「まだ何も、終わってなどいない」第一部【復讐者】(了)
余燼の燻るその一帯に、アステルは踏み入った。
外縁は、いまだ黒々と燃えている。
広大なゼルジー大森林の豊かな面影は、もはやどこにもない。
厄災の中心地たるこの場所は、あらゆる種類の災いを寄せ集めた、まさしく地獄だった。
何百という巌の刃の、残骸。
焦土と化した大地。
あらゆるモノを蚕食する蟲の死骸。
そしてそのすべてを裂き、抉り、喰い破るかのように猛り狂った、獣の牙と爪、その痕跡。
大森林は生命を根こそぎ奪われていた。
黒い鎧はその地獄を進んでいく。
超越魔物の魔力の残滓が絡みつく。この場にいるだけで身体は重く、心は疲弊していく。
それでも彼の鉄靴は歩みを止めない。
確かめなければならないことがあった。何としてでも、知らなければならないことがあった。
「アステル、ここは危険だ」
「そうだよ、コイツが言うようにこれ以上は危険すぎる」
追随するヴォルフラムとディアナが声をかける。その言葉が保身から発せられたのではないことを、彼は解っている。身勝手にも皇太子護衛の隊列から外れ、ひとり森に踏み込んだ彼を連れ戻すために、そして助けるために、ここまで来てくれたのだ。そう呼んで構わないのならば、ふたりは仲間だった。
感謝していた。このままふたりと一緒に帰った方がいいのかもしれない。今ならまだ、間に合うのかもしれない。踵を返し、オルマの首都に立ち返る。あの孤児院に身を落ち着け、あの子たちを見守りながら穏やかに暮らす方がアステルには合っているのかもしれない。時にはヴォルフラムに誘われクリムゾン・クローバーの仕事を手伝うこともあるだろう。冒険をし、共に修羅場をかいくぐり、帰還する。勝利を祝い、酒を酌み交わし、馬鹿みたいに笑い合う。そして家族の待つ孤児院に帰る。きっと幸せだ。
いま引き返すなら、あるいはそういう未来が待っているのかもしれない。
そう生きられるなら、どんなにいいか。
『パパ・・・』
あの子の最後の言葉が、姿が、
『熱いよ・・・』
忘れられない。
忘れることなどできない。
不意にアステルは動きを止めた。
「下がるんだ」
両腕がふたりの行く手を阻む。
だがアステルが制止するよりも早く、すでにふたりは歩みを止めていた。
まるで眼前に分厚い壁が聳えているかのような圧倒的な威圧感がふたりの動きを押しとどめていた。先ほどこの地で繰り広げられていた、化け物どもによる常軌を逸した激戦、その中でも最も獰猛で野蛮な殺気を放ち、極大魔法さえ吹き飛ばす咆号をもって大気を震わせた一匹の狼、その気配が濃く、重く彼等の四肢にのし掛かる。
「この先は、私一人で行く」
ミノタウロスの言葉に、「やめろ」とヴォルフラムは応える。
「この殺気を感じるだろアステル、これは俺たちとは別物だ」
「あの人狼は近衛隊とは比較にならない、アンタだってわかってるはずよ」
彼等の説得に、
「大丈夫だ」
アステルはふたりを安心させるために静かに、優しく呟き、振り返った。
その顔に浮かぶ彼の表情に、一瞬ヴォルフラムとディアナは言葉を失う。
憎悪も恐怖も、そこにはなかった。怒りや悲しみもみてとれない。ただ、儚かった。今にも消え入りそうな蠟燭の火、ふたりにそんな連想を抱かせるような、虚しい表情だった。
「本当に、大丈夫だ」
アステルは、笑った。
「すぐに戻ってくる」
歩き続けたアステルの眼に、一匹の獣の姿が浮かび上がってきた。
その人狼は肉叢に突き立った槍のようなモノに手をかけている最中だった。
腕から、背から、胸板からそれを引き抜き、乱暴に放り投げる。周囲は血の海だった。人狼の血も混じっているのだろが、そのほとんどは彼に挑んだ敵から流れ落ちた血潮だった。
放られた槍のようなモノが血に揺蕩う。鱗と外骨格が奇妙に混ざり合った、鋭利で荒々しい、それは蟲竜の尾節や触肢、鉤爪だった。
「せっかく愉しくなってきたところだったのによ」
全身の傷口から蒸気が噴き出す。一瞬で筋肉が生成され、獣皮がその上を覆う。
