15 精霊の槍
「マジで?」
ディアナは眼を見開いた。
「アンタさぁ、アレ嫌いじゃなかった?」
「ただでさえコイツが駄々こねてるってのに、俺までそんな我が儘いってられる状況じゃねぇだろ。この蟲の大群をどうにかするには、俺たちの最大火力をブチ込むしかない」
「ってことは、規模は当然」
「極大魔法だ」
その言葉にディアナは笑った。
「極大魔法でアレやるなんて、古塔以来じゃない? 腕が鳴るわ」
「せいぜい精霊王の戦士として恥ずかしくない仕事をしろ。何せお前が鍵だ」
「まかせといて」
「貴公等、これ以上私に付き合う必要は」
「うるせぇ」アステルの言葉を強引に遮り、ヴォルフラムは片膝をついた。意識を研ぎ澄まし、森全体に漂う精霊を集めはじめる。「俺は今集中してんだ、お前は自分でいった通り時間を稼げ。そしていいか、俺が合図したらとにかく死ぬ気で避けろ。そのあとは全力で走れ。安心しろ、向こうまでの道なら俺たちが作ってやる」
「ま、コイツは無愛想で性格悪くて金に汚い最悪の男だけど、実力は本物よ。だからさアステル、アンタはアタシ等信じて待ってりゃいいの」ディアナは短槍を腰に戻すと長槍一本を両手に持ち、闘争心剥き出しの顔貌で槍を構えた。「オルマ連盟最高等級、聖銀級の実力を見せてあげるわ」
二人の覚悟の深さに、アステルは口を開くことができなかった。
ただ、力強く頷くことで応えた。
襲い来る蟻の濁流に、極大の刃が斬り込んだ。
「無愛想で性格が悪いだと?」
壮絶なアステルの闘いを横目にヴォルフラムはディアナを睨む。
「あと金に汚い」ディアナがにやりとする。「それと最低の男。ぜんぶ本当のことでしょ?」
「随分といってくれるな」
「アンタっていっつも突っかかってくるよね。なに、もしかしてアタシに気があるわけ?」
「寝言は寝ていえ」
「しょうがない、生きて帰れたらデートくらいしてあげるわよ」
「お前のその長い耳は飾りなのか? いいか、寝言は、寝てから、いえ。聞こえてるなら復唱しろ。そして二度とそういうふざけた発言をしないと誓え」
「アンタってさぁ、ほんとに冗談通じないよね」ディアナは肩をすくめ蟲の激流を見据えた。残光が走るたびに蟻たちが断たれ、潰され、天高く噴き飛ぶ。暴虐の蟲軍の群れでさえ、極大の斧を前になすすべなく屠られる。「にしてもアステル、凄いね。一目見たときからただ者じゃないってのはわかってたけど、まさかこれほどだとは思わなかった。間違いなく実力は聖銀、どころか戦闘力はアタシやレオパルドより上かも。数日で金級に上がったってのもうなずけるよ。でも、蟲相手じゃ相性が悪い。アタシ等みたいな近接職は物量戦が苦手、タイマンなら得意だけどね」
「ああいう蟲は極大魔法でブチ殺すに限る」
「準備は?」
「完了だ」ヴォルフラムの言葉と共に、術式剣の纏う風が掻き消えた。いや、違う。刃を纏う風は音が発たないほどなめらかに、流麗に吹き続けている。まるで嵐の前の静けさだ。ヴォルフラムはディアナの構えた長槍に短剣を押し当て彼女の瞳を覗いた。
「で、お前の方は?」
「いつでもオーケー」
「そうか」ヴォルフラムは術式剣を強く握り、低く呟いた。「なら、魔法付与開始だ」
蟲軍の深奥にまで斬り込んでいたアステルの耳にさえ、その音は届いた。
一心にアステルを攻撃していた蟻たちが、わずかに動きを止めた。
蟲たちの喧囂が静まると、その轟音はなおいっそうミノタウロスの鼓膜を震わせた。
蟻の隙間に、血でべっとり染まった兜越しに、アステルはそれを見た。
嵐のような一本の槍を。
魔法付与とは武器に魔法を付与することを指す魔術師用語だ。主に魔法剣士が自身の武器を強化する為にもちいる魔術であり、見習い魔術師でも習得できる下位術式である。だがこれを他人に施す、つまり対象を取るとなると難易度が跳ね上がる。対象の魔力の性質、流れ、癖などにこちらの魔力を完璧に同調させ、対象の動きに合わせ魔法を操作しなければならない。まさに針に糸を通すような作業、しかもそれを戦場という不確定要素の塊ともいうべき場所で行う。
