12 ジュリアーヌ・ゾゾルル
羽蟲の集合体が動きを止めた。
ふたりは平原の先に広がるゼルジー大森林の深奥で足を止めた。鬱蒼とした樹立ちの隙間から夜明け前の空がのぞいた。薄暗がりの中で蟲の羽音だけが鼓膜を震わせた。
『これだ』
「これか」ザラチェンコは森の一画に広がる光景を眺め、納得したように頷いた。「なるほど、それで俺を呼んだわけか」
『そうだ。ついでにもう一人呼んである』
蟲の王がそう言い終わらぬうちに
「アタシを呼び出すなんていい度胸してるじゃん、カ・アンク」
残酷な声が頭上で響いた。
ザラチェンコが視線を上げる。杖に腰かけた女が宙に浮いていた。
『来たか』
カ・アンクは女を見上げた。
「へぇ、珍しい男が一緒にいるわね」
女は愉しそうにザラチェンコを見やり、ゆっくりと下降した。
鳥のように優雅に、しかしどこか獣のように獰猛に、女は地面に降り立った。
彼女は杖を肩に凭せかけた。身長ほどもある、異形の魔法の杖だった。杖の中程から先にかけて、不気味な装飾品が縫い付けられていた。骨、毛皮、牙、爪、鎖、刃物、魔水晶・・・多種多様な魔道具、そのすべてが魔装飾、あるいは呪物に類するモノだった。魔術師において装飾品の数とは力の指標だ。おそらくこれほど大量の魔道具を身につけ、制御化に置くことのできる魔術師は、世界広しといえど彼女だけだろう。ほとんど箒といった様相を呈しているこの杖は、露悪的といっていいほどの力の誇示であり、彼女の内面を写す鏡だ。
紫色の乱雑な髪を掻き上げ、女はその顔貌を晒した。
美しい女だった。だが美貌の端々に良心の欠落を示す徴が表れていた。猛禽類のような眼、残虐さを宿した瞳、皮肉げに歪められた口元・・・そして右半顔に刻み込まれた逆五芒星。
獄炎の魔女。
ジュリアーヌ・ゾゾルル。
「これはこれは」ザラチェンコは驚いたように眼を見張った。「まさかこんなところで君にお目にかかれるとは思わなかった」
「久しぶりザラチェンコ」
「君はいつ見ても美しいね」
「事実を言われても嬉しくないわ」
「ククッ、なんともはや傲慢な発言だ。君を見ているとイビルヘイムを思い出すよ。やはり不遜さとは魔導師に共通する特徴のひとつなのか?」
「あの死霊とアタシを一緒にしないでくれる?」ジュリアーヌは不愉快そうに眉をひそめた。「確かに魔導を極めるためにアンデッドって答えに辿り着いた所までは同じだけど、アタシとアイツじゃ不老不死へのアプローチがまるで違うわ。イビルヘイムは肉体を棄て、魂だけで生き永らえることを選んだ臆病な転生者。アタシは違う、アタシは肉体を棄ててない。血肉を纏ったままアンデッドに転化した」
「同じようなものだろ?」
「全然違うわ」唐突にジュリアーヌは親指を噛み、ザラチェンコの眼前に右腕を晒した。白い肌には蒼い静脈が走り、その上を親指から滴る血が流れていく。「アタシには血が流れてる。肉と骨がある。痛みがある。快楽がある。感覚がある。アタシには身体があるの、そして魂もね。それってすごく重要なことじゃない? イビルヘイムは嫌いじゃないし、アイツの構築した魔術系統は称賛に値する。セイリーネスを潰して世界を牛耳るなんてイカれた考えも最高よ。だから地獄に堕つ五芒星に誘われた時は二つ返事で承諾したわ。けどね、肉体を棄てた、ただその一点のみでアタシがアイツを軽蔑する理由としては、十分に過ぎるわ。意思とは肉体に宿るべきものよ。魂と血肉、二つそろってこそ完璧なわけ。痛みのない戦いに価値なんてないし、殺しを実感できない殺戮に意味なんてない。イビルヘイムには獣の自覚が足りてない。超越魔物とは等しく獣であるべきよ」
「俺にわかるのは、君がイカれてるということだけだ」
「イカれてない魔女がいると思う? 狂気こそが獣を規定する重要な尺度なわけ」
「もっともらしい言葉を並べ立てているが、ようは殺しが好きなだけだろう?」
「まぁね」ジュリアーヌは上膊を伝う血を舐め取ると子供のように笑った。「狩りとは選ばれた者にのみ赦された遊戯よ。喰べるためでも身を守るためでもない。殺すためだけに、ただ戮す。純粋な野蛮さこそアタシたち超越者の本質じゃない?」
『いい加減黙れ』
耳障りな羽音を響かせながらカ・アンクが割り込んだ。
『余は貴様等に用があって呼んだんだ。いつまでもくだらない話をするのはやめろ』
「ああ、そういえばそうだったわね」ジュリアーヌは眼前を眺め嗤った。「これについて知りたいんでしょ?」
三人の前方には圧倒的な惨状が広がっていた。
樹は薙ぎ倒され、地面は割れ、そして夥しい数の蟲軍が散乱していた。裂かれ、喰い千切られた蟲の死骸から流れ出た緑色の血液が森を覆い、悪臭を放っている。
『この国の何ヵ所かでこれに酷似した補食痕が確認されている』カ・アンクは不愉快そうに羽音を強めた。『これをやった奴が誰だか、貴様等ならわかるはずだ』
