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勇者は差しのべられた魔王様の手を見つめました。
赤黒い血に汚れた大きな男の手の平。しかし勇者が血濡れにしさえしなければ、ヒト離れして白く透き通った貴人の手の様に見えたでしょう。魔王様の手に、血の滲む研鑽の跡はありませんでした。種族として、彼は生まれつき強者でした。生まれついた魂の格によって強さは定められ、修行という行為は必要のない種族なのです。魔王様には努力して強くなると言う感覚が分からなかったそうです。弱かったのに強くなる、しかも魔族に匹敵する程にと言う事実自体いに感銘を受けられ、それ故に、元々か弱き少女だった勇者の努力を認めて下さっていたのです。
そうして勇者は改めて、我が手を見ます。
男らしい魔王様の手に比べ、何とちっぽけな手でしょうか。
汚らしい肉刺の跡、炎の魔法に失敗した時の火傷の跡、氷の魔法に失敗した時の凍傷の跡、斬撃の跡、跡、跡、痕、跡、傷跡だらけ。
肌は白い方でしたが、長旅の果てに、やや日に焼けています。
白くも無く、固く、柔らかくもない、醜い、手の平でした。
(こんなの、女の子の手じゃない……)
こんな時だと言うのに、今更、何故か、魔王の前でそんな事を考えました。
魔王様は引っ込められそうだった女の手を取りました。
「これは吾輩を屠れる強者の手」
「魔王を倒せる努力を為した手」
「余所の娘の代わりに、娘を捨てて成し遂げた手」
「だのに、小さく、か弱く、いじらしき女性の手だ」
かつて、少女は嫌がっていた。
こんな手なんて嫌だと思っていた。
女性扱いされるのなんて嫌だった。
女性扱いされないのだって嫌だった。
どう言って貰っても嫌だった。
だから男のように振舞っても見た。
「魔王の癖に」
「誰から告げられようと言葉は言葉だ。貴公の心に届いたらいい」
「勇者なのに」
「それはただの使命だろう。“平和”ならば、貴公を縛るモノなど無い」
「そう、そう……です、よね?」
「そうだとも。だから共に“平和”を築こう」
「ええ、平和の為……ですもの。魔族の王よ、私は貴方と平和の道を模索します」
「安堵した。ならば共に“平和”への融和を為そう」
顔に影が差し、勇者は咄嗟に見上げると、睫毛と睫毛が触れ合う距離に魔王の美貌が迫ってきていた。顔を背けようとしても既に顎は固定されて逃げられない。
薄らと開くくちびるからちらと、魔王の毒牙が見えている。
大きな男の身体はもう、ビクともしなかった。
魔王に勝ったはずだった。
魔王より、強いと、強くなれたと、そう思っていた。
そしてそれは確かに事実ではあった。
真面に戦えば、魔王は勇者に勝てないだろう。
勇者が敵に対する時の様に、きちんとした距離を取っていさえすれば、魔王はすぐさま地に伏していただろう。
誰が何と言おうと、男好きだと思われようと、勇者は自分の性別をきちんと弁えていた。
きちんと用心深く相手との距離を取る事の出来る戦士であったのだ。
あんなにも常に警戒していたというのに。
どうして男なんかに、こんなに近付いてしまったのだろう。
魔王の眼差しが敬愛と慈しみに満ちていたから?
魔王が余りにも美しい男だったから?
魔王がこんな手なんかを、褒めてくれたから……。
目が、縋るように欲しがっていたから。
「まおうのくせに……」
直ぐに飲み込まれてしまったそれが、勇者の最後の言葉となった。
この世界に勇者なんてもう居ません。
もう、魔王様との融和が進みきってしまったのだから。
魔界に住めなくなって、女性が絶滅してしまった魔族の方々が繁殖の為に得た手段、その得難き魔王様の血筋を残す為の身体へと、勇者はすっかり“改良”されてしまったのです。
かつて、少女は嫌がっていた。
嫌でなければ、ならないと思っていた。
何かどす黒いモノを纏った魔王の手が指が、好き勝手に身体中を這い回り、内から外から止めどなく染み込んでいった黒い何かによって、自分の身体が、ヒトではない何かにつくり変えられていく感覚が、嫌で嫌で仕方が無かった。
嫌、だった。
本当に嫌だった。
自分の裡から自然と湧き出てしまった感覚と感情が、嫌で嫌で仕方が無かった。
それが痛みならば、苦痛なら、不快なら、恐怖なら、ちゃんと嫌だと思いつづられた。
ちゃんと否定が出来る自分で在れたのなら、この行為が、“改良”が、ここまで嫌だと思わなかった。
かつて人だったモノとして、正しく嫌だと、思いたかったのに。
邪気の纏う手がこの身体に触れた最初の最初から、嫌だと思う事も出来ないような、触れ方だった。
そう思う逃げ道なんて、残してくれない。
私をただただ追い詰める、優しい優しい、愛で方だった。
怖かった。嫌だった。
これが愛情以外の何ものでもないと、理解させられてしまった事が。
私は聖なる剣で魔王様を切り刻み、殺す寸前まで追い詰めたのに、なのに、その場で愛された。
どうしてこうなってしまったのだろう?
