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D・M  作者: 足立 和哉
12/14

12.ラグリフ

 クラルと取りとめのない軽口をたたきながら歩いている内に船越の頭に到着し、さらに白馬大池への下り道を進む。天気もよく快適な山歩きだ。しかし、所々凍り付いている道には、まだまだ油断が出来なかった。少なくとも雪道の続く白馬大池まではその注意が必要だ。その時、下の方から登ってくる若い女性の二人組がやってきた。私は彼女達を通すために登山道の脇に体を避けて山の挨拶「こんにちは」と声かけた。

「すみません。私達、アイゼンとか持ってきてないんですけど、これから先登っても大丈夫でしょうか?」二人の内、瞳の大きな方の女性が心配そうな顔をして私に尋ねてきた。確かに二人はスパッツを装着してはいるもののアイゼンを装着しておらず登山靴のままだった。

「確かに凍っているけれど、登りは何とかなると思うよ。下りは私もアイゼン無しで白馬岳から下りて来れたから、両手をしっかり使って安全確保しながら下りれば大丈夫かな。せっかく天気が良いのだから、自分達で戻れると思う所まで行ってはどうかな」とアドバイスをする。

聞けば前夜は白馬大池山荘で一泊して、今日は出来れば白馬岳山頂まで往復したいという。これから日も高くなり凍てついた登山道も溶けてきて歩きやすくなるだろう。私は「気をつけてね」と言って二人を送り出した。どうやらあの二人は、まともな人間らしい。

 その時、左腕の二の腕の下をギュッとつねる者がいた。「痛い」と言いながら振り返るとクラルが不機嫌そうな顔をして立っていた。どうも私が二人の若い女性と話していたのが気に食わないらしい。意外とクラルは嫉妬心が強いようだ。

「いいじゃないか。あれくらい」と言ったが、私は内心満更でも無い気分になっていた。

 それから、しばらく二人とも黙って下っていたが、突然、クラルが声をかけてきた。

「フーさん、白馬大池の真ん中辺りを見て。あ、ファインダーでね」

 この位置から白馬大池が良く見える。白馬大池の周囲は相変わらず雪で白くなっており、空の色を反映した池の青さが際立っていた。私は早速カメラのファインダーを覗いてみた。すると白馬大池の中央から多数の白いルコスが飛び出している様子が見えた。飛び出したルコスは池面を四方八方に向かって這うように移動していた。そして岸に上がるとどれもが私のいる方向に移動しようとしていた。

「なんだか沢山いるわね」今までになくクラルの表情が引き締まって見えた。

「確かにそうだね。でも昨日は池からあんなにルコスは出ていなかったが」

「昨日は、色々な山の神のしもべが池の周辺にいたからじゃないかしら。でも、今朝は予定していた人が未だ来ていないみたいね」クラルは少し不安そうな表情を浮かべた。

「君一人では荷が重いのかな」

「少数のルコスなら大丈夫なんだけど。私、こう見えてもか弱いのよ。じゃあ、フーさんは後からゆっくり来てね」そう言いながらクラルは私を残して今までに見せた事のないスピードでトレッキングポールの先端で周囲を突きながら登山道を下り始めた。

ファインダーを覗くと私の周囲にルコスはほとんど居なかった。私がこれから下りようとしている登山道にはクラルによって無数のルコスが入る穴が開けられていた。これである程度はルコスによる襲撃を防げるだろうと思った。

午前九時半近く、白馬大池をすぐ下に見る位置まで下りてきた時、後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。見れば頭に被った毛糸の帽子が赤紫色である以外は全身を白色の登山着でまとめた青年だった。黒っぽい登山靴と日焼けした顔の黒さが際立っていた。口から吐く息は白かったが、息は乱れていなかった。彼は私に軽く会釈をすると速度を緩めず私を追い越して下って行く。その青年の背中には白色のリュックサックがあり、そこには白い柄のピッケルが装着してあった。

 私はカメラのファインダーを再び覗いて見た。クラルの開けた穴の間隔は次第に疎らになっており、彼女自身は相当に疲れてきているようだった。現に白馬大池の縁の方でしゃがみこんで息をはあはあとさせているクラルの姿が見えた。穴の数が疎らになった分だけ、ルコスの数も増えてきていた。私は先ほどの青年の姿をファインダーで追った。クラルの元へ行き、何やら話しかけている。やはり、あの青年も彼らの仲間の一人だったのだ。どうやらクラルにかなり怒られている様子だ。その青年は何度もクラルに頭を下げている。

その青年はクラルに急き立てられるようにしてリュクサックを下ろし白い柄のピッケルを手に持つと白馬大池に向かって走り、そのまま池の中へとザブザブと突き進んで行った。そして、池の中へと完全に潜り込んでしまった。彼はどのような能力を持っているだろうかと、そのままファインダーを覗いていると大池の中央から盛んに飛び出していたルコスの数が次第に減って行き、やがてほとんど飛び出さなくなった。

