『「~~」●■は言った。』あるいは『「~~」と、●■は言った。』
会話文の後に、誰の台詞かを明らかにする文を『伝達節』と呼ぶそうです。以下、自作からの抜粋です。
『山猫の願い http://ncode.syosetu.com/n1115ea/』より抜粋:
――――(ここから)――――
「何のつもりだ?」男は声に出して山猫に訊ねた。男の顔には、言葉の通じるはずのない獣に話しかけた自分の行為を嘲笑うかのような表情が浮かんでいた。
〈お願いがあります。〉山猫は男を見据え、男の問いに答えた。山猫は声を発することもなく、その声は男の頭に直接響いていた。
〈念話……か。〉男は、意外だと言わんばかりに山猫を観た。〈おまえは、何者だ?〉男は、念話で問いつつも、杖を持つ手に力を込めた。
〈人間たちが山猫と呼ぶ存在です。〉山猫は姿勢を崩さず答えた。
「『念話を使い、人語を解する山猫』、か。」男は声に出し、山猫を睨みつけた。「それだけでも、まともな存在ではないことだけは確かだ。」
――――(ここまで)――――
『伝達節』で使用される動詞は『言った。』に限らずいろいろありますが、最も多いのは『言った。』かと思います。
書き方指南などを見ると、この『「~~」●■は言った。』を書くのはよろしくない、と書かれていることが多いようです。『口調などで書き分けろ』と書いてあることもあります。翻訳作品を読んでいると気にならないのですが、改めて手近にある本(翻訳作品)を何冊か見たところ、ほとんど全ての台詞に伝達節がありました。
『言った。』を書かない状態で、誰の台詞かを読者に伝えられれば、それはそれでよいと思うのですが、私にはその自信が無かったため、ほとんど全ての台詞に『伝達節』をつけました。その付け方も、翻訳作品(海外作品)に倣って、会話の後に改行せずにつけました。字面としては非常にうるさくなりましたが、誰の台詞か判別できない状態よりはましだろうと思っています。
◇
台詞の後にすぐに改行して次の行に動作などを書くという方法もありますが――あるいは、逆に、動作を書いた後に改行して台詞を書くという方法もありますが――、そのような作品を読んだ際、私は、誰の動作についての記述なのかをうまく読み取れないことがあるのです。特に、本サイトでよく見られるような、台詞の前後に空白行を挟む書式ですと、本当に、誰の台詞なのかを読み取るのに苦労することがあります。以下、苦労して読み取った、とある作品での例です。
――――(ここから)――――
Aについての描写
「Aの台詞」
「Bの台詞」
Bについての描写
情景の描写
「Bの台詞」
「Aの台詞」
Aについての描写
「Aの台詞」
「Bの台詞」
Aについての描写
(以下、省略)
――――(ここまで)――――
上述の例を読み取るのに、画面を数回上下にスクロールしました。特に、台詞の順序が入れ替わるところが、読み取るのに苦労した点でした。台詞だけを取り出した場合、A→B→A→B→……と交互に出現するのであればすんなりと読めるのですが、上述のように、A→B→B→A→……となっていると、『あれ、これは誰の台詞なのだ? Aだと思っていたが、Bなのか?』となり、何度も画面を行き来することになってしまうのです。上述の例は、私が読み取ったものですので、もしかしたら、作者の方が意図されたものとは異なっているかもしれません。
私自身が『伝達節』をつける描き方を採用しているのは、一つは、台詞の後ですぐ改行すると自分で書いた作品であっても誰の台詞だったかわからなくなる可能性があるためです(全ての台詞に『伝達節』をつけるわけではありませんが)。もう一つは、もし自分の作品が『口調を判別しづらい言語(英語など)』に翻訳されるとしたら『伝達節』があるほうが誤訳される可能性が減る、ということを想像(妄想)したためです。
参考文献:
『物語論 基礎と応用』
著:橋本 陽介
講談社選書メチエ
『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』
著:橋本 陽介
新潮選書
『日本人のための日本語文法入門』
著:原沢 伊都夫
講談社現代新書
『英語の発想』
著:安西 徹雄
ちくま学芸文庫