エピローグ:前日『そして鼓動を取り戻す』
《地獄に堕つ五芒星と魔獣狩りがゼルジー大森林にて衝突する、前日》
そこは【獅子鷲の谷】と呼ばれる大峡谷だった。呼び名の通り、そこには獅子鷲の群れが棲みついている。危険指定魔獣に指定される凶暴な獣の、それも群れの棲処。ドーガ山脈向こうの【ザラムスズ湿地平原】を凌駕する攻略難度といわれ、オルマ多種族連盟はここを一級危険地帯に指定し、聖銀級を擁するパーティ以外の踏査を禁じている。
そのような危地に、男は平然と立っていた。
四方に聳える断巖は残照に赤く、薄暮の空を圧している。
岩と砂の無機質な世界は、静寂に沈んでいた。
不意に一陣の風が吹き抜けた。
男を包む異形の外套が激しく揺れた。本来聖職者が身に纏うであろうその祭服は、しかし血と屍臭に染まり、聖者とは程遠い、邪悪な徴標を帯びていた。
ゆっくりと、男は振り返った。
昏れゆく荒野が広がっていた。
オルマ領の最東端に位置する獅子鷲の谷の先にあるのは【死の荒野】だけだ。そこから吹き込む風には瘴気が含まれるが、今吹き抜けた風にはそれだけではない、何か得たいの知れない凶兆が微かに、だが確実に含まれていた。男がなぜその気配を感じとれたのか、おそらくそこに合理的解釈を嵌め込む事は不可能だろう。血魔が血を嗅ぎとるように、月の狼が獲物を見つけ出すように、そこに理由は要らない。それは霊感であり、本能であり、絶対的な超感覚から導かれる必然的帰納なのだ。ゆえに彼は、その兆しを見逃さなかった。
「あまりイイ兆候じゃない、だが覚醒にはまだ遠い」男はしばし考え込み「さしずめ心臓でも取り戻したか。どうだ、当たってるか? なァ、神よ」
「一体、なんなの」
彼の問いかけに答えたのは神ではなく、人だった。
「何が、何が起きたっていうの」
その声は、懸命に慄えを抑えようとしていた。
男の前方に、四つの人影がたたずんでいた。人間がふたりと、獣人と鬼人がひとりずつ。全員が白銀の徽章を胸元にとめていた。彼等はオルマ多種族連盟の聖銀級だった。その中の、ひとりの女は、白銀の階級章の隣に月白の、王冠を象った徽章を並べていた。魔術協会が傑物と認めた魔術師にのみ贈る、それは神聖なる冠だった。オルマ国において二重最高等級を授かっているのはたったふたり。クリムゾン・クローバーの精霊使い、ヴォルフラム・レンギン、そして閃光の狩人の魔法剣士、カサンドラ・エルヒレービル。
「何が、とは?」
男は首を傾げる。
「これ、よ」カサンドラは周囲を見回し、怯えを隠した眼で男を睨む。「これは一体、なんなの、何をしたの」
「何も」
男はその惨状は自分とは何一つ無関係であるというように、あたかも身の潔白を証明するかのように両腕を広げ、
「ただ、おれに近づきすぎただけだ」
そう嗤った男の周辺は、いや谷間すべてが血に濡れ、死に塗れていた。
散らばる屍骸はグリフィンの群れ。どれひとつとしてまともな死に様はなく、その光景はまさに屍山血河といった態であったが、しかし激戦の末にこの死体が積み重ねられたわけではない。
カサンドラの目の前で、すべてが鏖殺された。
閃光の狩人は緋翠石の納品を依頼され、獅子鷲の谷の攻略途中だった。特級稀少宝珠に分類されるその鉱石が採取できるのは峡谷の奥部に広がる鉱石地帯のみだった。彼等は細心の注意を払い谷間を進行していたが、一頭のグリフィンが侵入者を発見、威嚇の鳴き声とともに、数十もの魔獣の群れがラディアンスを包囲した。絶体絶命の状況の中、しかしラディアンスの面々は冷静だった。連盟最高峰のパーティである。そんな彼等を嫉視する者は数知れない。メンバー全員が貴顕の家柄、とりわけカサンドラは五大名家エルヒレービル家の血筋、実績に対する陰口をさんざん叩かれてきた。しかし彼等は間違いなく歴戦の猛者である。おそらく連盟でクリムゾン・クローバーに匹敵するのはラディアンスだけだ。
全員が武器を構えた。生き残るために。
