16 ゾルゾンザ・エッジズ
人狼は魔力の残り火を殺意で焚き付ける。もはや全身を強化することは出来ない。脚、爪、牙、狩りに必要な局部だけが黄金の光を放つ。
すでに二本の脚で立つことのかなわないガルドラクは前傾姿勢となる。突き出された右腕が上半身を支え、損傷の激しい左腕は身体の内側へとねじ込まれる。あたかも四脚獣のごときその体勢は、偶然にも彼の祖先、夜の種族の姿に酷似していた。血で黒く染まった体毛も、黒獣と忌み嫌われた彼等を彷彿とさせた。
夜の獣の血脈。
まさしくガルドラクは、獣が本来取るべき構えを見出だした。
視線の先に立つ鬼神は、獣とは正反対の、あまりにも無造作な姿。サツキは兵器。獣の本能も、剣の技量も必要ない。ただ相手の動きに反応し、圧倒的な膂力と魔力でもって敵を捩じ伏せる。それこそが竜殺し。
両者の間で交わされる殺気の応酬は膨大な力場となり、だからこそ均衡はすぐに破られた。
ガルドラクが踏み出したのか、サツキが動いたのか。
両者の一撃は、一瞬だった。
刃と牙が交差した。
赤い閃光と黄金の残滓が、残像のように空を漂った。
ガルドラクは膝をついた。腹部から血が噴き出していた。全身から力が抜けていく。くやしそうに歯を喰いしばり空を見た。サツキの魔力により払われた雪雲の隙間に、夜が覗いた。煌々たる満月が人狼を照らし出した。
「アア・・・ちくしょう」
ガルドラクは気力を振り絞り、サツキを視た。
「・・・強いな」
そう呟き、人狼は倒れた。
サツキの首筋から大量の血が流れていく。僧帽筋が喰い千切られていた。ガルドラクは最後の一撃に爪でも咆哮でもなく、牙を選んだ。これほどまで肉を抉られたのは黒竜との戦いを除けば、ジンライネルの極大魔法を受けて以来だった。
「首を狙ったか。獣らしいな」
低い嗤い声がサツキの喉から漏れた。
サツキはガルドラクの元へ歩いていった。
「胴から上を斬り飛ばしたつもりだったんだがな」地に伏した獣を眺めながら、サツキは右腕を見た。上腕の肉が裂かれていた。ガルドラクは首と同時に魔剣を握る右腕をも狙っていた。それにより魔剣の軌道が逸れ、ガルドラクは背骨の切断だけは免れていた。
サツキはガルドラクの肺が、わずかに収縮するのを見てとった。すでに意識はない。魔力も気力も尽きている。だが、これだけの傷を負ってなお、獣の本能は生を諦めていなかった。
「ガルドラク・ド・ガルガンジュ」サツキは獣の名を呼び、魔剣を掲げた。すでに解放時間は過ぎていた。だが魔力を形状固定する魔剣は、いまだ剣としてサツキの右腕にあった。「久しぶりに、本当に愉しかった。俺がお前の名を忘れることは、決してないだろう」
最後にサツキはガルドラクの顔を一瞥した。
あるいはお前なら、五統守護竜の喉笛すら喰い千切るだろう。
その言葉を、しかし彼は口に出さなかった。
何の躊躇いもなく、サツキは魔剣を振り下ろした。
赤き刃は肉を断ち、血を撒き散らし、そして止まった。
「何のつもりだ」底無しに冷たいサツキの声が、殺気と共に眼前の女に注がれた。「邪魔をするなといったはずだ、クシャルネディア」
膝をつき、頭を垂れるクシャルネディアの胸部に、魔剣が深々と斬り込んでいた。切断に至らないのはサツキの魔力がすでに封印され、膂力が弱まり、魔剣の魔力密度が低下している為だ。それでもクシャルネディアの肉体を破壊する威力は残っており、赤い刃に触れている箇所は超速再生と欠損を繰り返す。
「答えろ。返答次第ではお前を殺す」
「私は」クシャルネディアは決然と面を上げた。蒼い瞳には狂気が渦巻いていた。サツキの無機質さ、ガルドラクの荒々しさとはまた違う、どこまでも深く、冷たい、忠義という名の狂気だった。彼女はサツキの瞳を熱視し、静かに口を開く。「私は、サツキ様の目的に忠実です」
クシャルネディアは言葉を切り、サツキの反応を伺う。続けろ、とサツキの眼が促す。
「サツキ様の目的を達成するためには、この人狼が必要になります」
「俺にコイツを殺すなと?」
「そうです。私ならば、この人狼を救えます」
サツキは血にまみれ、死にゆく獣を見下ろす。
「見ろ、この獣を」鬼神の声には、賛美の念が含まれていた。「俺にここまで喰らいついた人狼はコイツが初めてだ。種族全面戦争の頃でさえ、俺を相手にこれほどの戦いを見せた魔獣はいない。完璧だ。コイツは完璧な獣だ。素晴らしい。驚くべきことに、俺はコイツを尊敬さえしている。この獣は死力を尽くした。だがお前は俺にガルドラクを殺すなという。俺に人狼の魂を踏みにじれと言っているのか?」
