2.スーリン
れんげ温泉の登山口から一時間四十分、見晴しの良い“天狗の庭”と呼ばれる場所に着く。周辺には唐松が多くあり、黄葉した針葉が登山道周辺のあちらこちらに落ちていた。松は針葉樹で常緑樹、葉がごっそり落ちる事はない。唐松は、その常識を覆して黄色化して葉のすべてを落としてしまう。枝から葉が空になるから、“からまつ”と言うらしい。ここからは真正面に雪倉岳、その右隣に朝日岳が見える。白馬岳本峰はまだ見えないが、白馬岳の手前にある小れんげ山が見えている。いずれの山も山頂から四分の一程度までが雪で白く覆われている。おそらく初冠雪だったのだろう。その雪も山の表面を薄く覆っている程度の印象があったので、私は登山を続ける決意を固めた。
“天狗の庭”と書かれた道標の近くにある岩に座っている黄色いキャップを被った若いサングラス姿の男性が私に微笑みかけ「こんにちは」と挨拶をしてきた。
下界では見知らぬ人と町中ですれ違っても決して「こんにちは」と挨拶をしないが、山では何故か見知らぬ者同士が「こんにちは」と挨拶を交わす。これはこれで気持ちの良いものなのであるが、こちらが登りの最中で結構つらい状態になっている時に、山頂から下ってくる団体さんが口々に「こんにちは」と声をかけてくる時がある。これには閉口させられる。声を出すのも辛いのに一々答えなければならない・・・ねばならなくもないのだろうが、そうしないと悪いような気持ちになる。それでも若いうちは一々答えていたが、歳を重ねるにつれ、状況を分かってくれと言わんばかりに酷そうな顔をして返事をしない時が増えてきた。また、逆の立場であれば、私も辛そうに登ってくる人には声をかけないようにしている。声をかけるとしても「頑張ってください」だろうか。そうすると相手はせいぜいで「はい」の二文字返事で済む。
今は登りと言ってもさほど疲れてもいないので、その若者に元気よく「こんにちは」と挨拶を返し、「今日は天気が良くて最高だね」とも付け加えた。彼は均整のとれた体格をしており、彫りの深いエキゾチックな容貌は女性にもてそうな顔立ちであったが、中央の高い鷲鼻の形には賛否が分かれそうだ。いずれにしても好青年という印象をもった。
「雪倉岳をバックに写真を撮ってもらっていいですか?」と話しかけてきたので、私は快く応じて受け取った彼の一眼レフカメラのファインダーを覗き、若者の位置と雪倉岳の配置を確認しながらシャッターを切った。しかしファインダーの中の景色に違和感を覚えたので、再びファインダーを覗き直して見ると不思議な事に若者の周囲の地表付近に白く小さな紡錘形の物体がたくさん蠢いていたのだ。その形は薬のカプセル剤に良く似ていた。カプセル剤はボディーとキャップの二つに分かれるが、ファインダーの中のカプセル状の物体は継ぎ目のないのっぺりとした形状をしていた。それは中に液体が入っている軟カプセル剤というタイプなのだろう。
私はファインダーから目を離して肉眼で正面にいる若者の周囲を見た。しかし白いカプセル状の物体は見当たらない。
「あれ、何かおかしいですか?」その若者は平然とした表情で私に問いかける。
「いや、白い変な物が一杯見えているけれど」私は驚きを隠せず、もう一度ファインダーを覗いて見たが、やはり白いカプセル状の物体が見えていた。
「困りましたね。いや、僕が困ったのではなくて、あなたが困った状態になる可能性があります」若者は私が差し出したカメラを受け取りながら続けた。
「白い物がたくさん見えていればいる程、あなたの体に害を与える可能性があります。あなたが気が付かない内にそれはあなたに襲いかかってくるかもしれません。いいですか、今回の登山は、あなたが自分で選んだ日に自分の意志で計画した登山だと思っているかもしれませんが、実は大きな力によってこの山に導いてこられたのです。これからも登山は計画を中止する事なく、続けて下さい。言い忘れていましたが、僕の名前はスーリンと言います。これから何回もあなたの前に現れるかもしれませんのでお見知りおきを」と言いながらスーリンと名乗った青年は自分の両手を私の両肩に置いた。
「え、どういう事なのかな。何故、白い物が見えると駄目なのか?あれは君のカメラでしか見られないのか?」私はいくつもの疑問を解決しようと彼の眼を見つめた。しかしスーリンの眼を見つめれば見つめるほど焦点が合わなくなり、次第に意識が遠のいていくのを感じた。
「もしもし、大丈夫ですか?」若い男性の声が遠くから聞こえてきた。
スーリンの声とは明らかに違っていた。私はゆっくりと覚醒してきたが、どうやら岩の上で眠ってしまっていたようだ。ぼーっとした気持ちが抜けきらないでいた。
「何か甘い物でも口に入れますか?」今度は若い女性の声だった。
私が疲労困憊で血糖値が下がったと思ったのか、彼女は小さな箱に入ったチョコレートを私に差し出してきた。
「申し訳ない。じゃあ一個だけ頂こうかな」
口に含んだチョコレートは甘く、瞬く間に意識が回復しそうだった。
