11 復讐の記憶
一行は陽の沈んだゼルジー平原で野営をしていた。騎士団のテントがずらりと並び、篝火が燃え、警邏隊の持つ松明が夜闇の中で星のように瞬いていた。平原は穏やかな場所であり、危険な魔物は棲息していない。平原の向こうにはゼルジー大森林が鬱蒼と広がっているが、こちらもたいして危険な場所ではない。とはいえ皇太子殿下を擁する騎士団は最大限の警戒体制で護衛に臨んでいた。
赤い羽根とアステル、それにザーチャの六人は皇太子殿下のテント近くの焚き火を囲んでいた。
すでに首都バルシアを出発して数日が経過していた。明日の昼頃にはヌルド大河に到着するだろう。一行は川を渡り、アステルはひとり西の街道に舵を切るつもりだ。
「シュラメールに行くんだったな」
ヴォルフラムは焚き火越しにアステルを見た。黒い鎧が赤々と照らされていた。
「あの国に何の用があるんだ。あそこは魔術師でもなけりゃ面白いもんなんざ何もないぜ」
「人探しだ」アステルは静かに答えた。「ある人間を捜している。その人物の手がかりがシュラメール魔術王国にあるかもしれない。もっともその者が魔術王国にいたのは遥か昔らしく、手がかりなどないかもしれない。だが可能性があるなら、私は行くしかないんだ」
「人間?」
「女だ。私はその女にどうしても会わねばならない」
「その女は君にとってなんなんだ?」ザーチャが会話に割り込んだ。「『どうしても会わねばならない』と言うくらいだ、よほど入れ込んでいるみたいだが、何か理由があるのか? 必ずその女に会わなければならない理由が」
「ある」アステルは断言するように頷いた。
「夜は長いんだ、よければ君の身の上話を是非聞きたいね」
ザーチャの言葉にしばし沈黙したアステルだったが、やがて
「復讐だ」眼前で揺らめく燎火を見つめながら、彼はそう呟いた。「私の旅の目的は復讐なんだ」
瞬間、アステルから放たれた重々しい殺気に、焚き火を囲む面々は驚いた。この数日間で彼等がアステルに下した評価は『礼儀正しく優しい男』というものだった。話をしてみると、虫も殺せないような男にしか思えなかった。金級の階級章を持っている冒険者には思えなかった。なぜこんな異形の鎧を身に纏い、極大の斧を背負っているのかわからなかった。およそ冒険者や騎士からもっとも遠いところに立っている男だとしか思えなかった。だからこれほどまで重く、険しい殺気を放てるとは予想外だった。
「復讐か」ザーチャはにやりと嗤い、アステルを見た。「その女に何をされた」
「聚落を焼かれた。私の同族は皆死んだ」
その発言に全員が押し黙る。
アステルは遠い過去に思いを馳せるように焚き火を見つめる。
「私には娘がいた」彼の脳裡にあの子の笑顔が浮かんだ。アステルが狩りから戻ると、ミドナはいつも嬉しそうに抱きついてきた。アステルは抱き上げ、頬擦りをした。彼女の髪はいつも太陽の匂いがした。綺麗な花で編まれた王冠をくれた。川辺で拾った綺麗な石をプレゼントされた。好奇心旺盛で元気な女の子だった。いつも森を駆け回っていた。血の繋がりはなかった。種族も違った。だがミドナは、いやだからこそ彼女はアステルの娘だった。たったひとりの家族だった。
それなのに、想い出の中のミドナの笑顔は、霧がかったようにぼやけている。無邪気な笑い声も、怒った顔も泣き顔も、あの子の声さえおぼろ気になってしまった。
『パパ・・・熱いよ・・・』
ミドナの最期が、すべての想い出を上書きしてしまった。あの光景が頭から離れない。あの声が鼓膜に刻み込まれている。
アステルは感情を殺した声を絞り出した。
「あの子は私の目の前で生きたまま灼かれた。あの魔女は嗤いながらそれを見ていた。私は何も出来なかった。魔女に頭を踏みつけられ、視線を逸らすことさえできなかった。私はあの子の皮膚が溶け、肉が焼け、骨が焦げるそのすべてを見た。ミドナが死ぬと魔女は私の半身を灼き『怯えて生きろ』と嗤った。『これからの人生をアタシに怯えて生きろ』と。・・・どれだけ気を失っていたのかわからない、気づいたとき魔女は消えていた。私はあれが夢だったのかもしれないと思った。悪夢を見ていたのかもしれないと。だが右半身を襲った劇痛に、あの光景が現実なのだと突きつけられた。顔を上げるとそこは地獄だった。地獄だったんだ。あの子の死体はすぐにわかった。どれだけ変わり果てた姿になろうと、私にはミドナがすぐにわかる。私は墓を掘った。同族全員を埋め、嗚咽し、祈った。最後に私はミドナを埋葬した。焼け焦げていようと、どれだけ変わり果てていようと、ミドナは本当に愛らしかった。あの子を土に横たえながら私はミドナの死体に誓った、誓ったんだ。だから私は」