ましてそれが極大魔法ともなると。
そんなことができるのは天稟を持って生まれた魔術師だけだ。
そう、ヴォルフラムは天才だ。
「終わりだ」
ヴォルフラムは術式剣を下ろした。
長槍が暴風の槍と化していた。
「さっすが二重最高等級」
槍を握るディアナは険しい顔で笑った。
彼女の白銀の髪が乱れる。腕が震える。気を抜けば身体ごと持っていかれそうな風圧に、ディアナは歯を喰いしばり、右脚を地面にめり込ませ重心を固定する。左脚を引き、腰を落とし、槍を低く構える。
「いけるか」
横に立つヴォルフラムは強風に負けない大声を張り上げる。
「もうちょい精神統一させて」
ディアナはゆっくりと深呼吸すると槍を腰の後ろまで引いた。
その姿勢はゼルノ槍術で刺突の構えだった。
「あまり時間はねぇぞ。蟲どもは待っちゃくれないし俺もこの規模の極大魔法の維持は魔力消費がシャレにならねぇ。なによりお前の身体が持たねぇぞ。なんせ竜巻抱えてるようなもんだからな」
「わかってる。ほんの二三秒よ」
ディアナは呼吸を整え、気を研ぎ澄まし、獲物を睨んだ。蠢く蟲の壁。彼女の瞳に戦士の火が灯った。
「いける」
ディアナの四肢の筋肉が倍ほども膨れた。褐色の肌に血管が浮き上がる。槍を握る右腕に力が集中する。
眼をギラつかせ、ディアナは獰猛に呟いた。
「ブチかますよ」
ゼルノの戦士は槍を手足のように操り敵を屠る。彼等はとりわけ突きを得意とする。幼少の頃より研鑽を積み重ね、幾多の狩りや魔物との戦いにより磨かれた刺突の威力は想像を絶する。熟練の戦士の突きは岩を砕き、大樹を折る。部族にいた頃から秀でた技量をみせていたディアナの技は、冒険者生活の中でさらに磨かれ、とりわけ赤い羽根として死線をくぐり抜けてきたことにより、彼女の槍術はオルマ随一となった。
ディアナの刺突は岩を砕かない。樹を薙ぎもしない。力が分散しない。ただ一点のみに集中し、穴をあける。すべてを貫通する。
そのディアナの槍に、ヴォルフラムの極大魔法を乗せて撃ち出す。
古塔へ続く古代遺跡群での絶望的な戦いの中で編み出された、ふたりの有する最大火力。
圧倒的な貫通力と、甚大な竜巻の破壊力が融合し、その破壊力は何倍にも膨れ上がる。
あらゆるものを貫き、吹き飛ばす複合極大魔法。
【颶風の精霊槍】
「アステルッ!」ヴォルフラムは吼えた。「死ぬ気で避けろッ!」
神速で突き出されたディアナの腕が、爆風の槍を撃ち出した。
数千数万という蟲軍の中心を、一筋の風が吹き抜けた。
一瞬の静寂の後、
すべてが吹き飛んだ。
暴風の槍はレギオンを貫き、粉砕し、魔女の前で掻き消えた。
ジュリアーヌの頬から一筋の血が流れた。
「へぇ、一瞬とはいえアタシの魔力装甲を相殺して血を流させるなんて、亜人にしては見所があるわ。精霊使いが弾でダークエルフが射出機なわけね。大戦時の対竜魔導砲の原理を生身でやり遂げるなんて興味深い」ジュリアーヌは長い青ざめた舌で血を舐めとり、愉しそうに嗤った。蟲の大群はそのほとんどが竜巻に呑まれ粉々になっているか、天高く舞っているかのどちらかだ。彼女の残虐な眼が遠方のエルフを捉えた。「ま、なんにせよ、おもしろいものを見せてくれたお礼をしなきゃね」
彼女の頭上で異形の杖がくるくると回り、ピタリのふたりのエルフに狙いを定めた。
蟲の残骸の中からひとつの巨影が立ち上がった。
彼等を守るように、その巨影はジュリアーヌの視界に立ちはだかった。
彼女は眉をひそめ、その影を見つめた。
影の方も彼女を見つめていた。
竜を象った鎧を着ていた。
その背に極大の斧を背負っていた。
天を貫くように一本の角が聳えていた。
「ああ、アレが」ジュリアーヌは嗤った。「アタシが殺し損ねたっていうミノタウロスね」
アステルの心臓が早鐘を打つ。
