17 混乱
『夜叉ノ長、猿ノ巨魁ヨ』
ジュリアーヌの口から異様な言葉が漏れる。
『我ヲ視ヨ、我ノ血ニ潜ム兇々シキ気ヲ視ヨ』
一言一言噛み締めるように、それでいて流れるように呪文が溢れだす。
(ほう、詠唱術か)
カ・アンクは興味深げに魔女を見た。
詠唱術とは魔語による超高位禁術、異端魔法に分類される。発せられる言葉ひとつひとつが魔力を帯び、単語の組み合わせ、発声の強弱によって術式を組み上げ、使用者の能力を増幅させていく。呪文の内容は様々であるが、そのすべてがかつて東西南北を支配した四大魔神に関係する文言であり、その詠唱自体が魔神信仰だと蔑まれ、セイリーネス及びその周辺諸国では眷属の詠唱と呼ばれ禁忌とされている。
(この文言、東方の魔神【羅狒魁のヤシャマル】に関係する呪文だな。殺戮の猿どもを信仰するとは、なんともこの女らしい)
カ・アンクが得心している間にも、ジュリアーヌの唇からは悍ましい呪文が紡がれていく。
『我ハ眷属、連ナル者。狒狒ノ御前ニ頭ヲ垂レ、蠱毒ノ奥ニ邪鬼ヲ戮シ、獣ノ成ニ血ヲ歃ル』
ジュリアーヌは杖をくるくると回し、不意に空の彼方を指し示す。
『羅闍ノ業、狒狒ノ腕、而シテ刃』
狂犬のように、いや狒狒のように魔女は牙を剥いた。
『無羅獅ノ牙、鬼鷹ノ顎・・・嗚呼、羅狒ノ夜叉丸ヨ、ドウカ我ニ、悪鬼羅刹ノ如キ力ヲ』
詠唱が了る。
ジュリアーヌの魔力が励起する。
大気が灼け焦げるほどの熱量が、杖の先端に収斂する。
『魔道具やドラッグだけでは飽きたらず、詠唱術によりさらに強化を重ね掛けするとは』カ・アンクは、ここまでくると認めざるを得ないというように、嗤った。『なるほどな、これが魔女か』
「そう、アタシは魔女」
ジュリアーヌの眸が払暁を睨む。
「アタシこそが獄炎の魔女よ」
彼女の視線の先、
真っ赤な朝陽のただ中に、
その獣が現れた。
「ハデにいくわ」
異形の杖が焔を纏い、
「呑まれて、炸ぜろ」
哄笑と共に、黒い閃光が、暁を裂いた。
極大魔法【凶新星】
東の空が炸裂した。
「さすがだな、ジュリアーヌ」ザラチェンコは称賛するように口元を歪めた。「途轍もない極大魔法だ。序列第三層最強の名は伊達ではないな」
ザラチェンコはアステルに視線を向ける。
空を睨むミノタウロスの爛れた顔は、黒い焔に照らされている。
「よく見ろ、君が殺そうとしている魔女を」
ザラチェンコも空を見上げる。恒星の爆裂を思わせる黒焔が、球状に膨れ上がっていた。何重にも強化の重ねられた極大魔法の火力、その凄まじい熱量に、副次的な熱波だけで森が燃え上がる。
「あれが獄炎の魔女だ」ザラチェンコは復讐者の横顔に語りかける。「彼女は間違いなく希代の魔術師だ。あの不遜なイビルヘイムをして、才能ではジュリアーヌに敵わないといわしめた怪傑だ。わかるか? 君の恋い焦がれるあの魔女は、とてつもなく強い。とてつもなくな」
その言葉に、アステルはゆっくりとザラチェンコの顔を見る。
魔人と牛頭の視線が交わる。
娘を灼き殺された気弱な男と、両親を斬殺された泣き虫の少年。
この時はじめて、ザラチェンコはひとりの復讐者として、アステルという復讐者と対峙した。
そしてザラチェンコは何を思ったのか。
だが、もはや二人には剣を交える時間も、言葉を交わす時間も無い。
瞬後、
爆音により、空で燃え盛る黒焔が吹き飛ばされた。
瓦解した極大魔法は無数の礫となって森林に降り注ぐ。