「もういいよ」
歯止めがきかないというように喋り続けるアステルを、ディアナが止めた。
「もういい、そんなこと話さなくていいんだ」
「いや、聞きたいね」ザーチャがディアナに反論した。「俺は是非続きが聞きたい」
「なんだって?」ディアナの眼が暗く沈んだ。「今何ていった?」
「聞こえなかったか? 俺は続きが聞きたいといったんだ。彼の話は非常に興味深い。本当は君たちも聞きたいんじゃないか?」
「おいザーチャ、アタシを怒らせるなよ」
「君を怒らせるとどうなるんだ? 彼の話も気になるが、そっちの方も是非知りたいね」
「なら身体に教えてやろうか」
「よせディアナ」
足元の槍に手を伸ばした彼女をレオパルドが制した。
ディアナは一瞬剣呑な眼でレオパルドを睨んだが、すぐに槍から手を離しため息をついた。
「わかったよレオパルド」
「仲間内で争ってどうする。すぐにキレるのはお前の悪い癖だ」レオパルドはディアナをたしなめ、次にザーチャに視線を注いだ。「君もだザーチャ。元騎士にしては、今の君の態度はいささか悪ふざけが過ぎるんじゃないか?」
「そういわれると耳が痛いな。確かにそうだ、悪かった」
ザーチャはディアナに嗤いかけ、次いでアステルを見た。
「君にも謝らなければならないな。悪かったよアステル。どうにも俺は好奇心が強すぎてね、つい度を超してしまうことがあるんだ。赦してくれ」
「いや、謝らなければなならないのは私の方だ。こんなことは話すべきではなかった。だがあの時の光景を思い出すと、歯止めがきかなくなる。どうしようもなくなるんだ。すまない」そう言うとアステルは立ち上がり夜闇に沈む草原へと足を踏み出す。「少し夜風にでもあたって頭を冷やしてくる」
「ひとつだけ聞かせてくれ」背を向けたアステルにザーチャが声をかけた。「最後にひとつだけ俺の質問に答えてほしい」
「なんだ」
「『あの子の死体に誓った』といったな。何を誓った?」
「殺すと誓った」振り返りアステルは決然と呟いた。兜から覗く眼光が燃え上がった。「必ず魔女を殺すと、そう誓った」
そう言い残し、アステルは草原の闇にたち消えた。
「なるほど、素敵な答えだ。復讐とはいいものだよな」ザーチャはくつくつと嗤った。燠火が灰白の肌を不気味に照らした。獲物を狙う爬虫類のような冷たい眼が、アステルの消えた辺りを睨めていた。ザーチャは立ち上がった。「もう少し君たちと語らいたいところだが、あいにく眠くてね、俺はこれで失礼するよ。ユリシール領に入れば君たちもおちおち気を抜けないだろう、眠れるうちに眠っておいた方がいいぞ」そう言ってザーチャは騎士団のテントの間に消えた。
「イヤな奴」ディアナは毒づく。「ヨハン副会長はなんであんな男を私兵として連れてるわけ? 理解できない」
「確かに、少し不気味な方ですね」オーギュスタが頷いた。
「不気味っていうか、気持ち悪いよアイツ。なんていうかさ、冷たいんだ」
「冷たい?」とレオパルド。
「あくまで感覚の問題なんだけどさ、アイツの近くにいると冷えるっていうか、鳥肌が立つっていうか・・・とにかく気持ち悪い。あの肌の色も死体みたいで血が通ってないように見えるし、気配も魔力も妙に湿ってるし、なんていうかデカい爬虫類が近くにいるみたいで落ちつかない。イライラしてくる」ディアナは首を振る。「自分でも何いってるかわかんないや。とにかく気持ち悪いんだ。人間を相手にしてるように思えない」
「女の勘か?」と呟くレオパルドに
「戦士としての勘よ」
彼女は答え、草原の彼方に立つアステルを見やった。
「アタシ、連れ戻してくる」
「ほっとけ」
