダグローラやエギロスを初めとして名も知らぬ神々が立ち並ぶ森で、その人物は魔獣の亡骸の前に立っていた。ライオンと山羊の頭をもつキマイラ、その二つの首は見事に断たれていた。
今まさに戦いが終わったところらしく、周囲には怪物の爪跡や魔術による焦げ跡などが見られたが、騎士は傷ひとつ負ってはいない――少なくとも生傷は。
年の頃は二十代半ばと見られるその女性は粗末なローブを纏い、その右腕は二の腕から先が無かった。さらには右目に眼帯が当てられ、そして魔物の血に染まった剣は、半ばから折れていた。この戦いで折れたのではないらしく、腰には刃に合わせた短い鞘を下げていた。
「おう、少年、いいところに来た。どうだい、あたしが今しがた屠ったこいつは? 強ぇだろう、あたしはよ。日ごろ誰にも自慢できないから、欲求が溜まっていく一方だったさ。あたしを褒めとくれよ、なあ」
「あいにく戦うシーンを見逃したので、あなたの強さは把握できていません」
「なんだよ、誰かにやってもらったとでも言うのか?」隻腕片目の騎士は拗ねたように言った。「まああたしの強さは不変だからな、そのうち拝ませてやろう。それより少年、この辺は危ねえぞ、あんた騎士じゃないようだけど、浄化の魔剣を持ってるのか、瘴気のほうは平気みたいだけどこういった化け物がうろついてるんだ、よほどの酔狂かね?」
「僕は別に、そのキマイラが十匹同時に襲ってきてもどうってことはありません。確かにここいらでは、誰とも出会いませんでしたね」
「こんな場所にいるのは〈穢れ者〉か……やけっぱちになった逃亡者くらいかね、魔物を返り討ちにする奴も、たいていは腕利きの賞金稼ぎとか〈黒犬〉に狩られておしまいだけど。
じゃなきゃ、悪魔狩りどもか。奴らは瘴気溜まりも街もそう変わらないからさ。あたしみたく修行目的の放浪者もたまにいるけどね。あんたはそのどれでもなさそうだ、そこいらの居住区からぶらりと来たって感じだね」
「そんなところです。ああ、そういえばまだ名乗っていませんでしたね、あなたからどうぞ」
「あたしはゲオルギーネ・タンホイザー。サナムの騎士だ、まあ黒騎士だけどね」
黒騎士とは主君に仕えてはいない騎士、すなわち出奔者や追放者だ。
「出奔というのは、そう簡単にできるものなのですか?」
「別にどうってこたあないさ、まあ強いて言えば不名誉だな、あたしは別に名誉なんざ要らんけどね、散々な評判さ。なにしろ昨今は騎士がどこでも求められる時代だ。騎士をやめるともう恥ずかしくて表を歩けないとか、あるいは自刃しなきゃならねえ地域もあるらしいぜ、逃走すりゃ追っ手を差し向けられたりとかね。だが、あたしは好きにやるのさ、誰もあたしを止めらんねえ」
「その自由さには好感を持てますね。僕はドミニク・フリードマン。ゲオルギーネ、その腕と目はどうしたのですか。あとその剣は思い出の品か何かですか。それからサナムっていうのはどこですか?」
腕の無いほうの袖を指しながらドミニクが、矢継ぎ早に立ち入った質問をする。黒騎士は特に嫌な顔をするでもなく答える。
「こいつはあたしの『強さ』に対する意識と分かちがたく結びついている。少しばかり長い話だ、今はそれだけ答えとこう。サナムっていうのはここのずっと西にある領邦だ、あんたも知ってると思うがタイタス・ドゥールの出身地、双剣の騎士どもの本拠地さ」
「タイタス・ドゥールとは誰ですか? 長くなりそうなら食事をしながら話しましょう。そのキマイラは食べるのですか?」
「魔物は硬くてあんましうまくねえからなあ。浄化の手間もかかるしさ、あたしは食うのに心理的抵抗ねえけど、お決まりのウーズ肉にしとこう」
ゲオルギーネは背嚢から一抱えほどの缶を取り出し、中身を器に移す。それは緑褐色のドロドロしたもので、水を加えてよくかき混ぜると今日の食事の出来上がりだ。
これはミラベリア全域でもっとも広く普及している野戦食、通称〈ウーズ肉〉だ、といっても実際にウーズの体細胞を用いているわけではない合成食料で、デンプンに何か工業的・魔術的な加工をして人体に必要な栄養分を補給できるようにしてある。問題はこの恐ろしく味気ないしろものを旅の間食べられるかという話で、それは都市の騎士と、居住区の外で活動する遠征騎士の最大の違いだった。後者はある単純な魔術により脳のごく一部を麻痺させ、ウーズ肉に対する飽きをかき消すことができた――これこそ大気から水を取り出す術に並び、旅人の必需品といえよう。
「太陽神ダグローラ、武神エギロス、並びに那由他の神々に感謝を」
食前の祈りを告げてからゲオルギーネは食べ始めた。ドミニクは分けてもらったそれを、一口食べるなり突き帰した。
「そんで? あんたは何をしてんだい、親と揉めた上での家出か? やくざな股旅、ってな顔じゃねえ。修行の旅か? にしちゃあ……」
「僕は当代の勇者でありまして、聖女に会うために北上しているのです」
この宣言にゲオルギーネは破顔一笑、
「勇者だって? そういう奴がサナムにも来たこともあったさ、勢いで道場破りなんかしてね。昨今のブライドワースじゃあごく紳士的に、茶菓子のひとつも出してお帰り願うところも多いと聞くがね、サナムは未だに戦乱の世さながら、本物の騎士が生きてる地さ。腕の一本二本折られるなんてのはまだ軽いほうで、あたしと同じく片方を置いてくはめになるか、さもなきゃ問答無用でぶった切られて、畑の肥やしさ。そういった馬鹿でさえ、あんたよりかはまだ剣士然としてたけどね」
「そういった人々と僕は違います。それより、さっきのタイタス某という方について聞かせてもらえますか?」
「ああ、タイタス・ドゥールはサナム双剣流の開祖、まあ三世紀ばかり前の剣客さ。色々と愉快なエピソードもあるが、大抵の騎士は一流の武芸者と思っているね、だが彼の剣術についちゃ、他所の奴らは何も知らねえよ」
「剣を二本使うのですか?」
「そうさ、タイタスの理屈はこうだ、剣一本で少なくとも並みの剣士よりも強ければ、二本持ったなら負けるはずがない、ってな」
「しかしあなたは一本しか持てないではありませんか」
「ああ、しかし考えようによっちゃ幸福だ、剣一本に二本ぶんの活躍をさせる、その方法を追求できるからね。今でももう、だいぶ最強だけどさ。少なくとも人族に対しちゃあたしは、一度も負けたことがねえ」
「その腕と眼を失って以来、の話ですか。もしかして、その腕を斬り落とした相手に逆襲するために探索と修行の旅を?」
「そんなとこさ。今は、この先の廃墟にいるリビングアーマーを倒すのが当座の目標さ、あんたも見に来なよ」
リビングアーマーとは死者の怨念が鎧に宿った、アンデッドの一種だ。瘴気の濃い場所で死んだ生き物は、その穢れを宿して蘇り、さらなる犠牲者を引きずり込むことも少なくない。
「もちろん心配ならば引き返すべきだな、あたしは守るための剣は知らねえからさ」
「心配無用です」当然のようにドミニクは言った。「僕もずっと、無敗なもので」