14 仲間
森を貫いた焔に沿って、アステルは疾走した。
この焔の先にあの魔女がいる。
本能がそう告げている。
魔女の気配が近づけば近づくほど、アステルの意識は冷えていく。激情が、憤怒が、そして憎悪が胸底のさらに奥へと沈み、鉄のように凍りつく。魔女に出会えば我を忘れると思っていた。狂気に身を焼かれると思っていた。
だが、驚くほど何も感じない。私の魔女に対する憎悪とは、この程度だったのか?
それでもアステルは歩みを止めない。一直線に進み続ける。
彼は気づいていない。感情の無感覚が仮初めであることを。アステルの無意識は抑制せざるをえなかったのだ、彼の内奥で燻り続ける黒い焔を。なぜなら一度その焔に身をゆだねてしまえば、彼は獣になってしまう。憎悪の化身となってしまう。そしてこの感情の無感覚も、自身の力を引き出すために、彼の魂が辿り着いた答えなのかもしれない。
限界を超え抑圧された憎悪、それが解放された時、その激情は何倍にも膨れ上がるだろう。
『なんだ、生きてるじゃないか』
頭上から耳障りな声が聞こえ、アステルは足を止めた。
何千何万という羽蟲の群れが凝集し、蟻の形を作っていた。
『あれだけ派手な魔法を使っておいて殺し損ねるとは、あの魔女はやることなすこと適当すぎる。もう少し真面目にやってもらいたいもんだな』
「今、魔女といったな」アステルは耳ざとくその独白を聞きつけ、蟲を睨んだ。「貴公のいう魔女とは、どこにいる」
『一介の亜人が気安く余に話しかけるな』
「魔女はこの先か」
『余の言葉が理解できていないらしいな。ジュリアーヌの尻拭いなどする気はないが、礼儀をわきまえない下等種族を見逃すのも余の流儀に反する。殺すか見逃すか、悩ましいところだ』
「ジュリアーヌ」アステルは圧し殺したように呟いた。「やはりこの先にいるのだな。悪いが通してもらう」
『どこまでも無礼な奴だ。おい魔女、こいつ余がもらっていいか』
「好きにすれば?」
蟲の背後の森林から、嘲りを含んだ声が響いた。
アステルの心臓が跳ね上がった。
その声を、忘れたことはない。
一日たりとも。
「見つけたぞ、獄炎」
魔女の名を言い終わらぬうちに、アステルの前方で砂色の影が立ち上った。
殺意に血走った眼が捉えたのは、蟻の大群だ。どこから現れたのか、その蟲たちは堆い山となっていた。
「さっすが蟲の王、奴隷の量が桁違いね」
『蟲軍と呼べ』
二体の超越魔物の言葉を聞くと同時に、アステルは蟲の波に呑まれていた。
「何よアレ」
その異様な光景に、ディアナは眉をひそめた。遠方で不気味な影がせり出したかと思うと、次の瞬間には、それは蟲の津波となって森に襲いかかっていた。外骨格の赤黒い模様が幾何学的な動きで蠢く。蟲たちは完璧に統率が取れていた。まるで騎士団のように正確に、迷いなき動作で森を蚕食していく。
「あの蟲、どこから出てきたわけ」
「召喚だ」ヴォルフラムは舌打ちする。あんな規模の召喚術はいままで見たことがない。間違いなく極大魔法クラスの術式を使っている。魔女が行ったのか、はたまた他の何かが使ったのか。どちらにせよ
「マズい展開だ」
「らしいね」
「アステルの野郎、どこにいやがる」ヴォルフラムは周囲を見回す。彼を追って来たふたりだが、魔獣に属するミノタウロスの脚には追い付けず、ふたりはアステルを見失っていた。前方から蟻の大軍が迫っている。こんな所でぐずぐずしていては巻き込まれる。はやくアステルを見つけ出し連れ戻さねばならない。
「アステルはこの焔の跡に沿って走ってた。ってことは」
「まさか蟲に呑まれやがったか」
ふたりが最悪の事態を想起したその時、
蟻の大群の一部が噴水のように宙を舞った。
切断された手肢、粉々に砕けた外骨格が雨のように降り注ぐ。
空を裂くような音が響き、蟻どもが吹き飛ぶ。
蠢く蟲の隊列から、分厚い斧が現れた。
「アステル見つかったじゃん」ディアナがヴォルフラムを見る。「アンタの予想通り呑まれてたね。さっすが精霊使い、勘が鋭い」
「皮肉はやめろ」
ヴォルフラムが凶暴な眸で蟲軍を睨んだ。
ディアナは二本の槍を構え隣の精霊使いに問う。
「どうする?」
「どうするも何も」ヴォルフラムは精霊を身に纏い、静かに呟く。「やるしかないだろ」
一匹一匹に、たいした力はない。だがこれほどの数で、それも漠然と蝟集し闇雲に蠢いているわけではない、完璧に統率の取れた『軍団』として襲いかかる蟲の力は、凄まじかった。