ヴォルフラムが投げやりに言った。
「ひとりになりたい時もあるだろ、ましてあんな話をした後じゃ、特にな」吸殻を焚き火に捨て、新たな煙草に火をつけながらヴォルフラムはディアナ同様アステルを眺めた。その背は無骨で、孤独で、哀しみを背負っていた。ヴォルフラムは数日前の二人の会話を思い出しディアナを見た。「お前はアイツの聚落で何が起こったのか知ってる風だったな」
「別に詳しくは知ってるわけじゃない。ただ大渓谷で暮らしてた頃、南カラマゾ樹海の一画が焼失していくつかの牛頭の部族が死に絶えたって聞いたことがあるだけ。てっきり山火事かなにかが起きたんだとばかり思ってたけど、まさか魔女の仕業だったなんてね・・・」
「彼はシュラメールを目指しているんだったな」レオパルドははたと気づいたように三人を見た。
「シュラメールに関係していて、炎を扱う魔女といえば」そこでオーギュスタは思わず息を呑む。「そんな、まさか・・・じゃあアステルさんの故郷を焼き払い、娘さんを殺したというのは」
「獄炎の魔女」引き継ぐようにヴォルフラムが呟いた。その異名に全員が押し黙る。聖銀級に身を置く者ならば、一度は耳にしたことのある忌まわしい名。死霊魔導師イビルヘイムと双璧を成す、最悪にして至高の大魔法使い。ヴォルフラムは一気に煙草を灰に変え、濃い煙を吐き出しながら毒づくように独りごちた。「あの野郎、ブラックリストの化け物を追ってやがるのか」
※※※※※
少年は倒れ伏した父母を見下ろした。数日間放置されていた死体は鳥に啄まれ、獣に漁られ、散らばっていた。野盗にでも持ち去られたのか、騎士である少年の父親は鎧を剥ぎ取られていた。愛用の巨刃も見当たらなかった。少年の母親の死体には槍や剣が幾本も突き刺さっていた。その地方では魔物の死体が二度と甦らぬように剣で地面に縫いつける風習があった。つまり少年の母親は怪物だった。
今では考えられないが、少年にも弱い時代があった。力だけではなく、心まで弱い時代が。
天使から受けた拷問により少年はボロボロだった。
奴等は少年を殺さなかった。痛みを与え続けるのが罰なのだ。
少年は一瞬の隙をつき、逃げ出した。
走り、さ迷い、そして死に絶えた両親を発見した。
すでに涙は渇れ果てていた。だから彼は声だけで泣いた。
父の死骸にすがり、母の亡骸に身を寄せた。
『いつか、僕が殺します』
腐りかけたふたつの死体に挟まれた少年の瞳孔が、縦に伸びた。
少年を逃がすために、父母は光の騎士に立ち向かったのだ。
結局少年は天使に捕まってしまった。だが生きている。彼はまだ生きているのだ。
少年は両親の血肉の中で呟いた。
『僕が聖騎士アルトリウスを殺します』
※※※※※
ザーチャは眼を醒ました。空は薄く白みはじめていた。寄りかかっていた馬車から身を離す。彼はは立って寝る。けっして横にならない。壮絶な子供時代の癖が今も抜けないのだ。
「懐かしい夢をみたな」ザーチャは肩をすくめた。「ずいぶんと古い記憶だ。アステルの話を聞いたせいか。もう忘れたと思っていたんだがなぁ」
そこでザーチャは口元を歪めた。
「いや、忘れたことなどないか」
『オイオイ、独り言が五月蝿いぜ、ザラチェンコ』
不気味な声とともに、どこからともなく羽蟲の群れが現れ、彼の前で蟻とも蜂ともつかない巨大な蟲の形を成した。
「なんだ、どこにでも現れるなカ・アンク」
『余の蟲軍はどこにでもいる』
「そうだろうな。だが部下の躾が少しなっていないんじゃないか? この国の至るところで迷い蟻が目撃されている。配下の行動を御するのは王の務めだと思うがね」
『迷うとは避けられぬ淘汰だ。ああいう夾雑物を取り除いていくことで、オレの蟲軍は完璧に近づいていく』
「なるほど、進化の過程というわけだ。ところで今日はどうしたんだ? いつまでたっても帰らない俺にしびれを切らして迎えにでも来たのか?」
『それもある。だがその前に見てもらいたいものがある。貴様の意見を聞きたい』
「意見が聞きたい? いったい何が起きた」
『見りゃわかる。ついてこい』
異形の蟲の集合体が先導するように動き出した。
後を追うようにザラチェンコは歩き出した。




