sector.1
「アキラさん……アキラさん……」
誰だ……眠いのに。
「流石に寝過ぎですよ」
甘く可憐で心地よい声と、ほのかに温かい何かが俺を揺らしている。
俺は不確かな意識の中で【神藤 暁】という名前を繰り返し少女の声で呼ぶ。それが大切な名前だということを思い出し、自分が布団の中で目覚めようとしていることに気付く。
「ん……き、桔梗さん。おはよう」
今だにはっきりしない無意識の中でそう言っていた。
「はい、おはようございます」
寝ぼけた俺も、この美人を視界に入れれば目が冴える。彼女は艶のある綺麗な髪はポニーテールに束ねられ、落ち着いた雰囲気を溢れさせている。身体のラインが丸分かりの黒いタートルネックに、クリーム色のチノパン。
本人は露出を抑えた恥ずかしくない格好だと思っているらしいが、その格好の方が余計に女性的な体型を見せて歩いている状態だということを自覚していない。
「朝……朝か……」
淑やかな顔つきに似合わない、大きな二つのものを揺らしながら起こすのはやめて欲しい。いや、嬉しいのだが別の場所が起きそうになる。
「朝……じゃないか!!」
俺を起こそうとした桔梗さんを優しく押し退けて飛び起きる。
「テツとの約束の日じゃないか!!」
枕元にあった置き時計は午前九時十分。約束の時間までは五十分、待ち合わせの場所に行くには三十分必要だ。
「二十分で支度すれば間に合う!」
「あの、朝ごはんは……」
「食べる!」
そりゃあもちろん食べますよ。この【神藤 桔梗】の作る料理ならね。味は一流で、しかも美人が作ればその価値は無限大に上昇する。
「桔梗さん……俺の着替え観たいんですか?」
いつまでも部屋に留まる桔梗さんをからかうつもりで言ってやった。
「――っ!?」
頭を爆発させ、真っ赤になりながら桔梗さんは瞬間移動。
「ふぅ……」
俺にはあの人だけ。
戸籍上は神藤家の人間だが、俺は誰とも血が繋がっていない。今の名前は大切な親友で、ちょっと好きだった子から貰った大切な名前。
俺はどこで生まれて、誰が親なのか知らない。色々あって神藤の家に迎えられたが、壁を作らず本当の家族のように扱ってくれたのは桔梗さんだけだった。
俺を直接迎えた人も気のいい人だが、やはり「他人」という壁をどこかに感じ、一人暮らしに至る。この方がお互い気を使わずに済むと思った矢先、彼女はこの家に訪れた。本能的に感じ取った彼女の優しさ、暖かさに甘えながら今を生きている。
(もう少しだけ、桔梗さんに甘えてたっていいんだよな…………)
今着ようとしている白い生地のTシャツ。背面には大きく赤いマントを纏うヒーローがプリントされ、白に金細工を施した騎士鎧が勇ましくこちらを見据えている。
特撮作品のヒーローだが、このTシャツは有名なイラストレーターが筆のようなタッチで力強く描いたものだ。正面はシンプルなデザインで、左胸部分にはそのヒーローのマークが存在感を主張している。まるでヨーロッパの貴族を思わせるエンブレム。
「うん、今日もカイザーファウストはカッコイイ……」
部屋を見回せば複数のヒーローグッズ(とちょっとの美少女グッズ)が並べられているが、この【カイザーファウスト】のグッズは特に数が多い。
ウットリ見惚れていると、下の方から心安らぐ声。
「アキラさーん!」
「はいはーい、今行きますよー!」
会話こそ敬語混じりだが、気心の知れた相手。最初に出会った時は姉と母親が同時にやって来た気分だった。
すっぽりとTシャツを被って、いつも背負っている黒いスカウトバッグを手に取る。階段を早足で降りると、居間の方から何かのテレビ番組の音が聞こえる。どうせこの時間ならニュース番組だろう。
一階は居間と桔梗さんが寝たり寝なかったりする寝室が主だ。それ以外は倉庫状態の部屋と風呂、トイレがある。
居間はなかなかに広く、十人で入っても窮屈さを感じない広さ。近くにキッチンや各種家電もあるし、この家の中心的場所だ。寝る時や趣味の時間以外はほとんどこの場所に居る。
居間の引き戸を開けるとソーセージの焼けた香り。その香りが俺の少し寝たままの意識を覚醒させた。
「今日は洋風か」