五首の狂獄犬をさえ軽々と斬り飛ばしたアステルの巨体が、圧される。
鉄靴が地面にめり込む。濁流のような蟻の群れがアステルの鎧に喰らいつく。外骨格の擦れる音、耳障りな羽音、視界を埋め尽くす蟲の壁、そのすべてがアステルの怒りを駆り立てる。
「あの女がいるんだ」アステルの声が低く、重く、殺意をおびる。「邪魔を、するなッ!」
振り抜かれた断竜斧により、蟻たちが吹き飛ぶ。
怒りに歯を喰い縛り、彼は斧を振る。数百という単位で蟲を斬り、断ち、潰す。だというのに、蟲軍は減らない。むしろその量を増やしているようにさえ思える。
「なぜ邪魔をする」アステルの魂の奥底で燻る黒い火種が、静かに燃え広がりはじめる。「なぜ私の復讐の邪魔をする。何の理由があって貴様等は私の前に立ち塞がる。なぜだ、なんなんだ貴様等は、この蟲どもがッ」
アステルの口調が変化した。普段の彼ならば蟲にさえ丁寧に話しかけるだろう。だがアステルは悪罵を吼える。
彼の胸底で蠢く憎悪が噴き出しはじめる。狂憤が上がっていく。ミドナの笑顔が浮かぶ。あの子の匂いが鼻孔をくすぐる。柔らかな肌の感触が甦る。そしてそのすべてが一瞬で黒く塗り潰される。焼け焦げたあの子の姿だけが眼底で揺れている。
呑まれる。このままでは、憎悪に呑まれる。
アステルは片手で頭を抑え、呻く。
見せたくない。あの姿をミドナに見せたくない。獣に成り果てた私の姿を、あの子に見せたくない。この蟲どもにも見せたくない。誰にも見せたくない。あの姿を見せるのは魔女にだけだ。獄炎の魔女を殺す時だけ、私は獣に成るのだ。憎悪の化身に成るのだ。だが、それ以外では、優しくありたい。あの子が大好きだった優しく穏やかな牛頭でいたい。満足に狩りもできず、戦士として戦うことすら恐れ、妻も娶れず、それでもゆるやかにミドナと暮らしていた頃の自分でありたい。誰も殺したくない、戦いたくない、呑まれたくない。だから
「退け」
アステルは膝を突き、懇願するように呟いた。
「頼む、退いてくれ・・・」
それでも蟲は止まらない。
蟻の激流が彼を押し潰そうと迫る。
アステルの狂噴が上がっていく。
魂が黒く燃える。
狂気が意識を染めていく。
アステルの箍が外れかける、その寸前、
吹き荒れた突風が蟲たちを吹き飛ばした。
「何とか間に合ったね」
アステルの頭上を人影が飛び越え、褐色の亜人が彼の前に着地した。
「全力で走りやがって。息が切れるだろうが」
背後で男が不機嫌そうに吐き捨てた。
「あの程度で息が上がるなんて、なまってんじゃないの?」
「戦士のお前と一緒にするな。筋肉バカが」男はアステルの隣に立ち、彼の肩当てを短剣で叩いた。「お前、こんな所で座り込んでるんじゃねぇよ。さっさと立って俺たちを手伝え」
「ヴォルフラム、ディアナ」アステルはふたりの耳長族を見つめ、静かに呟いた。「なぜ、ここにいる。逃げろと忠告したはずだ」
「アンタは連盟に入って日が浅いから知らないかもしれないけどさ、連盟の冒険者って絶対に同胞を見捨てないのよね」
ディアナはにやっと笑うと二本の槍を抜き放ち、蟲の群れに飛び込んだ。
「あのバカのいう通りだ」ヴォルフラムは術式剣を構える。短刃で精霊が収斂し、風の刃が形成される。彼はアステルの腕を取る。「とりわけ聖銀級に身を置く連盟員の中に、仲間を見捨てて逃げ帰るような腰抜けはいない。わかったらさっさと立て。俺たちは何があろうとお前を連れ帰る」
「仲間、か」
アステルの狂気の勢いが、止まる。
「私は貴公等の仲間だろうか」
「当たり前だ」
「・・・そうか」
胸中の憎悪はその火勢を弱めていた。
彼は平静を取り戻した。
レギオンを相手に暴れまわるディアナ、その彼女が取りこぼした蟻たちが彼等に迫る。
ヴォルフラムは凶悪な精霊使いの名に相応しい獰猛な殺気を纏い、前方に飛び出した。術式剣の精霊が渦を巻き、剣自体が小さな竜巻のような姿になる。蟲ケラどもが、ヴォルフラムの言葉と共に短剣が振り抜かれる。
鎌鼬の嵐が吹き荒れた。
下位魔法【風切り】を連続発動し、一気に解き放つ広域殲滅型の中位魔法。
【風百刃の旋風】。
一瞬にして数百もの蟲が切り刻まれた。
「ヴォルフラム、危ないんだけど」
バラバラになった蟲の死骸を長槍で払い、ディアナがヴォルフラムを睨んだ。
「うるせぇ、お前に当たらないよう計算して撃ってるに決まってるだろ。それにアレくらいお前なら簡単に避けられるだろうが」