だけれど、もう、それは自然なコトとしか、考えられなくなってしまっていた。
愛されてるのだと、私は深々、思い知らされてしまったのだ。
ヒトでないモノにつくり変えられて、しまいながら。
自分が人間ではなくなっていく感覚―――普通はきっとおぞましい。
きっと気持ちが悪い。
恐くて怖くて堪らない筈。恐くて痛くてきっと狂ってしまうような、恐ろしい感覚の筈だ。
だって、わたしは人だった。
人だったなら、人のままでいたいって思うのは、あたりまえのこと。
きっとそう思うはず。
人ではない何かに、なっちゃうのなんて、怖くていやだと思うもの。
なのに
ねえ、なんで?
わたし、こわくない
どうして?
こんなになってるのに
きょうふさえ、いだかせてくれないの?
だめ しこうが わたしって、こんな
どうして いたくないの。
いたかったら もっと いやだとおもえるのに
なんで わたし いやじゃないの
ね、もっと―――
ちがう! いや、だめ。
だってこれ、おかしい。
わたし、からだじゅう、ぐちゅぐちゅって、ちがうモノに、なって、いるのに
おかしい、おかしいよ!
わたし、あ、あ、あ、ああ…っ、ちが、ちがう!
しっぽなんてない! ゃ、はやさない…で。
ぅ、あ、よろこんでないってば
いや、いやだから! ちゃんと いやだってえ!
わたし、ちゃんと、いやだって、おもってる……よ?
ねえ、いや。
いやだよ! こんなの、こんなに、されちゃったら、わたし―――
わたし、いや、なんかじゃ……ちが、ぅ、
ひとだか、らぁ…、わたし、 あ れ……?
わたし、まだ、ひと……よ、ね?
ね、ね、ね、ね、ね???
あ、ああ、ねえ、ねええ、あ、あ、あ。
ち、ちが。
こんな、わたし……やめて、そのかんかくこわい。
だって だめ これ きもちいい。
こわいよ、やだ、だって、こんなに、それ、わたしが、くずれそ
あ、ああ! やじゃない!
やめないで、ゃ、やめ
も、やじゃないの、やだ。ぁ。
や、あ、あ、くる、なにか、ぁ、やぁ
ぃやああああああああああああああああああああああああっ!!!
かつて、少女は嫌がっていた。
嫌だと思い続けていられない事が、嫌だった。
嫌だと思わなければならないと、そう思い込んでいた。
ヒトではなくなるのは嫌な事だと、そう、思い込もうとしていた。
こんなに心地の善い事なのに。
だけれど魔王様が“平和”の為にと、何度も何度も教え込んで下さるから。
少女―――わたしは、ちゃんと理解出来る様になったのです。
私は魔王様の妻であると。
魔王様に愛でられる事こそ私の日常。
その血を育めることこそ私の幸せ。
そう思える様に“改良”されてしまいました。
そうなってしまえた事が、もう嬉しくて心地好くて幸せとしか思えないのです。
魔王を殺そうとしていた頃の感情は最早遠くて、私の事ではないみたい。
魔王様は私に愛おし気に頬ずりをなさる。
「吾輩は魔王故、勇者サマには負けっぱなしよ」
それから、すっかり魔王様に丁度良い大きさにされてしまった私の胸に顔をうずめられ、
「勝てない、勝てない、魔王は勇者には勝てまいよ」
と歌う様に優しく仰り、長く長くなった私の黒髪を撫でて下さります。
本当の本心では、私ももう、魔王様を殺す事なんで出来ないって分かっております。
魔王様が勇者の私に勝てないと言われる様に、私だって魔王様には勝てないのです。
でも、きっと、魔王様は魔王様に勝った勇者の私がお好きなのでしょうから。
「ならば、私に勝てない可哀相な魔王様? 貴方の愛しい勇者めの願いを一つ叶えて下さいな」
膝の上にある美しい形の頭蓋を確認する様に、絹のような手触りの、魔王様の綺麗な綺麗な銀の髪を梳く。高く通った鼻筋がこちらを向いて、長くたっぷりとした銀の睫毛が瞬いて星空色の瞳が愛おしげに私だけを真っ直ぐ見上げる。
「私が倒した魔王の妻にして貰えて私、とっても幸せなのです。だからね? この幸せを私の見知る全ての人に味わって欲しくて。それが“平和”の為になるでしょうし」
「吾輩は貴公に敗れた。故に今や、愛しい愛しい勇者のしもべなのだから、その可愛らしい願いを叶える事為に我が生はある。勿論、貴公の願いに最善を尽くそう。勇者の望む“平和”の為に」