台所で雑に顔を洗い流し、畳の上に置かれた長方形の座卓の前であぐらをかく。正面では桔梗さんが俺の食べる様子を窺っている。
「それじゃあ、いただきます」
「はい、どうぞ召し上がれ」
朝からボリューム満点のメニュー。ソーセージに目玉焼き、ポテトサラダ。いい焼き加減のトーストもだ。
桔梗さんは目玉焼きに塩派なので予め塩が振ってある。一応醤油派だが、塩気さえあれば正直なんでもいい。
ポテトサラダをとりあえず一口。味付けが相変わらず素晴らしい。
「ごめんなテツ……メシが旨いのが悪いんだ……ゆっくり味わってから向かうぞ。多分間に合うから……」
トーストにバターを塗って、目玉焼きを箸で切って乗せる。それをかじっていると今日もあのニュースが流れていた。
「【魔法少女サキ】が再び【ギフト】の撃退に成功しました!!」
人気の若い女子アナウンサーが興奮した様子で語っている。大きなスクリーンに映し出されたVTRでは、ピンク色の可愛らしい衣装で着飾った少女が異形の怪物と優雅に戦っていた。
衣装と同じピンクの長いツインテールを揺らし、それを黒い細リボンで縛っている。「スターなんちゃら」とか唱えながら攻撃する様は正に魔法少女。
「最近また増えたなぁ」
「そうですねぇ、アキラさんも気をつけてください」
ちょっと前までは考えられなかった光景だ。魔法少女と言えばアニメの世界だけの話だったものが、今となっては現実世界で人々を守っている。
(なぜ変身ヒーローじゃないんだ)
こよなく愛する変身ヒーロー達が現実の世界で戦っていたらどれ程興奮したか。
引き続きテレビ画面を眺めていると、ちょっと不機嫌そうな声で話しかけられた。
「そのアナウンサーさん人気ですよね。アキラさんのお気に入りなんですか?」
「違いますって」
「じゃあ、魔法少女さん?」
「ギフトが気になってるんですよ。生物学者もウンウン唸って頭を抱えてる……どの生物のカテゴリーにも属さない奇妙な生物だって」
「ふふっ、アキラさんは一度気になると止まらないんですから」
「気にもなりますよ、必要に応じて姿形を変えながら移動する生物なんて。さっきまでは魚だったものが空を飛んでいる」
「でも、本当は魔法少女さんも気になっちゃったり?」
話を逸そうとしたが、彼女のほうが一枚上手だ。
「な、ぜ、か! 服が脱げるお人形さんがお好きですからねぇ」
「ち、ちがう……あれは……」
「うふふふ、男の子ですからしょうがないです」
桔梗さんはエロティックな本やお人形さんに以外にも寛大だ。
初めて見つかった時は心臓がねじ切れる思いだったが、「しょうがないですね」で終わってしまった。それをネタにからかってくるのは勘弁して欲しい。それでも、いざ実物を見つけてしまった桔梗さんの顔は面白いほどに赤くなるが。
「おっと、さすがにゆっくりしすぎた」
食べるペースを少し上げ、時計に目をやる。
「もう出ないと間に合わないな」
残った目玉焼きとソーセージをトーストに挟んで一気に食べる。それから牛乳を一息に飲んでしまう。
「ごちそうさま。そんでもって行ってきます桔梗さん」
「はい、お気をつけて」
美人に見送られて玄関を飛び出す。しっかりと戸締まりをしてから、ズボンのポケットに入れていた鍵を探り当て、安売りで買ったなんちゃってオフロード自転車のワイヤーロックを外した。
「九時三十五分か……」
限定モデルのカイザーファウスト腕時計(定価七万八千円)は、刻々と迫る待ち合わせ時間を示す。この時計を入手しようとした時は、真剣に腎臓を売る方法を考えた程に気に入っているのだ。
金が無いというわけではなかったが、それには使いたくない貯金だった。結局臨時収入で何とかなったので良しとする。
「よっしゃ、待ってろよー! テツ!!」
高い位置にあるサドルももう慣れ、むしろそのほうが力が入るので漕ぎやすい。体重をペダルに乗せるとグッとアスファルトを掴み、風を切った。
――そう、今思えばこの日の風は少し気味の悪い朝だったかもしれない。しかし、その事に気付いていた人間は誰一人居なかった。
俺は深く暗い部分に、また首を突っ込むとは知らずに。