だが彼等の決意は踏みにじられた。
その男の登場によって。
「悪いが、退いてくれないか?」
不安を掻き立てる声が、グリフィンの影から響いた。
その次の瞬間だった。
何が起きたのか理解できなかった。
瞬きする間にグリフィンの群れは死に絶えた。
血が噴き、肉が飛び散った。
死骸の中心に、その男が立っていた。一滴の返り血も浴びることなく。
異貌の男だった。ムカデのような縫い跡が皮膚を這っている。隠修士のような蓬髪が風に乱れている。そして白く濁った死者の双眸が妖しい光を湛えていた。
「こんなところに人間がいるとはちょうどイイ、聞きたい事がある」
男は緩やかな歩様でラディアンスに近づく。
カサンドラは剣を突き出す。他の面々も斧を、杖を、構える。
「そう警戒するなよ、お前らはおれに近づいても平気だ」男は彼等の前で立ち止まる。足元に転がる肉片を爪先で弄ぶ。「コイツ等は違うけどな。あらゆる【魔】はおれの魔力装甲に触れただけで朽ち果てる。対抗できるのは超越魔物くらいだ」ところで、と男は一拍間を置き「塔はどこにある?」
「塔・・・?」カサンドラはもはや震えを隠すことなく、怯えた声で問い返す。男から溢れ出ている気配はあまりにも異質で、あまりにも忌まわしく、あまりにも邪悪だった。だが、何よりカサンドラの心を掻き乱したのは、その邪悪さの内奥に彼女を包み込むような温かさが潜んでいることだった。神の魔力だけが宿す、それは神聖さだった。
光と闇。聖と邪。相反する二つが混淆する混沌。
その不均衡さが男をよりいっそう不気味に見せていた。
「そう、塔だ。方角だけでいい、教えてくれ」
オルマ領にて塔と呼ばれる場所はただひとつ、特級禁足地【古塔遺跡群】。ブラックリストに名を連ねる死霊魔導師の牙城。
「南・・・」カサンドラは指を指す。絶壁に阻まれているが、その指先は確かに古塔を示している。「ここから南方、ドーガ山脈を越えた先に、古塔はある」
「そうか」男はカサンドラに嗤いかけ「礼のかわりといっちゃなんだが、イイ物を見せてやる。見逃すなよ」
刹那、玲瓏な音が静寂を裂いた。
音源は男の腰元だった。
男の手が二本の剣の柄に置かれていた。カサンドラはその剣から獰猛な気が立ち上るのを感じた。
「見えたか?」
「一体、何が」
「見えなかったか。そして気づいてない。お前も、後ろのお仲間も、そして岩さえも」白濁した男の眸に、残虐の念が滲んだ。「比類なき切れ味、さすがは【無羅獅鬼鷹】だ」
称賛し、男は狒狒ノ二刀一刃から手を離した。
羅狒魁のヤシャマル、その牙ト顎。
先ほどの玲瓏たる音色は、この刀を鞘に収めた音だった。
カサンドラの視界がずれる。ラディアンス全員の身体がずれる。ズレる、摺れる、どんどん擦れていく。血が噴き出す。腕が落ちる。臓物が足元を汚す。何が起きたのかわからない。わかる必要などない。すでにラディアンスは死んでいる。
彼等は解体され、肉塊となり、崩れ落ちた。
同時に。
四方の断巖が滑るように崩潰する。
その刃圏に存するすべてのモノが、断たれていた。
降り注ぐ巨岩、巌、砂礫。
立ち込める砂塵、風塵、戦塵。
たった数瞬の間に、瓦礫の山が出来上がる。
その頂点に、男は登る。
周囲一体を解体した二刀とは別に、あと三本、男は魔神の邪遺物を佩いていた。
四本の凶剣を操る超越者。
甦りし者。
そして、聖剣に選ばれし者。
穢れた大勇者。
ギグ・ザ・デッド。
「あの向こうか」南方を眺める。地平線にドーガ山脈が聳えている。「遠いな。まあイイか、おれは王らしいしな、臣下など待たせておけばイイ・・・いや、もしアレが鼓動を取り戻したんなら、案外時間は残されてないのかもな。黒竜が目覚めたら、今度こそ世界は滅びる。おれも死ぬだろうな」
そういって勇者は嗤う。口腔から覗く舌には、逆五芒星の痣が刻まれている。
ギグは不気味に嗤い続ける。
まるでそれこそを望んでいるとでもいうように。