「なんだか、急に眠くなってね。寝込んでしまっていたらしい」私は照れ臭さでチョコレートの礼を言うのも忘れていた。
「岩の上でぐったりとしているものだから、かなりヤバいんじゃないかと二人で心配して見ていたんですよ」と若い男性が言う。二人は夫婦か恋人同士らしかった。
「私達はもう行きますけど、無理しないようにしてくださいね。場合によっては撤退する勇気も必要かもです」女性はやさしく私に声をかけてから、連れの男性と共に黄葉して落葉盛んな唐松が点在する“天狗の庭”の間に付けられた登山道を登って行った。
私は意識が遠のく前に出逢ったスーリンという若い青年を思い出していた。彼の姿と一緒に見えた白いカプセルが気になった。私は自分のカメラでも見えるかもしれないと思いカメラを取り出した。
ファインダーを覗いてみた。目の前の雪倉岳から右の方向へゆっくりとカメラを向けたが山の景色しか見えない。更に今登ってきた道の方向にカメラを向けた。すると大量の白いカプセルがこちらに向かってくるのが見えた。思わずファインダーから目を離して肉眼で同じ場所を見た。しかし登山道が見えるだけで白いカプセルの姿は全く無かった。
再びファインダーを覗くと大量の白いカプセルが蠢いているのが写っている。私は夢中でシャッターを切って、その風景をカメラのSDカードに収めた。そしてカメラの背面にある表示画面で再生をしてみた。しかしファインダー越しに見えていた白いカプセルは表示窓でも全く写っていないのだ。あるのはただ登山道の風景のみだった。二、三回同じようにしてみたが、結果は同じだった。どうやら白いカプセルはファインダーを覗いた時だけにしか見えないようだ。
「こんにちは」背後から突然に山の挨拶をされ、びっくりして振り向くと中年の男性がにこやかにほほ笑んで立っていた。確か登る途中で追い抜いた男性であった。この男性で確認してみようと思い、彼と周辺の景色の良さなどを話した後に「私のカメラがどうも不具合で変なゴミみたいのが見えてましてね。何か原因が分かりますかね?一度ファインダーを覗いてみてもらえませんか?」と彼に頼んでみた。
「これ一眼レフカメラですよね。私はカメラのメカニックな所は弱くてねえ、コンパクトカメラ派なんですよ」と謙遜するように言いながらも、その男性はカメラを受け取りファインダーを覗いてくれた。
「何やら白く動いている物が写っていませんか?」
その男性はしばらくレンズの方向を上下左右に変えながらファインダーを覗いていたが、申し訳なさそうな顔をして「私には見えないですね。山の風景しか見えないですよ」と言った。
「そうですか」
私は少し気落ちしながら、彼からカメラを受け取り、恐る恐るファインダーを覗いてみた。同じだった。白いカプセル状の物体が地表を這うように動いているのが見えていた。しかし私は心の中の動揺を隠しながら「そうですね、何だか直ったみたいです。申し訳ない」とファインダーから目を離しながら礼を言った。その男性は軽く会釈をしながら“天狗の庭”の道標から少し離れた場所にある座り心地のよさそうな岩に座って休憩を始めた。
私は再度カメラのファインダーを覗いて見た。相変わらず多数の白いカプセルは地表を這うように蠢いていた。しかし“天狗の庭”の緩やかな勾配になった付近にカメラを向けた時、スーリンと名乗った先ほどの若い男性の姿がファインダー越しに見えた。いつの間にかスーリンは戻ってきていたのだ。彼は盛んに右手に持ったトレッキングポールを地面に押し付けていた。すると彼がトレッキングポールを押しつけた部分に穴が開き始めた。不思議な事に白いカプセルは、その穴の中に吸い込まれるように入って行った。 スーリンは場所を移しては同じようにトレッキングポールの先を地面に押し付け、周囲に穴を開けていた。その都度、白いカプセルはその穴に吸収されて、いつしか多数の白いカプセルも数える程に少なくなっていた。スーリンは自分の黄色いキャップを空いた左手で軽く頭上に持ち上げると私に向かって笑顔で会釈をした。
私がファインダーから目を離して直にスーリンの居る場所を見たが、そこにはスーリンだけが見えていて白いカプセルは見えなかった。この異常な現象に私は登山を諦めてこのまま下山しようかと思ったが「実は大きな力によってこの山に導いてこられたのです。これから登山は計画を中止する事なく続けてください」と言うスーリンの言葉も思い出していた。一仕事を終えたスーリンは私を見て登山道の先を指差して、暗黙の内に登山を続けるようにと伝えていた。そして足早に登って行った。「続けるべきだな」と私は思い直して、長過ぎた休憩を少し反省しながら“天狗の庭”を後にした。
“天狗の庭”からは少しずつ斜度を上げていくが急登ではない。ただ、このコースはひたすら長いという印象がある。登山道の向かいに見える雪倉岳から朝日岳の山麓は紅葉が盛りとなっているが、その風景をゆっくりと眺めながら登っていては白馬山荘に着くのが夕方を過ぎるかもしれない。ちらりちらりと紅葉の風景に目をやりながら足元に注意して登り続けた。