「この爪痕、アイツしかいないでしょ、ね?」
ジュリアーヌがザラチェンコに同意を求めた。
ザラチェンコはそれには答えずに惨状を見つめ
「生きていたか、ガルドラク」
嬉しそうに嗤った。
ヴォルフラムは立ち上がると焚き火を離れ、薄闇を凝視した。
仄白い空を背景に、鬱蒼たる森が広がっていた。
「どうした?」
ヴォルフラムの横に並んだレオパルドが、警戒心を露にする。
四人は交代で見張りをしていた。焚き火ではディアナとオーギュスタが眠りについていた。
「森が静かすぎる」ヴォルフラムは森を睨みながら呟いた。
「静かすぎる?」
「ああいう人の手の入っていない森には精霊が多くいる。さっきまであの森の中では精霊たちがざわめいていた。それが急に止みやがった。精霊の沈黙ってのは嵐の前の静けさみたいなもんだ。嫌な予感がしやがる」
「お前の勘は当たるからな」
ヴォルフラムは煙草をくわえ、しかし火はつけずに森を見据え続けた。
「何も起こらなきゃいいがな」
「これが魔獣狩りの仕業なんて、見りゃあきらかじゃん」ジュリアーヌはかったるそうに首を傾げ、羽蟲の依り代を睨めた。「こんなくだらないことの為にアタシの貴重な時間を使わせるなんて、よほどアタシに会いたかったのか、それとも燃やされたいかのどっちかね」
『確かに予想はできる。だが余は奴とじかに接触したことがない。だから確証を得るために魔獣狩りとの戦闘経験がある貴様等を呼んだんだ。奴の生死の確認は重要だ。ヤコラルフの一件で余たちのガルドラク・ド・ガルガンジュに対する評価が誤っていたことがわかった。あの人狼は間違いなく地獄に堕つ五芒星にとって、セイリーネスに匹敵する脅威だ』
「確かにヤコラルフは俺たちに多くの課題を提示したな」ザラチェンコはくつくつと嗤う。「ガルドラクだけじゃない。死んだと思われていた女王の出現、そしてレヴィアを殺した正体不明の『何か』」
「なるほど、問題は山積みね。でも変更は無いんでしょ?」
『ああ、計画通り余たちはこれからセイリーネスを滅ぼす。魔獣狩りやクシャルネディアの処理はその後だ。ザラチェンコ、ジュリアーヌ、貴様等は下界で遊びすぎだ。じきに王が古塔に到着する。余と共に帰れ』
「さすがに王を待たせるわけにはいかないか」
「王ってさぁ、誰なわけ?」ジュリアーヌは首を傾げる。「地獄に堕つ五芒星の面子はだいたい知ってるけど、王にだけは会ったことないわ。アタシ等の頂点に立つに相応しい奴ならいいんだけど」
『安心しろ。奴はまさしく魔の王に相応しい男だ。謁見するのを愉しみにしていろ。・・・帰るぞ』
「その前にひとついいかな?」ザラチェンコが口を開いた。「森の向こうの夜営地に例の牛頭がいる。君の獲物だよジュリアーヌ。殺していったらどうだ?」
「あー、そういえばそんな話があったわね。正直興味ないんだよね」
「君が中途半端なことをするから復讐する者が現れる。殺すなら皆殺しにすべきだったんだ」
「それじゃつまらないじゃない。全員殺したらアタシの殺戮を誰が証明するっていうの? アタシのもたらした災禍の痕跡はどこにいってしまうわけ? いい、ザラチェンコ」ジュリアーヌは剃刀のような眸に悪辣な光をたたえ、ゆっくりと口を開く。「観客のいない演劇に意味なんてないし、読み手のいない書物に価値なんてない。アタシの鏖殺には観測者が必要なの、アタシが作り出した酸鼻を記憶する証人が絶対必要なの。そうすることでアタシの戮しは芸術とまではいかないまでも、ひとつの作品としてこの世界にとどまることができる。それが重要なのよ。世界に何を残せるか、世界に自らの爪痕をどれだけ刻めるか、アタシはその為に生きている。だからひとりだけ生き残らせる。そいつがアタシのもたらした凄絶な戮しの生き証人となり、獄炎の魔女の名を世界に轟かす。大役だと思わない? 感謝されこそすれ、復讐されるいわれはないわ」
「なんとも君らしい狂った理論だが、徹底的に殺し尽くさないから面倒事が起きる。君は後悔することになるぞ」ザラチェンコの瞳孔が縦に伸びた。人の皮の向こうから、復讐者の貌が現れた。「少なくともセイリーネスは、あの時俺を殺さなかったことを後悔することになる」
「アタシは絶対に後悔なんてしない。なぜってアタシは完璧だから」ジュリアーヌは愉快そうに眼を細め、ついで不気味に嗤った。「でもアンタがいうと説得力があるわね」
魔女は杖を宙空に放った。その細腕ではあり得ないほど見事な投擲は、浮遊魔法によるものだ。杖は踊るように回転する。魔道具の束がジャラジャラと音をならす。
「そのキャンプの方角は?」
「ここからちょうど西だ」
ふーん、とそっけなく鼻を鳴らすとジュリアーヌは浮遊する杖を西の方角へ向けた。
「それじゃあその牛頭には、灰になってもらおうかな」
瞬間、爆発的な魔力が杖の先端で渦巻き、
黒い焔が森を貫いた。