「まァ、それまでせいぜい愉しむさ」
魂を貫かれるような衝撃に、その飛竜は思わず鎌首をもたげていた。
赤銅色の鱗に覆われた巨体が震える。濃霧のような瘴気を掻き乱すように、一対の翼が広げられる。血流が速い。肉が熱い。心臓が早鐘を打っている。得たいの知れぬ昂奮が全身を燃やしている。今しがたまで眠りについていたとは思えぬほど、熱狂的な感情に、彼は当惑する。
眼前は闇に閉ざされている。
この地には瘴気が充満している。あらゆる光を遮る、邪竜の瘴気が。
「なんなのだ、この胸騒ぎは」
心を静める為に呟いた一言に
「久しいな、カラミット」
冷厳たる声が応えた。
永らく呼ばれることのなかった自身の名の響きに、飛竜は硬直する。
その声の主が誰なのか、カラミットにはすぐにわかった。かつて仕えた守護竜の声を、忘れるわけがない。
「我が主、ミル・カムイ様」
カラミットは翼を畳み、跪き、頭を垂れる。
「お目覚めになられたのですね」
「先刻な」
「お身体の方は」
「案ずるな。恢復は完璧だ」
飛竜の前に、光輝く白影が佇んでいた。
透き通るような白い鱗。荘厳な光を放つ三本の竜角。頭頂から首筋にかけて広がる白金色の鬣。それらの特徴は間違いなく五統守護竜が一柱、白竜の外貌であったが、しかしカラミットの眼前に佇立するその竜の体型は、およそドラゴンとは似ても似つかぬ小柄なものだった。
白竜の体躯はまるで人、あるいは竜人に酷似していた。
「そのお姿」カラミットは臥したまま口を開く。「嘗ては厭うていたかと」
「今もだ、カラミット。この姿は、唾棄すべきものだ」白竜は忌々しげに、しかしどこか決意の漲る声で応える。「だがこの神の似姿こそが私の白き魔力をもっとも引き出せるのも、また事実。であるならば、受け入れねばなるまい。私はゾラペドラス様の盾にして矛。あの方の前に立ち塞がるすべてを滅殺する剣なのだ。私自身の好悪の念により力を出し惜しむなど、あってはならない」
厳然たる白竜の姿勢に、カラミットは胸を打たれたように、より深く、頭を垂れる。
ミル・カムイは恐縮する飛竜の額に手を当て、これまでの功績を讃えた。
三百年間、カラミットはたったひとりでこの地を護り続けてきたのだ。
「私は竜血族として、成すべき事をしたまでです」
「なるほど、確かにそうだ」ミル・カムイは頷き「私もそうだ。これから私は五統守護竜として、成すべき事を成す」
「一体、どのような」
「カラミット、貴公も先刻経験したはずだ。あの、魂を貫くが如き衝撃を」
「はい、確かに感じました。アレは、一体」
「喜べ」ミル・カムイの声が、わずかに震える。「ゾラペドラス様が、鼓動を取り戻された」
その言葉の意味を理解するよりも早く、カラミットの瞳から滂沱の涙が流れ落ちた。
言葉を成さない嗚咽が歓喜の咆哮にかわる。
鱗を逆立て、興奮に震えながら、カラミットは叫喚する。
「オオッ! ついに、ついに、黒竜様がッ!」
「そうだ。だが、完全なる覚醒には、今しばらくの刻を要する」ミル・カムイの全身から、光輝く神の魔力が立ち上る。そしてその聖性とは決して相容れぬ、獰猛な竜の殺意が、白竜の顔貌を染め上げてゆく。「カラミット、今現在の下界の状況を報告しろ」
白竜のその問いには様々な意味が含まれている。黒竜と守護竜が眠りについてからどれだけの刻が過ぎ去ったのか、人間、亜人、魔物の情勢、文明の盛衰、環境の変遷・・・多種多様な情報、その中でミル・カムイがもっとも求めている物がなんであるか、従者の、いや竜血の直感によりカラミットは瞬時に理解した。
「No.11の生存は、確認されておりません」
「確かか?」
「あくまで私が知りうる限りでは、ですが。しかしいくらイレブンといえど、黒竜様の呪いを受け、生きていられるかどうか」そこまで言って、カラミットは首を振る。自らの断定を下すかのような口調が、あまりにも軽率に思えたのだ。「下界の偵察は蟲たちが行っております。もしやすれば、彼等ならばもう少し詳しい情報を持っているかもしれません」
