14.ダイアライザー
登山道の近くにある露天風呂から発する硫黄臭が鼻腔にある嗅細胞を刺激するようになり、昨日出発したれんげ温泉の登山口が近くなっている事を知らせていた。
「フーさんとも、もうすぐお別れね」少ししんみりした表情でクラルが私に話しかけてくる。
「まあ、帰りは色々と話しながらだったから楽しかったよ」私は素直に答えた。
その時、上空で双発機のエンジン音が聞こえてきた。
「今さら、誰が来るのだろうか?」私は少しショックを覚えた。
「兄のパルートだわ」クラルが上空を見上げながら言った。
「そう言えば、彼は私が夕食や朝食を食べる直前に現れるね。そして今回は昼食をとる前だ」
「あら、フーさん、まだ気が付いていなかったの?でも、今、気が付いただけ偉いわ」
パルートは例によってパラシュートを巧みに操りながら私達の方へ降下してきた。
「やあ、順調に下りて来られたようですね。クラルも今回は頑張ったね。白馬大池での話は連絡が入ったよ。ラグリフも新人だから緊張していたのかもしれない。許してやってくれ」パルートは妹を労わった。
「では、失礼して僕はこれから直ぐに仕事にかかります」そう言うとパルートは慌ただしくトレッキングポールを周囲の地表に突き廻っていた。
「相変わらず君のお兄さんはせっかちだなぁ」
「兄の性格なんですよ。まあ、それが彼の仕事には合ってるのかもね」クラルはパルートを手助けもせずに見守っているだけだった。
私はカメラのファインダーを覗いてみた。ここにもルコスがいてパルートは素早く彼ら用の穴を作ってルコスを地中へと導いていた。もうすぐれんげ温泉に着くというのに忙しい事だ。
パルートは自分の仕事を終えると「では、僕はこれで行きます。クラル、あと少しだが、決して気を抜かないように」と言って登山道に沿う崖下へと向かった。
れんげ温泉の標高が一四七五メートルもあるので、彼はどこか適当な場所に移動してからパラシュートで再び移動していくのだろう。私はクラルを促して、れんげ温泉へと急いだ。そこへ着けば今回の山での出来事の意味が明かされるはずだ。
午前十一時三十一分、れんげ温泉に到着した。白馬山荘から約五時間かかった事になるが、それは私なりのペースであろう。れんげ温泉は大きなロッジ風の建物である。本来は山小屋であるため、外観だけで判断してホテルや旅館気分で入ると不満だらけとなる。山小屋として利用するなら申し分のない施設だ。
れんげ温泉前にある広場に着いて、私はリュックサックを下して立っていた。
「フーさん、どうしたの?」ここまで付き合ってくれたクラルが不思議そうに聞いてきた。
「れんげ温泉に着いたら、スーリンたちが私の今回の登山で経験した現象の意味が分かると言っていたから、それを説明してくれる人が来るのを待っているんだけどね」私は当然じゃないかという顔でクラルに言った。
「そうだったわね。でも誰が来るんだろう?」クラルは再び不思議そうな顔をした。
「最初に会ったスーリンだと私は勝手に思っているのだけど」と私はクラルの長兄の名前を出した。
「そうか、そうだね。兄は結構、根本的な鍵を握っているかもしれないわね」何故かクラルは寂しそうな表情を浮かべた。
私達はそのままスーリンもしくはその他の私に十分な説明をしてくれる人物が現れるのを、クラルと山での思い出話をしながら待った。五分ほど経った頃だった。私は背後で山の中では決して聞こえない機械的な音を聞いた。思わず振り向いたが誰もおらず、それらしき物も無かった。気のせいだったかと思った時、私は背後から誰かに抱きつかれた。
「フーさん、ごめんなさい」クラルの声がした。
