終 不死身のケモノ
すべてを燼滅する黒い奔流が、ザラチェンコの前方を塗り潰す。
ジュリアーヌの魔法が発動する一瞬前、ザラチェンコはムンドゥスに自らを打たせ、極大魔法の範囲外へ一気に後退していた。
だというのに、凄まじい衝撃が襲いかかる。
巨刃を盾に、ザラチェンコは極大魔法の余波を遮る。
防ぎきれぬ熱に髪が焦げ、皮膚が焼け、鱗が燻る。
『屠ッタカ?』
ザラチェンコの側面からぬるりと大蛇が顔を出す。
ムンドゥスの問いに、しかし答えることなくザラチェンコは鋭く眼前を睨める。燃え盛る極大魔法は、間違いなく超越魔物を焼滅させるに足る超火力を秘めている。おそらく俺でさえ直撃すれば死ぬだろう、とザラチェンコは苦笑する。ただでさえ強力なジュリアーヌの術式に、禁術が二重掛けされているのだ。内包する熱量は通常の極大魔法など非にならない。その威力は指数関数的に増幅し、すべてを灼き尽くす、壊滅的な災厄を引き起こす。そんな魔法を喰らえば、間違いなく死ぬ。こんな焔に呑まれたのだとしたら、人狼といえど耐えられるはずが、生きていられるはずがない。
だが、とザラチェンコは思う。
奴はただの人狼ではない。
ただの獣ではない。
三千世界にその名が轟く、桁外れの狼。
月の狼、長寿人狼、飛竜喰い。
そしてジュルグ帝国領では畏怖と尊崇を込めて、こう呼ばれる。
魔獣狩り、と。
「生きているんだろ?」業火の内奥の獣に、ザラチェンコは呼び掛ける。「なぁ、ガルドラク」
その声に応えるかのように、
焔から、何かが突き出る。
腕だ。
血に塗れた獣の腕。
「イイ魔法、持ってるじゃねぇか」
哄笑が響く。
強引に焔を押し退け、ガルドラクが現れる。
銀毛は焦げ、皮膚は爛れ、肉は灼き断たれている。
打ち鳴らす牙の隙間から黒煙が立ち上る。焔はガルドラクの獣皮を舐めただけでなく、その体内すら焼灼していた。
滴る血。
肉の焦げる臭い。
凄惨無比な獣の様躰。
だが、ガルドラクは嗤っている。
まるでこれこそを待っていたとでもいうように。この血が、この傷こそが闘いなのだと、この痛みこそが常軌を逸した獣の戮し合いを規定する上でもっとも重要な要因であり、それを欠いてしまえばもはや闘いは血の聖性を失い下劣な暴力へと成り下がる、だからこそ流血が必要なのだと、凄絶な死闘が必要なのだと、獣の顔貌に浮かぶ面魂が告げている。
そして、それが起こる。
ガルドラクの全身、その血が、肉が、骨が・・・蠢く。
ザラチェンコはその光景を見たことがある。
三月前、血の女王と対峙した時に、これと同じものを目撃している。
だからこそザラチェンコは、信じられないというように呟く。
「おいおい、冗談だろ?」
「なるほど、どうりで」ジュリアーヌは得心いったというように頷き、剃刀のような眼をさらに細めた。「アタシの超凶星をあれだけ喰らって無傷でいられるはずがないと思ってたけど、これで説明がつく。無傷じゃなかった。ただ、治癒していたんだ、一瞬で」
焦土に立つ獣の躯、その表皮が蠕動し、血が沸き立ち、骨肉が絡まる。
爆発的に生成された筋肉は膨大な熱を孕んでいる。
ガルドラクの全身から蒸気が立ち上る。
噴煙の中で、銀毛が獰猛なまでに耀く。
完璧な再生力、完璧な獣。
ガルドラクは自らの躯体を眺め、煩わしげに鼻を鳴らす。まるで面倒な、不要な能力を手に入れてしまったとでもいうように。
『覚醒の獣血』
殺意を湛えた低い声が、カ・アンクの口から漏れる。
『あの桁外れの恢復速度、間違いない、あれは』
「超速再生」ジュリアーヌが引き継ぐようにいい放つ。「まさか魔獣狩りが先祖返りしてるなんて、完全に予想外だわ」