 ルコスという物体は昨日からの彼らの説明によるとカボハイドという巨大な雲の塊りから千切れて生まれてくるはずだった。白馬大池の中にもカボハイドがいるのだろうか。

 私は更に登山道を下って、白馬大池の畔で座り込んでいるクラルの傍へ寄った。幸い周囲には誰もいなかった。私は遠くにいる登山者からは単純に白馬大池を眺めている登山者としか見られていないはずだ。

「ご苦労様。君にしてはすごく働いていたものね。疲れたろう。こういう時、本当の人間だったら甘い物でも上げるのだけどね」とクラルが起き上がれるよう手を差し出しながら声をかけた。

「かなり疲れたわ。でも、フーさんの気持ちが嬉しいわ」クラルは私の手を握りながら私の眼を見つめた。美形の彼女に見つめられると心の動揺が収まらなくなる私がいる。

「ところで、大池に飛び込んで行った青年は誰?」私はクラルが起き上がるのを手助けしながら、今一番気になっている事を聞いた。

「あ、あいつね。もう今日は寝坊したらしいわ。信じられない。ラグリフという名前の男よ」クラルの表情が急に険しくなる。

「もっと早く来ていれば、私は楽できたのに」と付け加える事も忘れない。

 ルコスの飛び出しが収まった頃にラグリフという青年が池から上がってきた。不思議な能力の一環だろうか彼の全身は濡れていなかった。彼は照れ臭そうに笑いながら私達のいる場所にやってきた。

「お初にお目にかかります。私はラグリフと言います。ちょっと寝坊したものでクラルには苦労をかけさせてしまいました」と高めの声色でラグリフは私に声をかけてきた。

「本当は先に白馬大池に着いていて、ルコスが出ないようにしてくれているはずだったのよね」傍でクラルがまだ文句を言いたそうであった。

「でも礼は言っておかないとね。ところで、池の中にもルコスの本体、カボハイドがいるのですか?君は昨日出逢ったクリボースと同じような働きをするのかな?」私はラグリフがどのような働きをするのかが気になった。

「クリボースの婆さんとは一緒にしないでほしいな」にやりとラグリフは不敵な笑みを浮かべた。

「地中に入ったルコスは、この山に生気を与える役割があります。それは誰かが話していたと思いますが。すべてのルコスはその穴に入る訳では無くて、余ったルコスは、この白馬大池の周辺から池の中に入って沈んで行き、さらに地下水に混ざり込んで、この山の外へと出て行くのです。しかしルコスは山にとって大切な栄養体でもあるので、ルコスを再び山の地表に戻そうという力が働くのです。さっき私が来る前に白馬大池の中央からルコスが噴き出して地表に戻っていたでしょう。池の中央にはルコスを吐き出すポンプがあるのです。私はそのルコス専用のポンプを止める能力があるのです」と言いながら、白い柄のピッケルを上に掲げた。恐らくその白いピッケルで何かの操作をするのだろう。

 これで特殊な能力を持った山の神のしもべ達に昨日から何人会っただろうか。ルコスがたくさん私に纏わりつくのが良くないのは分かった。しかし、ルコスがこれから先、私にどういう結果をもたらしていくのか、その辺りの問題が分からない。

「昨日から私に起きている現象は一体なんなのだろう?」私は率直にラグリフという青年に問いかけてみた。

 ラグリフはしばらく私を見つめながら考えているようだった。

「私からはその答えを言えないようです。私は若輩者ですから、もっと年配者から聞かれるのが良いでしょう」とラグリフもスーリンと同様に明解な回答を私にはくれそうにない。

「もちろん私も若輩者よ」すかさず横からクラルが口を挟んでくる。

「別に君から聞けるとは端から思ってないから」私は軽口をたたいたが、ともかく今回の山行きを終えた時に、その回答が私にもたらされるのだろう。登山口のあるれんげ温泉まで私はその質問を封じ込める事にした。

 白馬大池から栂池自然公園へ下るというラグリフとは別れ、私はクラルと共に再びれんげ温泉へ続く道を下り始めた。白馬大池から下る道には、しばらくまばらにザラメ状の雪が登山道に残っていた。しかし次第に雪は消えて晩秋の山の風情が現われる。登山道の周囲は葉を徐々に落とし始めた木々の森になり、下山すると共に季節が冬から秋へと逆に動いているかのような錯覚に陥る。

 クラルとは相変わらず軽口を言い合いながら楽しく登山道を下った。午前十時二十二分に“天狗の庭”に着く。昨日はここでスーリンに会ったが、今日はいないようだった。十人近い登山者が休憩をしており簡易コンロで熱いコーヒーを楽しんでいる高齢者グループもいた。いずれも普通の人間のようだった。クラルは私の横に座って私に色々と話しかけてきていたが、周囲にいる人の影響も考えて私は軽い会釈程度だけにして言葉には出さなかった。

 “天狗の庭”からは山頂が白くなった小蓮華山が遠くに見えている。ここまで下りてみると今日は随分と歩いてきたものだと改めて思う。しばらく休憩をとってから私達はれんげ温泉に向かって下山を再開した。このペースで下りるとれんげ温泉に着いた頃には早めの昼食をとる時間になっているだろう。


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