全身の血流が激しさを増す。
筋肉が膨張する。
呼吸が速くなる。
あの女がいる。
彼の半身を焼いた化け物、聚落の仇、そしてミドナを焼き殺した魔女。
獄炎の魔女。
「存外、近くにいたのだな」
アステルは拳を握り締める。
彼の中から音が消えていく。風景が消えていく。蟲が消え、ヴォルフラムが消え、ディアナが消える。普段の彼なら真っ先に仲間の元に駆けつけているだろう。だが魔女を前に、その優しさすら消え失せた。あらゆるものが音をたてて崩れていく。敵も、味方も、世界さえも、あの魔女の前には価値がなかった。彼がいま感じているのは煮えたぎる憎悪と、半顔の逆五芒星を歪めて嗤う魔女の姿、そしてあの子の最後の記憶。
「ミドナ」
アステルは斧の柄に手をかけた。
「今日、君との約束を果たすよ」
まるでミドナが目の前にいるとでもいうように、彼は優しく囁いた。
アステルは力強く駆け出した。
閃光が空を裂いた。
アステルの兜が、横薙ぎの一閃に打たれた。
彼の巨体が揺らぐほどの、強烈な一撃。間髪いれずに二発、三発と連続する。
下段から放たれた四発目が眉庇を捉え、そのまま振り抜かれた剣がアステルの兜を吹き飛ばした。
「へぇ、気が利くじゃない」
ジュリアーヌの声に
「姫を護るのは騎士の務めだからなぁ」
愉しそうな嗤い声とともに、藍鉄色の鎧の男がアステルの前に立ちはだかった。
「騎士、ね」ジュリアーヌは嘲るように嗤う。「そんなこといって、混ざりたかっただけでしょ?」
「まあね。俺も少し遊びたくなった」
「ふーん。ま、なんでもいいけど、その姿はなんなの? アンタもう猟犬じゃないでしょ?」
「騎士は鎧を着るものだよ」男は両腕を広げ周囲に披露するかのようにその場で一回転した。「どうだ、なかなか様になっているだろう? 猟犬の鎧というのは蛮勇の騎士の姿を模したものだと知っていたか? 父上は蒼鎧に身を包み戦場で剣を振るった。だとすれば俺がこの鎧を着るのは、なかば必然だと思わないか? 前に着ていたものはヤコラルフでボロボロになってしまったが、俺には母上から受け継いだ魔力がある。石化魔法で再現してみたんだ。この光沢、この色合い、うまいものだろう? どこからどう見てもジュルグ帝国第八殲滅騎士団そのもの、そして蛮勇の騎士の息子に相応しい姿だ」そこで男は右手の刀剣を眺めた。罅が入り、今にも崩れそうだった。男は驚嘆したようにアステルに嗤いかけた。「しかし君のその鎧、凄まじい逸品だな。まさか数回打ち込んだだけでこの岩剣が刃こぼれするとは思わなかった。それに俺の斬撃を受けて一歩も退かないその躯体、亜人の肉体強度を遥かに凌駕している。いやはや、彼女を殺すためにそこまで己を高めたその執念、その殺意、そしてその憎悪、俺は好ましく思うよ」
「貴公は、なぜ」
圧し殺したアステルの声を
「なんでお前がこんなところにいやがる」
眼つきの悪いエルフが引き継いだ。
気がつけばヴォルフラムとディアナはアステルのすぐ近くにまで来ていた。
「ああ、君たちか」男は刃毀れした剣を放り捨て、称賛するように拍手した。「君たちの極大魔法、じつに見事だったよ。兵蟲とはいえこの数のレギオンを退けるとは、さすがは連盟の聖銀級、オルマに名高いクリムゾン・クローバーの一員だ。イビルヘイムも君たちを誉めていたよ。特にヴォルフラム、君をね」
「イビルヘイム、だと」ヴォルフラムは眼を見開き、蒼鎧の男を睨んだ。隣のディアナも息をのむ。混乱する思考をむりやり整理し、ヴォルフラムは吠える。「どういうことだ。お前は何者だ、ザーチャ」
「ああ、すまないザーチャは俺の真名じゃないんだ」
男の顔に亀裂が走り、岩の皮膚が剝落していく。唇を舐める舌が二又に裂ける。瞳孔が爬虫類のように縦に伸びる。
蛇の顔で男は告げた。
「ザラチェンコだ」手の甲に刻まれた逆五芒星をかざし、獲物を狙う蛇の眼で三人を睨めた。「地獄に堕つ五芒星のザラチェンコ・ホボロフスキーだ」
