序 爛れた復讐者
「退け」
立ちはだかる魔獣に向け、黒い鎧の男は静かに言い放った。
「無駄な殺生はしたくない。退いてくれ」
彼の再度の忠告に、しかし魔獣は牙を剥くことで応える。
多頭獄犬だ。それもただのケルベロスではない。通常種をしのぐ巨躯、歩いただけで地鳴りの起こりそうな太い四肢、血を浴び続け暗褐色に染まった体毛。そして狂暴に唸る五つの頭。
獄犬とはその頭部の数により脅威度が変わる。二頭ならオルトロス。三頭ならケルベロス。そしてその上に位置する五つの頭部を持つ獣。種族全面戦争によりその個体数が激減したケルベロスの上位種。
【五首の狂獄犬】
この獄犬はマカラゾ樹海の南部に主として君臨する恐ろしい魔獣。
黒い鎧の男はその主の縄張りに入り込んでしまったのだ。
憤怒に歪んだ五つの顔が、彼を睨み付ける。獄犬はゆっくりと彼の周囲を徘徊する。獲物の隙をうかがっているのだ。五つの顎からよだれがしたたり、五つの喉から威嚇の吠え声が放たれる。赤毛は逆立ち、筋肉は膨張し、ラドゥ・ケルベロスはすべてを殺戮する狂犬と化している。
「もう一度だけ言う。貴公と戦う理由が私にはない。無駄に血を流す必要などない。退いてくれ」
言葉を解さない狂犬に、しかし彼は心を込めて語りかける。これほどの魔獣と対峙しているというのに、彼は少しの殺気すら漏らしていない。むしろこのまま行けば確実に起こるであろう惨劇に胸を痛めているようなまなざしで、樹海の主を見つめている。
だがラドゥ・ケルベロスは退かない。目の前に立つこの大男から立ち上る闘気が、ケルベロスを引き下がらせない。獣の本能が警告している。この男は危険だ、この亜人は危険だ、今ここで殺さなければならない、と。
ケルベロスは黒い鎧の男を化け物と確信している。
「退く気はないようだな」彼は覚悟を決めたように呟くと、背負っていた戦斧を手に取った。凄まじい斧だった。分厚く、荒々しい、弩級の鉄塊だった。巨人族でさえここまで極大の武器を持つことはないだろう。すでに絶滅した巨人族の最大種 愚鈍なる巨獣ならば、あるいはこの斧を、【断竜斧】を扱えるかもしれない。それほどまでに規格外の武器を、しかしこの男は片腕で引き抜いた。
彼は断竜斧を肩に担いだ。鎧の肩当に斧が激突し、火花を散らした。
彼は異形の鎧を着ていた。鉄で造られたものではない。岩で作られたものでもない。その鎧は竜の鱗で作られたものだった。一枚一枚の鱗が巌ほどもあるという山岳竜ベヒィモスの死骸を削り出し作られた鎧【巨竜纏い】。
断竜斧と巨竜纏い。
この二つは男の種族に代々伝わる偶像武具だった。
戦神ダイダロス。
ダイダロスとは彼の種族に伝わる伝説、そのおとぎ話に登場する英雄の名だ。ダイダロスは巨竜纏いに身を包み、断竜斧を掲げ、一騎当千、仲間に牙を剥くあらゆる敵をなぎ倒したという。ゆえに彼の種族は千二百年前の神魔戦争を生き延びることができたのだと。
だが、そんなものはおとぎ話だ。
彼は亜人種、つまり低級存在。
この二つの武具は、低級存在が扱うには、あまりに強大すぎる。
英雄などいなかった。ダイダロスなどいなかった。断竜斧も巨竜纏いも、偶像的な意味合いしかなく、実際にこの武具が使われたことなどない。所詮伝説は伝説だ。
英雄などおとぎ話の中にしか存在しない。
『パパ・・・熱いよ・・・』
あの子の声が、今も耳にこびりついている。
だが、彼はこの斧を持ち、この鎧を着ている。
常軌を逸した鍛練と、魂に刻まれた憎悪が彼に限界を超えた力をもたらした。
「私には目的がある。悪いがこんなところで死ぬわけにはいかない」
男はケルベロスに向かって歩いていく。
ケルベロスは全身に力を溜め、彼が間合いに踏み入った瞬間、飛びかかった。
「すまない」
彼は静かに呟くと、断竜斧を構えた。
そして、
勝負は一瞬で決まった。
血魔をさえ餌にする五首の狂獄犬の巨体が、上方に吹き飛んだ。
血の雨とともに肉塊が彼の背後に落下した。
真っ二つに両断された獄犬の死骸が無惨に転がっていた。
巨斧を背に戻し、彼は歩き出した。
背後で幼い声が鳴きわめいた。
彼が振り返ると、ラドゥ・ケルベロスの死骸に群がる何匹もの子犬が盛んに鳴き声をあげていた。もはや魂の抜け落ちた獄犬の鼻先を舐め、その乳房に吸いつき、赤毛の中に潜り込んでいく。
「そうか、母犬だったか。だから退かなかったのか」
彼はしばらくその光景を眺めていたが、不意に何かを思い立ち子犬たちの方へ近づいていった。
子犬たちは怯えたように母犬の死骸の影に隠れ、唸った。ただ一匹の子犬だけが母犬を守るために彼の前に立ちはだかった。牙を剥き、懸命に吠えながら、子犬は憎悪の眼差しで彼を睨んだ。彼は立ち止まり、その視線を真正面から受け止め「私が憎いか」と子犬に問いかけた。言葉を解さぬ子犬は、しかし彼の言葉をわかっているとでもいうように、激しく吠えたてた。
