9.キセナ
これから白馬岳山頂への急登が始まる。私は気を引き締めて登りにかかった。積雪の量も若干ではあるが増えてきている。強風で岩に叩きつけられた雪が真横に積み重なり、それが氷の柱となったものが何本も見える。鍾乳洞の石筍が横になった感じだ。私がいつも登る春から秋の登山では絶対に見る事ができない風景に新鮮さと共に神秘ささえ感じる。
岩場の急登が出てくるが、ここにも雪が積もり、足場の凍り付いている箇所がいくつもある。明日の天気予報も快晴とあった。朝は放射冷却現象で一層に寒いだろう。この時間以上に足場は凍っているにちがいない。私の登山靴は何年も穿いていたため靴底がかなり摩耗している。買い替えようと思いつつもそれもせずにいての今回の登山であった。ましてや軽アイゼンすら持ってきていない私がこの場所を翌朝無事に下りきれるだろうかという不安が頭を過ぎる。登りより下りが危険なのだ。何度も登山を経験しているがゆえの馴れからくるポカとしか言いようがないミスだ。
しかし、ここまで来た以上、引き返す理由は無い。そう思い直し、私は両手を利用しながら氷に足を取られて滑り落ちないように、登る事に神経を集中させた。少しの急登を終えると一旦平らな雪道が出るが直ぐに急登となる。それを繰り返している内に白馬岳の山頂がどんどんと私に迫ってくる。今の所、不思議な人間は現われていない。白馬岳の山の神が直接私を守ってくれているせいだろうか。彼らの話を信じたくも無かったが、そう思わざるを得ない気持ちだった。
その時、遠くから小さなブーンという飛行機のエンジン音が聞こえてきだした。見上げると雪倉岳の方向から小さな双発のプロペラ機が白馬岳の方向に向かって飛んでくるのが見えた。胴体が青色で主翼部分の右翼が黄色で左翼が緑色の双発機だ。この強風の中を、その小さな飛行機は風に揺られる事もなく安定した状態で飛んでいた。次第に機影が大きくなってきて、丁度私のいる上空付近で飛行機から何かが投げ出されるのが見えた。落下直後にパラシュートが開き、強風にも流されず私に向かって一直線に下りてくるようだった。そのパラシュートを制御している人間の姿がはっきりと見えてきた。
足場の悪い岩場であったが、私はカメラを取り出してファインダーを覗いて見た。するとルコスが三国境の方から次々と私の後を追って白馬岳の山頂直下の急登をピョンピョンと跳ねるようにして登ってくる姿が見えた。白馬大池方面からのルコスはほぼ制圧されていたはずなので、今回のルコスは雪倉岳のルートから来ているようだ。雪倉岳方面に行ったはずのビルダ親子達と遭遇しなかったのかと疑問を感じたが、ルコスたちが彼らを避けてこちらに向かっているのかもしれなかった。
ルコスの数はかなりあって追いつかれると私は彼らの中に埋まってしまうような勢いであった。ルコスが大量に発生する時には必ず不思議な人間達の出現を招く。今日の登山で私はそれを学習したので、上空からパラシュートで降下してくる人間は恐らく山の神の息のかかった者だろうと確信した。それにしても白馬岳の山の神自身はルコスから私を直接守ってくれないのだと知って私は大きなショックを受けた。すべて自分のしもべに任せきりという事らしい。
私は冷たい風が吹き付けてくる中、立ち止まったまま青空を見上げてパラシュートで下りてくる不思議な人物を観察していた。見る見るうちにそのパラシュートは私に向かって近づいてきた。緑色の毛糸の帽子を被り、上着が黄色でズボンが青色の防寒着に身を包み、ミラーグラスを掛けた男性だと認識できた。何故、男性だと思ったかと言うと、伸ばした鼻の下の髭に白い霜がこびりついているのが見えたからだった。
彼は私の近くの岩場でふわりと着地をした。到底、普通の人間では着地できないような場所だったが、彼は斜めになりながらもパラシュートを外して、それを崖の下へ放り投げてしまった。髭の下の唇が開くと「私はキセナ。後ろからルコスが続々と登ってくるので、急遽、出動してきましたよ」と話し出したかと思うと背中に担いでいたリュックサックに取り付けてあった長めのピッケルを取り出し、雪で覆われた岩場の登山道に立った。
キセナと名乗った男性は、太くV字の形に吊り上った眉毛に彫りの深い顔をしており、髭が無ければカーゴライの顔立ちに似ていると思った。
そしてカーゴライと同じような動作で近くにあった岩の隙間をピッケルの石突部分で突き刺し始めた。その近くに穴がぽっかりと開いたかと思うと、期待通りと言えば良いのだろうか、これまで姿を消していたスーリンとその仲間達が飛び出してきた。カメラのファインダーの中で彼らは再びポールの先で岩を突いては周囲に穴を開けて、追い着いてきていたルコスを次々とその穴の中に追いやっていた。
キセナは周囲をきびきびと動き回ってはスーリンの仲間達が出てくる穴を盛んに開けていた。しかしルコスの数が減少し始めるとキセナの動きは次第に鈍くなりスーリンの仲間達が出てくる穴も少なくなり始めていた。キセナもカーゴライと同じ力を持っているようで地表にいるルコスの数に合わせて自らの能力を制御できるようであった。
岩場で寒さに耐えながら立ち止まっている私の元へまずやってきたのはスーリンだった。今回の山登りで何度彼の姿を見た事だろうか。余程、動き回ったのだろうか、スーリンの防寒着のフードからは湯気が立ち上っていた。
「今回は結構な数のルコスがいましたね。なんとかキセナのお蔭で少なくできました。キセナはね、さっき居たカーゴライの弟なのですよ。キセナは独身なんでね。体一つでどこにでも自由に現れるのですよ」とスーリンが説明した。