『あり得ない話ではない。マーナガルムの始祖はヴァルコラキと同じ夜の種族だ。そして超速再生とは元来がナイトブリード、あの黒獣と呼ばれた豺狼どもの能力だ。その血を源流とする魔獣狩りが自身の内奥に眠る血の性質を発現させたとしても、何ら不思議ではない。だが、しかし』
三百年前の狼たちでさえ、とカ・アンクは思う。狼王ボロス率いる魔狼月牙隊、あの人狼どもでさえこれほど兇猛では、これほど規格外ではなかった。だというのに眼前の獣はボロスを越えるほどの戦闘力を持ち、血の覚醒まではたしている。もはや魔獣狩りは序列第二層に収まる存在ではない。下手をすればジンライネル様に匹敵するほどの・・・カ・アンクの依り代、その一部に切れ目が入り、一対の眼が現れる。依り代を介して眺めるのではなく、肉眼で捉えたかった。我々の前に立ちはだかるかもしれない獣の姿を。我々竜血族に牙を剥くかもしれない、狼の姿を。
『認識を改めろジュリアーヌ、奴は序列一層クラスの怪物だ』
「一層、ね」ジュリアーヌの顔から初めて笑みが消えた。「大勇者ギグ並みの化け物かよ、勘弁してほしいわ」
「マズい状況だな」
下方で声が上がり、宙に浮かぶジュリアーヌとカ・アンクに並ぶように、ザラチェンコが現れる。彼は鎌首をもたげたウロボロスの額に立っていた。
「このまま続ければ、俺たちのうち誰かが死ぬことになる。下手をすればもっと悪いかもな」ザラチェンコは氷のような表情で二人を順に見やる。「それでもガルドラクを処理できるなら無駄な犠牲ではないかもしれないが、しかしアレを殺せると保証できるか? あの肉体強度に超速再生まであわせ持ったガルドラクを、確実に殺しきれると、断言できるか? 分の悪い賭けだ。あいにく俺には殺さなければならない男がいてね、こんなところで無駄死にする気はない」
「アタシも死ぬ気なんか欠片もないわ」ジュリアーヌは肩をすくめる。「もともと魔獣狩りは聖都潰しのあとにヘル・ペンタグラム総出で始末する予定だったわけだし、こんなところで命を懸けて殺し合うなんて馬鹿げてる。退くわ」
「それが最善だな。だがひとつ問題がある」ザラチェンコの視界に映る人狼、その周囲が金色の燐光に、煌きはじめる。「俺は今ままで二度、ガルドラクから逃げ延びたことがある。しかしその二度とも、奴は本気じゃなかった。どこかに遊びがあった。だが、今回は違う。この殺気、この圧威・・・どうやら逃がしてくれそうにない」
ガルドラクの体毛が、黄金に染まっていく。
強烈な闘気が、すべてを圧する。
曙光さえ霞むほど眩い、一匹の獣が誕生する。
『金狼状態』忌まわしげにカ・アンクが呟く。『なるほど、ここからが本番というわけか。確かに、退却するのは骨だな』
彼等の五感が警告している。眼前の人狼に背を見せるのは、たとえ一瞬であろうと致命的すぎる、と。
「だとしても、退く以外に選択肢はない」
ジュリアーヌは懐から小壜を取り出し、一本をザラチェンコに放る。
「これは?」
ザラチェンコの問いに
「魔力増強剤」
答えると、ジュリアーヌは中身を呷る。
「なんだ、結局殺り合う気なのか」
「逃げられそうにないんなら、強引に隙を作り出すしかないでしょ?」壜を放り捨てたジュリアーヌは、さらに激成剤を噛み砕く。首筋の血管が浮き出す。魔力の内包量が限界を越えて高まる。「魔獣狩りが動きを止めざるを得ないほど、極大魔法をブチ込み続ける。アタシの魔力が枯れ果てるまで、殺し続ける。で、そのあとに逃げる」杖を肩に担ぎ、だるそうに髪を掻き上げる。逆五芒星の刺青の中央で猛禽の眸がギラつく。「ただ逃げるだけなんて不愉快だわ。せめて血反吐を吐かせてやりたい」
