8 獣
十日後、オルマ魔術協会図書館の受付カウンターの前にアステルは立っていた。
「どのようなご用件でしょうか」
受付嬢はにっこりと笑い彼を見上げた。先日アステルの対応をした、親切な受付嬢だった。
「この前と同じものを頼む」アステルはカウンターの上に階級章を置いた。外套釦ほどの大きさのそれは黄金に輝き、表面には連盟の紋章が彫金されていた。「この前貴女に教えてもらった通り、金級の階級章を持参した。これで地下三層を利用する資格を得られたと思うが、どうだろう」
「え?」受付嬢は一瞬怪訝な顔を浮かべ、すぐに笑顔を取り戻しアステルの置いた階級章を手に取った。日頃冒険者と接している彼女には、それが本物なのか偽物なのかすぐにわかる。彼女の手の中にある階級章はまちがいなく本物だった。「えっと、あの・・・これはどうやって手に入れたものですか?」
「オルマ多種族連盟本部で受け取ったものだが、何か問題があるだろうか」
「いや、あの、その・・・先日ここを訪れたとき、あなたはまだ連盟の冒険者ではなかったんですよね?」
「そうだ。貴女に教えてもらわなければ私はいまだこの街をさ迷っていたかもしれない。感謝する」
「ということはあなたは連盟に登録してたった数日で金級にまで昇格したということですか?」
「その通りだ」
「そんな」受付嬢は困惑した。金級とは連盟序列二位に位置づけられる階級、非凡な冒険者が研鑽を積み重ね、あらゆる修羅場をくぐりぬけて、それでも一握りの猛者しか到達することのできない高みだ。冒険者のほとんどが銅級にさえ上がれずに引退していく。それほどの階級を、目の前の男はわずか数日でものにしたという。信じろというほうが無理な話だが、この黄金の階級章は、まちがいなく本物だった。
「ど、どれだけの成果を上げればそんな短期間で金級に」
「成果、か」アステルは少し考え込み「西の平原に出没した石眼巨鳥の群れを屠り、その先にある湖に棲まう毒水蛇の番を狩猟した。どちらの魔物も南西商路を通る商隊に多大な被害をもたらしていたらしい」
「ひとりで、ですか?」
うなずくアステルに、受付嬢は息を呑んだ。
石眼巨鳥といえば危険度8に指定される怪鳥だ。強靭な肉体は硬い羽毛に覆われ、顔から喉にかけては蛇のような鱗に覆われている。性質は獰猛、そして貪欲。目についた生物を片端から石化魔法で捕らえ、石のまま貪り喰う。銀級以上の冒険者にのみ狩猟がゆるされるおそろしい魔物。
毒水蛇はさらに危険で、もっとも雄の方は比較的おとなしく危険度6と一枚落ちるが、雌の凶暴性は有名であり、身体も雄より一回りは大きく牙が持つ猛毒は雄とは比べ物にならないほど強力だ。交尾の際には相手を絞め殺し死骸を丸呑みしてしまうほど残酷であり、総じてヒュドラの雌は上級吸血鬼、黒鎧百足に次ぐ危険度8最上種に分類される。こちらは金級以上の冒険者に、ときには聖銀級が駆り出されることもある極悪な魔物。
一方は群れ、一方は番。間違いなく複数の金級をようするパーティでなければ受けられない仕事。それを目の前の男はたったひとりで成し遂げたという。
「念のためにあなたの階級と在籍を連盟本部に確認したいのですが、こちらの階級章をお預かりしてもよろしいですか?」
あまりにも異例の事態に受付嬢がそういうとアステルは素直に首肯した。
数刻後、アステルは地下三層にて一冊の書物を開いた。黒い革装の分厚い本だった。最重要一級危険存在と呼ばれる世界の敵について記録されたブラックリスト。
アステルの求める名は序列第三層の第一段目に記されていた。
シュラメール魔術王国最大の天才にして最悪の悲劇【獄炎の魔女】ジュリアーヌ・ゾゾルル
アステルはページを捲り魔女についての詳細な記録を貪るように読んだ。
生まれ故郷、生い立ち、人物像、能力評価・・・そして様々な虐殺の記録。
魔女の人生は文字通り血と殺戮によって埋め尽くされていた。記録によれば彼女のもっとも古い殺人は七歳の時、故郷の村民全67人の灼殺だといわれている。もちろんその中には彼女の両親、兄弟も含まれている。魔術王国はその事実を確認していたが彼女がまだ幼かったこと、また宮廷魔術師たちが七歳にして上位魔法を修得していたジュリアーヌ・ゾゾルルの圧倒的な才能を欲し、彼女は何の裁きを受けることもなく魔術の英才教育をほどこされることになった。ジュリアーヌは神童の名を欲しいままにした。十二歳で宮廷魔術師の仲間入りを果たした時には、二百を越える上位魔法、そして複数の極大魔法を修得していた。十五歳で一級宮廷魔術師に登り詰めた彼女は王国最高の魔術師を讃える称号【魔導師】を贈られ、彼女を知らぬ国民はいないほどであり、その名は聖都都市国家セイリーネスにまで轟いたほどであった。名誉と栄光、称賛と羨望の陰でジュリアーヌの本性はより凶悪に、残忍に悪化していった。新たな魔術を生み出すための人体実験や、愉しむためだけの殺戮を繰り返し、放蕩と背徳の限りを尽くした彼女の犠牲者は数千、数万といわれている。赤子から老者まで家畜のように殺され、流された血はそのすべてが魔導師の名のもとに不問とされた。いつしかジュリアーヌの名は魔導師ではなく魔神を信仰する黒魔術師の蔑称【魔女】と忌避されはじめた。そして悲劇は彼女の二十歳の誕生祭で起こる。『今日よりアタシは人を超越する』その言葉と共に彼女は【魔】へと【転化】した。そしてジュリアーヌは極大魔法を放ち・・・
魔女の記録を読み終えるとアステルは図書館を後にした。
往還を歩きながらアステルは『自分が魔女について知ることを恐れていた』という事実に思い至った。
知ってしまえば斧が鈍るかもしれないと思ったのだ。
アステルは誰よりも優しい。魔女について知ってしまえば、もしあの魔女が同情に足る人生を送ったすえに現在の境遇に至ったのだとすれば、彼は斧を全力で振れないかもしれなかった。たとえそれがミドナの仇でさえ。
だが違った。
あの魔女には何もなかった。
ただ純粋に、愉しむために、殺戮を行っている。
血に興奮し、肉の灼ける匂いを嗅ぎたいが為に、虐殺を繰り返している。
あの女の遊戯に、ミノタウロスの聚落は巻き込まれ、アステルの眼前でミドナは生きたまま灼かれた。
『パパ・・・熱いよ・・・』
アステルの魂で黒い炎が燃え上がった。
「貴様は獣だ」
感情を圧し殺した声でアステルは呟いた。
「いや、貴様が獣でよかった」
全身から爛れた熱気を放ち、アステルは拳を握りしめた。
筋肉が膨張し、鎧を押し上げた。
兜に覆われたその顔を見たものはいなかった。
誰もその顔を目撃しなくてよかったのかもしれない。
鎧の中で、アステルの顔面は狂気に憑かれていた。砕かん勢いで噛み締められ奥歯、憤怒に染まった瞳、灼け爛れ血管の浮いた半顔。そしてその表情は、嗤っていた。
狂憤に嗤っていたのだ。
その顔はまさしく、戦神ダイダロスを彷彿とさせた。
「獣が相手なら、私も獣になれる」
樹海を旅立った時に誓った言葉を、彼はもう一度呟いた。
「貴様を殺すぞ、魔女」