「しかし双発のプロペラ機で現われるというのは今までと全然パターンが違っているなあ」
私はまさか飛行機までもが飛び出してくるとは思っていないので正直驚いていた。
「山の神が背後にいるにしては文明的すぎるっていう意味ですか?時代に合わせているのじゃないですかね。その辺の詳しい事情は私にも分かりませんね。しかし昔は凧を利用して登場させていたという話は聞いた事があります」
「凧ですか?それにしてもこんなに強風なのに正確にパラシュートを操れるのは、やはり山の神のしもべのなせる業なのでしょうかね」私はそう思いこむ事にした。
キセナがにこやかに近づいてきた。ミラーグラスをかけているので目の表情は掴めない。そこには私の顔が歪んで見えているだけだった。
「大丈夫でしたか?直接、影響はないはずですが、痺れとか痛みとかは感じませんでしたか?目が見えにくいとか、おしっこが出にくい状態ではありませんか?」キセナは矢継ぎ早に私に質問をしてきた。何だか尋問されているみたいで不愉快な気分になってしまった。
「申し訳ない。あれだけルコスがいるとついつい心配になってしまうのですよ」キセナもやはり私の心の中を読み取っているのか、すぐに話を切り替えた。
私はどうなっているのかいい加減に教えて欲しいという表情をしながらスーリンがいる方向を見ると、既にそこにはスーリンの姿は無かった。自分が出てきた穴の中に入ってしまったのであろう。
「私が山頂まで同行しますよ。足場は凍っていますから、気を付けて登りましょう」
キセナは巧みな足さばきでピョンピョンとカモシカが岩場を駆け上るようにして先へと登っていく。しかし、それほど離れない場所で立ち止まっては私が登る姿を確認し、私が追い付くと再び動物的な動きで登って行くという動きをしていたので実質的には彼に守られて登っているようなものだった。その内に、なだらかな山頂に到着した。午後一時二十六分である。三国境から約四十五分かかっており、また登山口のれんげ温泉からは五時間四十六分かかっていた。不思議な連中と出逢って時間を取られたにしては、ほぼ一般的なペースであろう。
山頂を表示する木製の標柱には黄色地に黒い文字で白馬岳山頂二九三二.一mと書かれた鉄板が打ちつけられている。黄色い部分の上下の木製部分には雪がへばり付いている。文字が見やすいように黄色い板の部分は誰かが雪を掻き取ったのだろう。空はあくまで青く澄みきっており、太陽の光を一身に浴びてはいたが、強風は収まっておらず、寒さは一段と増した印象があった。
眼下には白馬岳に続く雪で凍てついた白い杓子岳と白馬鑓ヶ岳の稜線が見える。更に下に目を移せば晴れた秋の光の中にある白馬村の盆地が広がっている。南西の方向に目を転じれば立山連峰が見えている。残念ながら立山連峰の山頂付近はガスで覆われていて、今は剱岳だけが美しい正三角形に近い山容を見せている。その剱岳の山頂にも雪の白い部分が見えるので、今日はどこの標高の高い山でも積雪状態になっているようだ。雲の流れは早く、見ている間に剱岳も見えなくなってしまった。
「記念写真を撮りましょうか。今は周辺にルコスもいないようですから」キセナが声を掛けてきた。
私は景色に見とれてしまい、すっかりキセナの存在を忘れてしまっていた。
「じゃあ、頼みます」私はキセナに私の愛機ペンタックスK‐30を渡した。私は強風でややもするとめくれそうになる防寒用のフードを手でささえながら軽くポーズをして写真に収まった。
「大丈夫。変な物は写っていませんから」キセナは笑いながら私にカメラを戻してくれた。
「じゃあ、私はここで失礼します。ここから白馬山荘までは十分も下れば着きますが緩斜面とは言え凍った下り道になるので、十分に気を付けてください」
そう言うとキセナは白馬村側の、その先は崖となる斜面に向かって駆け出して行ったかと思うと両手を広げてダイビングした。
その時に私は思わず大きな声を上げていたに違いない。つい先ほど山頂に着いた夫婦連れらしい男女が不思議そうな顔をして私を見ている。またしてもやってしまったようだ。しかしキセナの事が心配で私は急いで山頂の端まで足を運び崖の下の方向を見た。すると黄色い色をした小さなパラシュートが風に任せてゆっくりと下降していく姿が見えた。キセナは背中に大きめのリュックサックを担いでいたが、まさかパラシュートが入っているとは思わなかった。
「なかなかやるなあ」と私が呟いた時に「何か落ちたんですか?」と尋ねる男性の声が背後からした。
先ほどの夫婦連れの一人だった。私が山頂での強風で何かを飛ばされたと勘違いしたらしい。
「ハンカチを出していたら、あっという間に風に攫われちゃって」私はここぞとばかりに彼の口車に乗って急場を凌いだ。
「天気は良くて抜群なんですが、強風とこの寒さが辛いですね」その男性は気の毒そうな顔をした。
私は彼ら二人の山頂での記念写真を撮ってあげてから、白馬山荘への下りへかかった。白馬大池側からのルートでは一旦白馬岳の山頂を越えないと白馬山荘に辿りつけないのである。
ザレ場の細かい岩の表面は凍りつき、その上に雪が覆っている場所と雪は無いが凍りついたままの場所がある。靴底が摩耗した私の登山靴では、この下りも厳しいものがある。傾斜はそれほどではないが、凍りついたザレ場で足を取られると白馬山荘まで行くまでに何度も転倒してしまう可能性がある。なるべく積雪のある場所を選び、踵に抵抗感を感じながらゆっくりと足を下ろして進んだ。