「まあね」彼女は槍先を濡らす蟲の血を振り払い、そのまま回転するように長槍で背後を薙いだ。同族の死骸を乗り越え彼女の首筋に迫っていた数十匹が切断された。降り注ぐ血を浴び、ディアナは雄々しい顔で笑った。「なんせアタシは精霊王に認められたゼルノの戦士。蟲にも、アンタの魔法にも遅れなんかとらない」
二本の槍から壮絶な乱舞が展開された。
突く、斬る、薙ぐ。
打つ、払う、殴る。
卓越した槍捌きから繰り出される斬打の嵐。野性の獣のようにしなやかなディアナの四肢と二槍が渾然一体となり、蟲を殺戮する。
そんな彼女の背をヴォルフラムが援護する。時にディアナの攻撃を補助し、時に彼女の隙を埋める。魔力の流れを読み、精霊の囁きに耳を傾け、後衛と前衛を目まぐるしく入れかわり、敵を屠るヴォルフラムの姿は、間違いなく遊撃手。ふたりは言葉を交わすこともなく、目配せひとつせず、完璧なコンビネーションを見せつける。これがオルマ多種族連盟の聖銀級。赤い羽根のふたりのエルフ族。ユリシール王国の十闘級とはまた違う、集団の、そして相棒としての強さ。
「キリないよヴォルフラム」
いつの間にか背中合わせに戦っていたヴォルフラムにディアナが毒づく。
「わかってる。いい加減デカい一撃浴びせて強引に隙を作らねぇと、逃げられそうにねぇ」
ヴォルフラムが魔力を練りながら後方に下がった時、群れの中から異質な蟻が現れた。周囲の蟻の五倍はあろうかという巨体にくわえ、刺々しい形状の外骨格、鋭さを増した大顎、凶々しいまでに肥大化した鎌脚。殺戮に特化した兵隊蟻の上位種、暴虐の魔蟲だ。無機質な複眼が、下がろうとするヴォルフラムを捉えた。
刹那、鎌が放たれた。
「クソッ」
凄まじいスピードだった。
明らかに他の蟻とは戦闘力が違う。違いすぎる。
連盟の評価表に照らし合わせれば、その危険度は7、いや8はあるか。
ディアナがヴォルフラムを守るために跳躍したが、間に合いそうにない。
極大魔法を発動するために精霊を集めている最中だった。精霊の堅風盾への魔力転換が遅れた。発動が間に合わない。
(受けきれるか)
短剣を構えヴォルフラムは舌打ちした。
閃光のような鎌がエルフの肌を捉えた。
空を断つ音と共に、鮮血が噴き出した。
巨大な鎌脚が地面で痙攣していた。
ヴォルフラムの眼前に極大の斧が突き立っていた。
その斧を異形の鎧の牛頭は軽々と引き抜いた。
彼は暴虐の魔蟲に向き合った。
「私はこれ以上、仲間を失いたくない」
振り下ろされた断竜斧が、狂暴な蟻を一撃のもと屠り去った。
弩級の鉄塊を肩に担ぐと、アステルは眼前を見据えた。群れの中から、さらに数匹のジェノサイド・レギオンが現れ始めた。
「私が時間を稼ぐ」アステルは闘志が充溢するのを感じた。思えば守るための戦いとは、これがはじめてかもしれない。復讐だけが彼を動かした。憎悪だけが原動力だった。もちろん、それは今も変わらない。だが自分のことを『仲間』と呼んでくれる者たちを、アステルはこれ以上巻き込みたくなかった。危険に晒したくなかった。何よりあの姿を見せたくなかった。拳を強く握り、アステルは静かに呟いた。「私の為にここまでしてくれて、本当に感謝している。もう少ししっかりと謝意を伝えたいが、どうもその余裕はないようだ。今度こそ、本当に逃げてくれ」
「お前が一緒に退くってんなら、俺たちは喜んでこんな地獄からおさらばするさ」
「そうね、もう当分蟲は見たくないわ」
「すまないが、それは出来ない」アステルは襲いくる蟻を薙ぎ払いながら口を開く。「この向こうに魔女がいる。三十年間、あの女を殺すことだけを糧に生きてきた。それだけが私の目的だった。その相手が、今日、ついに見つかったんだ。私は退けない。今退いてしまったら、きっと私はあの世でミドナに会えなくなる。聚落の皆に顔向けできない。何より私が私を赦せなくなる。絶対に赦さないだろう。だから、すまない」
「そりゃつまり、お前は魔女を殺すまでここをテコでも動かないってことか」
ヴォルフラムの問いに彼は沈黙で答えた。
「みたいね」
嘆息したようにディアナが肩をすくめる。
「まったく、わがままな野郎だ」
ヴォルフラムは苛立たしげに頭を掻く。
「つまり、お前はこの蟲の向こうに行きたいわけだ」ヴォルフラムは何かを決意したように横目で相棒を睨み「しかたねぇ。ディアナ、アレやるぞ」