「興ざめだ」
身震いし、獣は返り血を弾き落とす。
輝く獣毛から、色が抜けていく。
黄金の魔力は粒子となって宙に溶ける。
くすんだ銀毛が、さざ波のように風に揺れる。
「すまない」意を決して、アステルはその背に声をかける。「少し、いいか」
「アア?」
人狼が振り返る。
瞬間、アステルの全身に力が入る。すでに臨戦態勢を解いているとはいえ、獣の圧威は十二分に過ぎるほどアステルの本能に牙を突き立てた。手甲の中で拳を握る。爛れた半顔の奥で歯を噛み締める。
だが、不思議なことに恐怖はなかった。まるで畏れを忘れてしまったかのように、アステルの胸中は不自然なほど凪いでいた。
「誰だオメェ」
獣の双眸がミノタウロスの巨躯を、次いでその背に担いだ極大の斧に向けられる。
「何だ、オレと戦りにでも来たのか?」
「いや」
「だろうな」つまらなそうに人狼は鼻を鳴らす。「テメェから殺意も敵意も、何一つ感じねぇ。オレはやる気のないやろうと殺し合う趣味はねぇんだよ、消えろ」
そう言って踵を返した獣の背に、
「待ってくれ」
アステルは頭を下げる。
「この場を去る前に、ひとつだけ教えてもらえないだろうか」
一泊の間を置き、彼はその女の異名を獣に告げた。
「獄炎の魔女は死んだのか」
懇願するかのように、
「貴公が、殺したのか」
アステルの声が、震えた。
獣は、そんなミノタウロスの姿を睨めた。
そして、牙を剥くように、口を開いた。
なぜ獣はアステルの問いに応えたのか。単なる気まぐれか、暇を持て余していたからか。あるいは魔獣狩りと呼ばれ畏れられる自分の前で一切の怯えを見せず、ただ真摯に対話を求めんとするその姿勢に、しかし同時に、その胸底に蠢く熱い情念の臭いが好ましかったからか。
「周りを見ろよ」
その促しに、アステルは獣の周辺に視線を向ける。
血に沈んだ竜の鱗を持つ蟲たち。
解体された、巨木のように太い胴体、そして生前ならば町さえ一呑みにしたであろう、ウロボロスの頭。
「オレが仕留めたのはコイツ等だけだ」不愉快そうに、獣は吐き捨てる。「他の奴等には逃げられた。ここまでやっておいて逃げるなんざ、オレには理解できねぇがな」
「そうか」
噛み締めるように、彼は絞り出す。
「生きて、いるのだな」
その瞬間、アステルの脳裏にあの男の言葉がよみがえった。
『この先ジュリアーヌを追えば』
蛇の眼を持つ、魔人の言葉。
『君は確実に死ぬ。確実にな』
自分と同じ復讐者の眸をした、ヘル・ペンタグラムの男の言葉。
「私は」不意に、アステルは口を開いた。「負けたんだ」
なぜそんな言葉を口走ったのかわからなかった。初めて会ったばかりの、常軌を逸した人狼にこんなことを漏らす必要などない。だが、アステルは続ける。続けてしまう。止まらない。私は負けた、と。敗北したと。娘を焼き殺した宿敵が眼前にいながら指一本触れることができず、阻まれ、手心を加えられ、生き残り、こんなところで無意味な繰り言を口にしている。誓ったのに。あの娘の亡骸に誓ったというのに。「私は、あの女に」
勝てないのかもしれない。
あの魔女を殺せないのかもしれない。
そう口走りかけた瞬間、
「くだらねぇな」
唸るように、
「なら、次勝てばいいだけの話だろ」
当然のことのように、獣は吐き捨てる。
その顔貌には、野蛮極まる不屈の面魂が浮かんでいた。
「負けたからどうした」
吼えるように。
「敗北したからどうした」
咆えるように。
「それが、どうした」
人狼は牙を剥く。
「オメェ、立ってるじゃねぇか。生きてるじゃねぇか」黄金の双眸が、熱く滾りたつ。「なら、まだ戦えるじゃねぇか」
その言葉はアステルに投げかけられたモノというよりは、まるで獣自身が胸中の闘志を再確認しているかのように発せられていた。
「二度と負けねぇ。次こそ殺す」
そして獣は、消えた。
残り香も、残像さえも残さぬほどの疾さで。
「貴公は、強いな」
アステルの投げかけた言葉に、
「あたりめぇだ」
傲然と嗤い、
「オレこそが最強だ」