「憎め。貴公等にはその権利がある」
そう言うと、彼はおもむろに鎧兜を取り払った。
牛の頭部が現れた。牛頭族だ。それもただのミノタウロスではない。異形の牛頭だ。顔面の右側に酷い火傷を負ったのだろう、体毛は抜け落ち、皮膚は爛れ、眼は白く濁っていた。右の角は根本から無くなっており、その様相を見るに折られたでも切断されたでもなく、おそらく溶かされたのだ。おぞけをふるうほどの醜悪さ。こちら側を見ただけでは彼がミノタウロスだと思うものはいないだろう。だが失われた右角を補うように天を貫く左角が、彼が雄々しい亜人種の生まれであることを証明している。荒々しい石柱のように太い左角に刻まれた傷の数々が、彼の積み重ねてきた研鑽の壮絶さを物語っている。
「私の臭いを覚えろ。私の声を忘れるな。私の顔をその魂に焼きつけろ。貴公等の母親を殺した男のすべてを憎むがいい。貴公等にはその権利がある。私を殺す権利がある」
『パパ・・・熱いよ・・・』
あの子の焼け焦げた姿が、今も瞼の裏に焼きついている。
「アステルだ」彼は子犬たちに決然と告げた。「アステル・ガンサルディード。それが私の名前だ。けっして忘れるな。貴公等の仇の名前を、貴公等の母を奪った男の名前を。そして」
彼はしばらく口をつぐみ
「いずれ私を殺しに来い」
その言葉は子犬たちに向けられたというよりは、自分自身に向けて放たれた言葉のようだった。
鎧兜をかぶり直すと、アステルはもう振り返らずにその場を後にした。
鬱蒼たる樹海を、アステルは無心で歩き続けた。
『パパ・・・熱いよ・・・』
あの子の伸ばした手の感触がいまだに忘れられない。
やがて前方が開けてきた。マカラゾ樹海の終わりまで来たのだ。この樹海を出れば、そこは多種族国家オルマ。種種雑多の種族が入り乱れる巨大な国。アステルは樹海とオルマ国との境界線に立ち、静かに眼を瞑った。
あの子の苦痛に歪む顔が甦る。
あの子の焼け爛れた小さな身体が甦る。
あの子の助けを求める声が甦る。
そして
『アハハハハ、アタシの炎は完璧だ、ハハハハハハハッ』
あの魔女の嗤い声が甦った瞬間、アステルの内奥で殺意が膨れ上がった。
「ミドナ、お前と私は血が繋がっていなかった。種族も違った。それでも私にとってお前は、本物の娘だった」アステルはゆっくりと眼を開いた。その瞳には、とてつもない憎悪と殺意が渦巻いていた。「お前は望まないかもしれない。我が同族たちも、そんなことは望んでいないのかもしれない。それでも・・・それでも私は、あの魔女が赦せない」
黒い炎ですべてを焼き尽くした女。
嗤いながらすべてを蹂躙した魔女。
あの女の声も、顔も、魔力も、あの日から一度だって忘れたことはない。
『全員殺しちゃアタシの名前が広まらないからさ、ひとりだけ生かすことにしてる。アンタのその傷痕と恐怖がアタシの悪名を世界に轟かせるんだ。だからオマエは生きるんだよ。アタシの為に生き、残りの人生ガタガタ震えながらアタシの名前を世に知らしめるんだ』そういって魔女は半顔に彫られた逆五芒星を歪めるように嗤った。『獄炎の魔女のジュリアーヌだ。しっかり覚えろよ、オマエのすべてを奪う超越者の名前なんだからさ』
放たれた黒い炎がアステルの半身を焼いた。
そして激痛にのたうつ彼の目の前で、ミドナが焼き殺された。
『パパ・・・熱いよ・・・』
それが最後の言葉だ。その瞬間にアステルを焼き焦がす黒い炎は彼の半身だけでなく、その魂までをも焼いたのだ。そしてその炎は憎悪へと変化し、いまなお絶え無く彼を焼き続ける。
その憎悪が彼に地獄の研鑽をやり抜く力を与えた。断竜斧を操る膂力、巨竜纏いを身に纏うことのできる体力、その身体を得るために、アステルは長い年月を費やした。あの女を、あの魔女を殺すために、狂気の鍛練に三十年を捧げた。その月日の中で、一日たりとも魔女を忘れたことはない。一瞬たりとも憎悪を絶やしたことはない。あの日彼に執り憑いた狂憤が、獄炎の魔女を忘れさせない。あの日のすべてを忘れさせない。そして、それでいい。なぜなら、アステルはそれを望んでいるのだから。
灰となった故郷を眺め、アステルは誓った。
焼け焦げた同族の死体を埋葬しながら、アステルは誓った。
息絶えたあの子の亡骸の前で、アステルは誓った。
「殺す」
手甲が軋みをあげるほど拳を握りしめ、アステルは呟いた。
「貴様を殺すぞ、魔女」
そして爛れた復讐者は、自身の魂に再度の誓いを打ち立てた。
【地獄に堕つ五芒星編 開幕】