冷気のような魔力が周囲を覆いつくす。
「ねぇ、ちょっとヤバいんじゃない?」
「ヤバいなんてもんじゃねぇ」
ふたりは武器を構え、奥歯を噛み締めた。
凍てつく大地に放り出されたように身体が冷えていく。
震えが止まらない。
本能が逃げろと叫んでいる。
死霊魔導師を前にした時の絶望感をふたりは思い出す。
彼等は理解する。ヨハンの用心棒として現れ、この数日ともに旅をした男は人間ではなかった。だが、魔物でもない。ザラチェンコと名乗ったこの騎士は、超越魔物だ。
黒い焔を操る魔女。
甚大な数のレギオンを召喚した正体不明の蟲使い。
そして蛇の眼をした目の前の男。
かつてないほど絶望的な状況。
「クソがッ、やるしかなねぇ」
「わかってる。見逃してくれそうにないもんね」
ふたりは悪態をつき、覚悟を決める。
戦う覚悟を、そして死ぬ覚悟を。
「いいね」ザラチェンコは嬉しそうに肩を揺らす。「ヤコラルフで俺に剣を向けたツァギールやブロンテー・エッジによく似た眼だ。圧倒的な敵を前にして諦めないその心意気、俺は高く買うよ」
ザラチェンコが手を翳すと何もない空間から岩で出来たロングソードが現れた。その剣を掴み、重さを確かめるように振り回し、満足したように頷く。
「それじゃ遊ぼうか」
一歩を踏み出したザラチェンコは、しかしその脚を止めた。
ザラチェンコはアステルを見ていた。
蛇の瞳に警戒の色が浮かんだ。
「邪魔をするな」
それまで沈黙していたミノタウロスの喉から、獰猛な唸りが漏れでた。
アステルの全身から立ち上る殺意が空間を揺らがせた。
彼はゆっくりと顔を上げた。
その半分は憤怒に震える雄牛のものであり、もう半分は焼け爛れた怪物の顔だった。
「すぐそこに、魔女がいるんだ」
アステルの面貌から正気が消えていく。
狂憤が限界を迎える。
「あの女を殺すと、誓った」
巨竜纏いを鎧い、断竜斧を背負うミノタウロスは、獣のように歯を剥いた。その姿はまさしく、伝説に語られる戦神そのものだった。
「もう一度だけ、忠告する。邪魔を、するな」
彼を繋ぎ止めていた理性の鎖に亀裂が入る。
「そこを、退け」
アステルは、もう抑えられない。
「ルイソン近衛隊長!」
レオパルドは叫んだ。
「ここだ!」
皇太子殿下の車両の前方を走る一台の荷馬車から返事があがった。
軍服に身を包んだ人狼が直立不動の姿勢をとっていた。
レオパルドは跳躍し、荷台に転がり込んだ。
彼の背からオーギュスタが飛び降りる。
レオパルドは近衛隊長に敬礼した。
「皇太子殿下はご無事ですか」
「ああ、問題ない」
レオパルドに答え、ルイソンは警戒と自信の入り交じった視線を御料車へ向けた。皇太子殿下直属近衛騎士隊【狼隊】が御料車の警護をかためていた。御料車は四頭の一角馬に牽かれ風のように駆けていたが、さすがは人狼、楽々と並走し濃厚な殺気を放ちながら周囲を警戒していた。
「さすがは狼隊です。この警戒網、相手がなんであれ皇太子様に近づくのは容易ではない」
「我々は何があろうと殿下を御守りする。この命をかけて」
「私たちも命をかけるつもりです」
レオパルドの言葉にルイソンは頷き、不意に一抹の不安を滲ませた瞳で地平線を見つめた。そこには森が広がっていた。
「先ほどあの森から凄まじい轟音が鳴り響いた。何が起きたかわかるか」
「おそらくヴォルフラムの魔法です。それも規模からいってアレは」
「複合極大魔法」オーギュスタが呟いた。緊張したように表情が固かった。「ヴォルフラムさんとディアナさんが古塔で編みだした超規模殲滅魔法です。あの魔法を使わざるを得ない状況なんて、そうそうありません。いったいお二人は何と戦っているのでしょう・・・」
「そうか、彼等が殿か」ルイソンは頷く。「これだけ離れているというのに、あの森から魔力が立ち上っているのがわかる。敵はただの魔物ではないな。最低でも超危険指定魔物、あるいは」