「蟲竜どもか」
「はい。獰乱の蟲騎士たちが動いております。通常であれば斥候蟲から定期詳報が届く時期なのですが、今回は何の音沙汰もありません。どうやら蟲たちの潜入している組織に不穏な動きがみられるため、その動向を警戒しているようです」
「組織とは?」
「地獄に堕つ五芒星です」
世界転覆を目論む異形の化け物集団。
圧倒的な力を有する超越魔物の勢力。
カラミットの説明を聞いたミル・カムイは納得したように頷く。
「なるほど、確かに危険な集団のようだな」
「もはや超越魔物は大戦時とは比べ物にならないほどの魔力を身に付けております。放っておけば、奴等は我々に牙を剥くでしょう」
「だろうな。ゾラペドラス様が復活される前に、露払いを済ませておくとするか」ミル・カムイの眸に、獰猛な光が宿る。「私自らが動く。カラミット、貴公にも働いてもらう。数百年もの間、この地に留まっていたのだ、久しぶりに暴れたいだろう?」
「存分に」
「それでこそ我が麾下だ」
ミル・カムイは瘴気の闇を睨む。まるでその先にある下界そのものを見透しているとでもいうように。
『殺す』
不意にざらついた声が、白竜の耳朶で甦る。
『次こそ、殺すぞ、ゾラペドラス』
その身には幾つもの致命傷を負い、壊滅的な呪いに侵されてなお黒竜に挑みかかった《鬼》の姿が、ミル・カムイの脳裡を掠める。
圧倒的な膂力、触れる物すべてを滅する赫刃、そしてあの閃光、黒竜様にこれほど永い眠りを強いた、竜殺しにのみ赦された、あの赤い炸裂。
それらを武器に、数多の同族を殺戮してきた赤い鬼神。
竜殺しの異名を持つ、最強の生体兵器。
「イレブン、貴様は死んだのか、あるいは」
ミル・カムイは虚空に問い掛け、
「いや、どちらでもよい」
首を振る。
イレブンの生死の確認など、無意味だ。
死んでいるのならそれでいい。ゾラペドラス様にとって最大の障害が排除されたのだから。そしてもし生きているのだとしても、奴を探し出す必要などない。ザルトニア砦で、サテルメージャの地で、そしてヌルドの森での最終決戦を経て、確信したことがある。奴の殺気を浴び、その魔力に触れ、まさに鬼神の如きその似姿の奥に、不撓不屈の殺意が座していることを知ったのである。宿命か、誓いか、あるいはそれこそが奴にとっての存在理由なのか。
たとえ何があろうと、イレブンは我等の前に現れる。
ゾラペドラス様を殺す為に。
そう。
「必ず、な」
「いかがなさいましたか、ミル・カムイ様」
「なに、自らの使命を今一度確認しただけだ」
黒竜様の、盾にして矛。
あらゆる脅威から御身を護り、あらゆる敵を討滅する。
あの時、そう決めたのだ。黒竜様への忠誠を誓った、あの日。
『自由だ』光彩陸離たる闇を背負った一匹の竜は、そう言った。我々は神の奴隷ではない、魔神の家畜ではない、竜だ、ドラゴンだ、我等は自由だ、必ずその軛を撃ち破り、その鎖を引き千切る、だから『この手を取れ』と。
魂の内奥から溢れでる狂信にその身を包み、ミル・カムイは凄絶に牙を剥く。
人であろうと、魔であろうと、そして鬼神であろうと。
「何人にも邪魔はさせない」ミル・カムイは裁きを下すかのように宣言する。「あの方の敵はすべて殺す。まずは見えている敵から潰すとしよう。ヘル・ペンタグラムからな」
薄闇の中で、男は首に触れた。
地を這う無数の蛇を思わせる、禍々しい呪印。
その表面をゆっくりと擦る。
のたくる蛇の刻印が脈打った。
微かに、だが確実に。
鼓動したのだ。
凶々しい緋を湛えた双眸が闇の中に浮かぶ。
その視線は夜の迫る空に向けられた。
雲の切れ間に訪れた月輪が、乱雑な灰色の髪を、次いで右腕に刻印された数字を照らし出す。
No.11。
「お前か」
ざらついた声が、ただ一言、宿敵の名を呼んだ。
「ゾラペドラス」