抱きついてきたのはクラルだった。昨夜もそうだったが私はクラルに抱きつかれると得体の知れない眠気に陥る。それは意識不明になると言っても良いだろう。そう言えばクラルの長兄のスーリンに昨日“天狗の庭”で肩を触れられた際も私は気を失っていた。今回もクラルに背後から抱きつかれてから急速に意識が遠のいて行った。血糖値が異常に下がっているのかもしれなかった。
「藤さーん」遠くから私を呼んでいる声が聞こえる。しかし、極めて不明瞭な声だ。
「藤さーん。藤双葉さん」今度は私の名前付きだ。次第に私は覚醒し始めていた。
私の瞼が開いて、外の世界が網膜に映り込む。目の前にあったのは大きな女性の顔だった。私を覗きこんでいる。
「あ、起きましたね」などと言っている。
どこかで見た顔だと思った。しかも、いつも会っている顔だという認識もある。それ以外の別の誰かにも似ているような気がした。
私は視線を彼女の胸元に落とした。白衣の胸ポケットの所に名札が見える。顔写真の横に役職と氏名が書かれている。「透析室看護師 蔵るみ子」と印刷してあった。そうだ、いつも私の面倒を見てくれている若いナースの蔵さんだ。
「まだ寝ぼけているかな。藤さんは透析中ほとんど爆睡ね」蔵さんは悪戯っぽい目で私に語りかける。透析室に勤務するナースの中では一番の美形で鷲鼻の高さが特徴的なチャーミングな女性だ。
「じゃあ、針を抜きますね。ごめんなさいね」と言いながら左腕のシャント部分に差し込んでいた針を手際良く抜きとった。その針の行く先は私の血液を浄化してくれるダイアライザーと呼ばれるろ過装置につながっている。
透析中の熟睡している間に白馬岳を登山する夢を見ていたのだろうか。それにしてはやけに生々しい夢だった。思い起こせば夢に登場してきた人物の恐らく全てが、この透析室に勤務する医師や看護師や看護助手の顔だったからかもしれない。
私は週に三回、一回につき四時間程度の血液透析をしている。糖尿病を放置していた結果、私の腎機能は極度に低下してしまった。腎臓は体内で発生した老廃物を体の外に出してくれる大切な臓器だ。それがやられてしまったのだから、老廃物が体内にたまる。水分までが体に貯まるので浮腫んでしまう。老廃物や余分な水分は私の体に様々なダメージを与えてくる。
血液透析ではダイアライザーが腎臓の代わりを果たしてくれるのだ。自分が糖尿病であると気が付いた時が遅かったのが私の敗因である。食事療法に運動療法、さらに色々な糖尿病の治療薬を試してみたが、結局、ブドウ糖を処理してくれるインスリン自体が体の中でほとんど作られなくなってしまった。その治療のためには、体外からインスリンを注射しなければならなかった。
それでも、私は皆の助けを借りながらも充実した人生を送っている。糖尿病は放置しておくと失明したり、私のように週三回、四時間も拘束される血液透析をしなければならなくなる。重症化した糖尿病も各段階に応じた治療方法はあるが元の健康な状態に戻れるわけではない。それ以上の悪化を防ぐための治療になる。ポイント・オブ・ノーリターンという言葉がある。後戻りできない点という意味だが、元の状態に戻れる段階で糖尿病の病状の進行を抑えておく事は非常に大切だ。そのためには定期的な健康診断、遅れない治療開始が大切だと私は痛切に思っている。
インスリン注射を持参しながらの登山は、今の私には結構つらいものがある。しかし、いつかは挑戦しようとは思ってはいる。そんな私の潜在的な思いが若い頃に何度も登った経験のある白馬岳登山の夢につながったのかもしれない。
ギリシア語でDiabetesはサイホンを意味する、そして、Mellitusは甘いという意味だ。水を飲んでも飲んでもサイホンのように体内から甘い尿があふれ出てくる現象を現わす言葉で、糖尿病を現わす言葉でもある。略してDMだ。
透析室の別室で出される昼食を食べ終わってから透析センターの玄関を出た。そして、両手を一杯拡げて伸びをした。伸びをしながら空を見上げると晩秋の雲一つ無い青空が広がっていた。
(完)