その一言だけを残して。
あとには血と死骸と爪痕だけが残った。
「そうか」
アステルは先ほどまでの自分が、なぜ人狼に恐怖を感じていなかったのかを理解した。
死んでも構わないと思っていたのだ。
負けた。誓いを果たせなかった。だからもう終わってもいいと。眼前の獣に殺されてもいいと。いや、むしろそれを望んでいた節さえあったかもしれない。もう、楽になりたかったのかもしれない。
だが。
「立っている」
あの人狼の言うとおりだ。
「生きている」
ならば、戦える。
闘えるのだ。
「終わりではない」
アステルは力強く叫んだ。
慟哭ではない。
それはまるで獣のような、咆吼だった。
「まだ何も、終わってなどいない」
ミノタウロスの決意の咆吼が、ヴォルフラムの耳朶を震わせた。
「まだ、やる気なのか」
そう呟き、ヴォルフラムは舌打ちする。
この地獄を見て、あんな化け物どもの激闘を肌で感じて、それでもまだ諦めてはいないと、アステルの背は物語っている。
「勝てないよ」隣でディアナがやるせなさそうに呟く。「あんな超越魔物の集団にたったひとりで挑むなんて、自殺と変わらないよ」
「まったくだ」
同意し、ヴォルフラムは歯がみする。
アステルは仲間だ。出会った日数や一緒に過ごした時間はごく短い物だった。だがアステルはこの数日でヴォルフラムにとって、確かにかけがえのない仲間になっていた。できることなら助けてやりたい。共に戦ってやりたい。ディアナもきっと同じ想いだろう。だが無理だ。相手が悪すぎる。敵はブラックリストに名前が載るような怪物たちだ。自分では無理だ、クリムゾン・クローバーでは歯が立たない、いや、そもそもが人間や亜人にどうこうできる領域の話ではない。あんな怪物どもと戦えるのは、先ほどこの地を後にした、あの桁外れの人狼くらいのものだろう。化け物の相手をできるのは、同じ化け物だけなのだ。
「俺たちは、力になってやれない」
苛立たしげに、ヴォルフラムは術式剣を握りしめていた。 そんな彼を気遣うように、ディアナがヴォルフラムの腕に触れた。
いつもなら振り払う彼だが、今日だけはその優しさを受け入れた。
ふたりの間に静寂が降りる。
外縁で燃える黒焔が風にあおられ、火の粉となって視界を掠める。
次期に火の手はすべての森を焼き尽くし消えるだろう。
もはやこの地に用はない。撤退し、レオパルドとオーギュスタのふたりと合流しなければならない。彼等には心配をかけた。無事を知らせてやりたい。
「帰ろう。アステルを連れて」
ヴォルフラムの心中を読んだかのように、ディアナが言う。
「そうだな」
ヴォルフラムは頷く。
『化け物がいる』
不意に彼の脳裡に、数日前オーギュスタが口にした言葉が浮かび上がった。
『王国ギルドには化け物がいる』
皇太子護衛の仕事が持ち込まれたあの時、彼女はそう口にした。
なぜ今思い出したのか。戦いが終わり気が抜けたのか。オーギュスタという名前からの連想か。あるいは精霊使いに宿る直感なのか。
『話によれば、クシャルネディアを殺したのはそのルーキーらしいんです』
そう口走ったのはヨハンだったか。
ユリシール王国の第四区画について話し合っていた時だ。
オルマ多種族連盟に匹敵する規模を誇るユリシールの王国ギルド、その中でも隔絶した戦闘力を有する八人の十闘級、その内のひとりは超越魔物さえ殺す化け物だという。
単なる噂話だ。
ひとりでに尾ひれがつき、気がつけば途方もない規模にまで膨れ上がってしまった、根も葉もない風聞。
だが、もしそれが事実なのだとしたら。
無駄かもしれない。
そんなことをしたところで、意味などないのかもしれない。
「アステル」
だが、気がつけばヴォルフラムはその名を呼んでいた。
この距離からでは届かないだろう。だがヴォルフラムはそんなことは関係ないとでも言うように、ミノタウロスの背に、静かに問うた。
「俺たちと共に、ユリシール王国に行くか?」
第四話 ヘル・ペンタグラム編 第一部【復讐者】(了)