当然ふたりの立つ場所にも。
「いやしかし」黒焔が降り注ぐ寸前、魔人は届くはずのない人狼に向け、愉しそうに呟いた。「ジュリアーヌも怪物だが、やはり君はそれ以上の化け物だよ、ガルドラク」
そしてザラチェンコとアステルは焔に呑まれた。
「吼だけでアタシの極大魔法を相殺しやがって」
ジュリアーヌは黒焔の残滓と共に降り立った獣を見下ろした。
焔が絨毯爆撃のように降りそそいだ黒い爆心地。
業火の揺らめくただ中に、その獣が垣間見えた。
「相変わらずデタラメな狼だ」
「ヨオ、テメェか魔女。久しぶりじゃねぇか」
地を舐めていた焔が、掻き消えた。
身震い。
ただそれだけの動作で、獣は黒い業火を打ち払った。
『アレが魔獣狩りか』
カ・アンクは焦土に立つ人狼を睨めた。
鋼のような銀毛、強靭な肉叢、そして獰猛野蛮な狼の殺気。
そのすべてが噂通りの、そしてジュリアーヌやザラチェンコからの報告通り、いやそれ以上の圧威をもってカ・アンクの眼前に迫り来るようだった。
ただ、一点を除いて。
『おいジュリアーヌ』蟲の王は人狼の身体にのたくる禍々しい痕跡に眉をひそめた。『奴のあの残痕はなんだ。あんなモノは報告になかったはずだ』
人狼の肉叢の二ヶ所に、その痕跡が刻まれていた。
腹部から胸座にかけて広がる、裂傷痕。
左腕を取り巻く、破壊的な、壊滅的な爪痕。
およそどのような攻撃に曝されればそのような傷を負うことになるのか想像すらつかない、あまりにも禍々しい古傷。
「五十年前、アタシが闘った時にはあんな傷はなかった」
『ザラチェンコからの報告にも入っていない。ということは奴が撤退した後にあの傷を』そこでカ・アンクは言葉を切り、今一度人狼の身体を凝視した。ザラチェンコの報告を思い出す。レヴィアを殺した正体不明の何か。空が赤く染まり、街そのものが両断された。
蟲王はジュリアーヌに気取られぬほど静かに、だが驚愕を隠しきれぬというように、心中で呟いた。
(まさか、あの傷跡、奴かッ!)
カ・アンクは全面戦争後期、確かにアレと酷似した傷跡を目撃している。
サテルメージャの地で、確かに見ている。
『アンク、麾下を連れて消えろ。己の闘いだ』
しかし! と食い下がったカ・アンクの頚を捻り切るかの如く握り締め、殺意と狂信に燃える竜は、その蟲竜はカ・アンクを睨めた。
『いいか、己の闘いだ、奴は己の獲物だ、今イイところなんだ、邪魔するんじゃねぇ。それにいったはずだ、黒竜様の側を離れるなと』カ・アンクを放り投げると蒼き雷神と呼ばれたその蟲竜は眼前の敵に向き直った。その身は血塗れだった。その全身には禍々しい傷跡が走っていた。間違いなく蟲竜は死を覚悟し、それでも狂信に身を捧げ、愉しそうに嗤っていた。『悪かったなイレブン、だがもう邪魔をする奴はいねぇ。存分に殺し合おうぜ』
そこでカ・アンクは記憶を振り払う。
そして考える。
(もし仮に、奴が生きているとして、もし仮に魔獣狩りが奴と闘い生き残ったのだとしたら)
これはあくまでの仮定の話だ。
確証はない。誤っているかもしれない。
だが眼前の獣はジュリアーヌの極大魔法を咆哮だけで吹き飛ばし、身震いだけで黒焔を消し去った。
そして奴の身体から立ち上るこの殺気、この圧力。
この兇猛さは、彼の傅いた雷竜に酷似していた。
ゆえにカ・アンクの体内で殺意が渦巻いた。
『なるほど、あの人狼、危険すぎるな』




