10.パルート
午後一時四十六分、白馬山荘の前に着いた。れんげ温泉の登山口から六時間六分が経過していた。白馬山荘は標高二八三二メートルの場所にあり、収容人数は八百人と日本でも最大級規模の山小屋である。
白馬山荘は一号館から三号館、それにレストランスカイプラザ白馬の建物があるが、十月中旬となり今季の閉鎖がまもない頃なので、三号館のみで営業が行われていた。その他の棟はすでに冬支度のため閉鎖され雪囲いがされている。さっそく一泊二食付の宿泊手続きをすると十号室に通される。八人が入れるように設定された部屋だった。既に何人かが荷物を置いてどこかへ行っていた。私は部屋の一番廊下側の場所をあてがわれた。それにしても随分と冷えた部屋だった。
荷物を整理してから談話室にむかうと、そこにはストーブがあり温かくなっていた。多くの人がそこで談笑したり暖を取っていたので、私もそこに設置してある自動販売機で缶ビールを買い、それを飲みながら疲れを癒した。さっきまで震えがくる程に体が冷えていたはずなのに冷たいビールが何故か美味い。目の前にあるストーブが「もう寒くはならないさ」という安心感を引き出しているのだろう。
体が落ち着いてきた所で外に出る。風はやや収まりつつあったが、寒さは一層増していた。午後二時半を過ぎた今、これ以上気温が上がるはずはない。一号館と三号館の間に登山道が貫いており、その中央を丁度、富山県と長野県の県境が通っている。その見えない境の上を何度も往復するという県境跨ぎの一人遊びしながら、周囲の風景を眺める。
山荘の前では白馬岳から連なる杓子岳や白馬鑓ケ岳が近くに見える。白く雪化粧をしたそれらの山塊は冬山の荒々しさを私に強烈にアピールしていた。遠くに目をやると台形状の富士山が見える。ここからも富士山が見えるのだと改めて感激させられる。富士山は独立峰のせいもあるが、標高が周囲の山々より飛びぬけて高いので、中部山岳地帯の名だたる山々の山頂から見える山だ。さらにガスが晴れてきたので立山連峰の剱岳から立山三山と呼ばれる雄山や大汝山が遠くにはっきりと見え始めていた。空はあくまでも青く澄み渡っている。私は何枚も山岳の写真を撮りまくった。
「ああ、なんていう気持ちの良い日なのだろうか」私は思わずそう叫ばずにはいられなかった。
私は近くにいた何人かの登山者達と情報交換しながら、時間を過ごしていたが、夕刻が近づくにつれて寒さが一段と増してきたので談話室へ戻って、夕食までの時間は暖を取って過ごす事にした。
暖房にあたりながら二本目の缶ビールに口を付けていた時、私は自分の右足が奇妙にかじかんでいるのに気が付いた。さらに痺れるような痛みさえある。凍傷にでもなったかと思いながら思い立ってカメラを取り出しファインダー越しに足元を覗いて見た。
「う」と思わず私は唸ってしまった。いつの間にか、たくさんのルコスが私の右足に絡み合い、かなり粘着力でへばり付いている状態になっていた。自分自身ではルコスを引き離す事はできない。よく見るとルコスは白馬山荘の入り口から続々と談話室に向かってきていた。ファインダーから目を離すと周りの登山客は何事も無いように、ある者達はうとうとと眠り、ある者達はかまびすしく話をしている。相変わらずルコスは私にしか見えていないようだ。
白馬岳の北稜線からのルコスのルートはキセナによって排除されたらしいのだが、杓子岳が連なる南稜線のルートが手つかずであったようだ。もうすぐ午後五時から始まる夕食の時間だったが、私は立ち上がり山荘の外に出た。風は穏やかになっていた。しかし夕闇がもうすぐ近づいてきており、遠くの剱岳付近には夕陽が反映していた。カメラのファインダーを覗くとルコスは思った通り杓子岳方向から続々と登山道を登ってきていた。「どうすれば良いのか?」こういう場合はいつも彼らが現われて私を助けてくれるのに今回ばかりは一向にその気配がない。
その時、白馬岳山頂手前で聞いたブーンという特徴のある双発のプロペラ機のエンジン音が聞こえてきた。夕刻の上空を見上げると白馬鑓ケ岳方向に向かって飛ぶプロペラ機があった。しかしキセナが乗っていた機体とは色が異なっていた。胴体は濃紺色、主翼はオレンジ色の双発機であった。それを見ている内に、何かが飛び出し、やがてパラシュートが開いて、私に向かって降下してきた。
目の前に降り立ったのは背の高い青年であった。彼は手早くパラシュートを片付けて、キセナがしたのと同じように、それを崖下に放り投げてしまった。
「なんとか食事前に間に合いましたね」その青年はゴーグルを外して日焼けした顔を見せた。
その顔を見て私はスーリンに似ていると思った。彫りの深いエキゾチックな顔立ちに顔の中央にある高い鷲鼻がスーリンの特徴を良く現わしていたからだ。
「君はスーリンとは血縁関係にあるのかな?」思わず私は聞いた。
「さすがですね。もうスーリンには何度も逢っているのでしたね。僕は彼の弟でパルートと言います。性格は僕の方がせっかちでしてね。仕事はさっさと終えて帰りますからね。朝飯前の仕事ではなくて、あなたにとって夕飯直前の仕事として片付けますよ」そう言ったかと思うとパルートは手にしていたトレッキングポールの先を近くの地表にやたら滅多らと打ち付け始めた。
その動作はこれまで出逢った山の神のしもべ達のどれよりも早かった。電光石火そのものと言って良かった。そしてポールの先には次々と穴が開き、瞬く間にルコスはそこへ吸い込まれて行った。確かに彼の仕事は早かった。
「終わりました」パルートはにっこりとほほ笑んで私に言った。
「もう間もなく食事の呼び出しですよ。早く夕食を食べてきてください」とも付け加えた。
「確かに君の仕事は早い。感心させられたよ。君がいつも傍に居てくれると助かるのにね」私は思わず本音を漏らした。
「残念ですが、僕は体力が長く持たないんですよね。そうそう今夜十時頃にクラルという僕の妹があなたの所へ行きます。彼女は明日にかけてずっとあなたの傍にいて守護する役割がありますから、追い払わないようにしてくださいよ」パルートはそう言うと立ち去ろうとした。
パルートという青年の妹であれば、年も若いはずだ。私は思わずパルートの背後から声をかけた。
「ちょっと待ってよ。いくら何でも若い女性と夜を一緒というのはまずいだろう」
「まだ分からないですか?僕達は実体の無い存在ですよ。あなたの目に映る僕達の姿は、あなたのこれまで見てきた物の中から組み合わされた思考の産物なんです。クラルがあなたに添い寝をしたとしても、それは実体の無い物、つまり空想の産物でしかないのです」
私が彼の言葉を理解できたかを確認もせずにパルートは駆け足で崖の端まで行くとキセナと同様に飛び降りてしまった。私が急いで崖の端まで行くと、夕闇迫る崖下の空間で小さくパラシュートの開く光景が見えた。