「なるほど」ククッ、とザラチェンコは嗤い「君のそういうところが、たまらなく好きだよジュリアーヌ」
ザラチェンコはアドネルドを一気に飲み干す。岩巨刃リスベットに膨大な魔力が収斂していく。
「悪いがムンドゥス、もう少し俺に付き合ってくれ」
『イイダロウ。ダガ気ヲツケル事ダザラチェンコ。勇猛サハ時二悲惨ナ死ヲ招ク。貴様ノ父母ノヨウニ』
「安心してくれ、俺は臆病者だ」
ジュリアーヌとザラチェンコから少し距離を取ったカ・アンクは、思考に沈潜する。ソルジャーやジェノサイドでは話にならない。エルダーですらあの人狼の前では虫けらも同然、たとえ極大召喚術を拡張領域展開し、今までの数倍の軍蟲を召喚したところで、鏖されるだけだ。質より量では奴に傷ひとつつけることはできない。逆でなければ。量より、質。最上位のレギオンを、いや・・・ナイトを使役しなければ。
(嗚呼、ジンライネル様)カ・アンクは祈るように胸中で言葉を絞り出す。(このような場に貴方の騎士団を召喚する私の不甲斐なさを、どうか御赦しください)
カ・アンクの背後の空間が、縦に裂ける。
おぞましい、異質な魔力が空間を漂っていく。
『出番だ』慇懃な響きを帯びた蟲王の声が、裂け目に向けられる。『【獰乱の蟲騎士】たちよ、しばしの間、余の麾下としてその刃を振るえ』
亀裂の向こうで凶暴剽悍な魔蟲たちが、いや、蟲竜たちが、一斉に眼を醒ます。
ガルドラクは再生した肉体を見る。
禍々しい傷痕が、亀裂のように走っている。左腕の傷痕もそのままだ。
超速再生をもってしても消し去ることのできぬその傷痕は、鬼神の赫刃、竜殺しの保有する絶対的火力を物語っている。
負けた。
ガルドラクの瞳から、闘気が滲む。
敗北。
獰猛な唸りが、喉を鳴らす。
このオレが、負けた。倒れた。敗北を喫した。
ガルドラクの胸中で兇暴な殺意が膨らみ、しかし獣の口から放たれたのは、咆哮のような嗤い声だ。
だから、どうした。
ガルドラクは月の魔力を解放する。
獣の体毛が、黄金にかわる。その耀きは暴戻、しかし同時に、神々しさすら漂わせる。
一敗地に塗れたからといって。
拳を握る。
それが、どうした。
オレは生きている。何も終わっちゃいない。オレは立っている。ここに存在している。なら、闘える。たとえ敵がなんであれ、必ずその喉笛を喰い千切る。
「次は負けねぇ」ガルドラクは牙を剥く。「次こそテメェを殺すぜ、鬼神」
まあイイ、とガルドラクは三体の超越魔物に向きなおる。
次に奴と殺り合うのは、当分先だ。そういう誓約だ。
「今はコイツ等だ」
イイ魔力が匂ってきやがる。残忍な殺気を放っていやがる。
全身の体毛が逆立つ。とりわけ頸部から背にかけて広がる鬣が、黄金の翼のように揺らめく。
ガルドラクの口角が、つり上がる。
周辺一帯、いや、数里先まで届くであろう、黄金の殺意が、空間を圧する。
先のことも、過去のことも、考える必要はない。
獣には今しかない。ガルドラクには現在しかない。未来に期待することも、過去に囚われることも、彼には無意味だ。自分がどこに生きているのかを、本能的にわかっている。だからこそ常軌を逸した殺戮に身を投じる。自身の魂の掟に忠実に従う。獣の掟、月の狼の掟。
敵を狩り、殺し、喰らう。
ガルドラクの視界からあらゆるものが消えていく。残るは焔、蟲、蛇。
純粋な闘争衝動。
魔獣狩りを駆り立てるのは、ただそれのみ。
「さぁ」
愉しそうに、ガルドラクは牙を打ち鳴らす。
「闘ろうぜ」