ルイソンはそこで言葉をとどめた。
今現在も彼等の仲間は戦っている。
超越魔物という名を口に出すことは、ひどく不吉なことに思えた。その名を口にしてしまえば、ふたりのエルフ族はもう帰ってこないかもしれないと。それほどまでに超越魔物とは隔絶した存在なのだ。
そんなルイソンの気遣いを、しかしレオパルドははねのけた。
「大丈夫です」彼は断言する。「あの二人を、俺はよく知っています。これをいうとあいつ等は嫌がりますが、二人は俺の知る限り最高のチームです。この程度のことではくたばりません。必ず帰還し、皇太子殿下の護衛を勤めあげるでしょう」
「そう、ですね。そうですよね。ヴォルフラムさんもディアナちゃんも、きっとこの事態を切り抜けることができます。何があろうと帰ってきます」
レオパルドとオーギュスタの確信にみちた言葉にルイソンは微笑した。
「信じているんだな」
「仲間ですから」
レオパルドは当然のように答えた。
「君たちがそういうのなら私も信じよう」
この話はここで終わりだというようにルイソンはゆるんだ表情を引き締め、この先の展開について語る。
「なるほど、では我々は予定通りユリシール王国へ向かうのですね」
話を聞き終わるとレオパルドは背後の御料車を見やった。
「そうだ。引き返すことも考えたがあの状況ではあまりにも危険すぎた。ならばユリシール領へ逃げた方が安全だと我々は判断した。王都を目指すかどうかは安全を確保したあとにまた考えるとしよう」
「なるほど、最善ではありませんが他に選択肢はなさそうですね」
「そうだ。我々に選択肢はない。成すべきことを成すだけだ」
「わかりました。聖銀級の誇りに誓って私たちは皇太子様を護ってみせます」
三人は視線を交わし頷きあった。
その時だ。
レオパルドとルイソンの顔が強張った。
周囲に展開している人狼たちも威嚇の唸りを上げた。
「どうしました?」
不安そうな表情でオーギュスタがレオパルドの腕に触れる。
彼は森とは正反対の、彼方まで広がる草原を睨んだ。「オーギュスタ、索敵網に何か引っ掛かってないか」
レーダーとは探知魔法の一種だ。極限まで濃度を薄くした魔力を広範囲に散布し敵の位置を探る中位魔法【反響】。通常なら数秒で消え去る【反響】を維持し続けることで警戒網を作り出し、長期間の護衛任務などで重宝される上位魔法、それが【索敵網】だ。おもに後衛を得意とするオーギュスタは防御、回復、そして補助魔法に特化している。探知魔法はお手のものだ。
彼女は眼を瞑り意識を集中し、そして首を振る。
「特にこれといった気配は感じられません」
「そうか」
「レオパルドさん、それにルイソンさんも、一体どうしたのですか」
「臭いだ」レオパルドは本能を抑えられぬというように牙を剥き、鼻をひくつかせた。胸がざわつく。毛が逆立つ。背筋に悪寒が走る。異様な臭いがする。獣人の血を騒がせる、何かとてつもない臭いがする。オーギュスタが感知できていないところをみるに、かなり距離の離れたところから漂ってきているのだろう。獣人でなければ嗅ぎ取れないほどわずかな臭気、だが獣人ならけっして見逃すことのできない、圧倒的な気配。「なんなんだこれは、こんなもの、今まで嗅いだことがない」
「この臭い、近づいている」ルイソンが呟く。威嚇の唸りが喉から漏れる。「それも、凄まじい速度だ」
「この獣臭、これは」
レオパルドはルイソンを見る。
「わかっている。この臭い、嗅ぎ間違えるわけがない」
自身の体臭。同族が発する臭気。ルイソンは牙を鳴らすのを抑えられない。
「間違いなくこの臭いは、私の同族」
だが、その臭気が内包する性質は、彼等オルマの人狼とは、あまりにもかけ離れている。あまりにも隔たりがありすぎる。
その臭いは、あまりに獰猛。
あまりに兇悪。
あまりに野蛮。
そして
「この臭いは、間違いなく狼だ」
ただひたすらに、獣。