「その通りです」
クシャルネディアの返答に、サツキの殺気が膨れ上がる。魔剣に力が込められる。だが次にクシャルネディアが放った言葉に、サツキは動きを止めた。
「『ゾラペドラス』」
クシャルネディアはサツキがもっとも執着する、黒竜の真名を口にした。その名を口にし、殺されたかけたのは記憶に新しい。黒竜とはそれほどまでにサツキの感情を刺激し、忌々しい記憶を喚起する。そしてだからこそ、これは賭けなのだ。これ以外にサツキがガルドラクを見逃す理由を成立させる事は出来ない。クシャルネディアは心の中で自嘲する。なぜ私があの不遜で、汚ならしい、身の程をわきまえない人狼を庇うのかしら。私こそが剣、私こそがサツキ様の殺戮の剣・・・でもわかっている。私の力では足りない。私は、この人狼のような壮絶さを持ってはいない。私では、私だけでは・・・クシャルネディアは決意する。
「『たとえ何を犠牲にしようと、ゾラペドラスを殺す』サツキ様はそう仰いました。何を犠牲にしようと・・・そこには矜持と魂も含まれていると、私は理解しております。なればこそ、どうかお考え直しください。この人狼は必要です。今こそ犠牲を払う時だと、私は進言します。私の血と魔力なら、この人狼の命を、繋ぐことが出来るかもしれません」
そう、血魔と月の狼は夜の種族の血脈だ。彼等の内奥には黒い獣の血が流れている。ヴァルコラキの筋力や鋭い牙は獣の名残だ。サツキとの戦いで死を目前にクシャルネディアが牙を剥いたのも、本能の根底に獣性が宿っているからだ。そして血魔が有する超速再生、これも元々はナイト・ブリードの能力だ。進化の過程でその力がほとんど失われているとはいえ、わずかながらも人狼の中にも、この能力は残されている。二百年を生きた人狼が長寿人狼と呼ばれ不死を手にするという伝承は、頂点に達した獣の肉体強度をして不死身としているが、永い年月の果てに先祖帰りを起こし、超速再生を発現させた、とする説もある。ガルドラクは先祖帰りをしていない。だが彼女の血なら、もっとも濃い獣血を引き継いだ祖なる血魔の血ならば、ガルドラクの能力を発現させられるかもしれない。いや、必ず呼び醒ましてみせる。我が主の為に。
サツキは無言でクシャルネディアを睨める。
「どうしても赦せないというのであれば、ご安心ください。サツキ様の手を煩わせる気は毛頭ありません」クシャルネディアは自らの胸に右腕を捩じ込むと、脈動する心臓を抉り出し、サツキに差し出す。「あの夜、忠誠を誓ってから、私の命はサツキ様の物です。自害せよと命じて頂ければ、この魂、すぐにでも灰塵に帰してみせます。しかしどうか、私にわずかばかりの猶予をお与えください。この人狼の命を繋ぐわずかな間だけでも、どうか」
サツキはクシャルネディアの狂信を受け止め、ガルドラクを見る。
逡巡は一瞬だった。濃密な一瞬だ。
葛藤、矜持、狂気、敬意、誓い。サツキの胸中で渦巻いた感情は、まさしく混沌と呼ぶに足る激情となり、そしてある一点へと終着する。
127の同胞、その名と血と魂に、黒竜を殺すと誓った。
何かを決意したように、サツキは告げた。
「俺を呪えガルドラク」
サツキは胸中を絞り出すように続ける。「お前の誇りを穢し、お前の魂を踏みにじる俺を恨め。もはや俺に相応しいのは汚名だけだ。それでも、ああ、それでもだ。クシャルネディア、お前は正しい。その通りだ。俺は殺す。たとえ何を犠牲にしようと、黒竜を殺す」
サツキはクシャルネディアを貫いていた魔剣を引き抜く。
灼け、裂かれた血魔の傷。瞬時に再生する。蒼白の肌に、血が一筋流れる。サツキはその血を眼で追い、
「赦せ」
「そのような御言葉、サツキ様の下僕である私が受け取るには、身にあまります。私は何も求めてなどおりません。ただ、命じてください」
「お前が奴隷なら、そうだろう。だが違う。卑下するな、自身の力を誇れ。お前は俺の【剣】だ」
サツキは毅然と言い放った。
「赦せ、クシャルネディア」
粛然とした響きに、彼女はただ静かにその言葉を受け入れた。
クシャルネディアに背を向け、サツキはヤコラルフを眺める。月光に照らされた廃都。鬼神と人狼の戦いにより崩壊した街。325年前と変わらない。サツキの通った跡には何も残らない。破壊と蹂躙。サツキの後ろを歩く事が出来たのは同胞だけ。全面戦争でサツキが従えた殺戮の剣。彼の為に死んだ127人。そして今、ふたたび剣が必要となった。誓いを果たすために。黒竜への道を切り開くために。そして、黒竜から五統守護竜を引き離すために。
「未来永劫、俺を呪い続けろ」
そしてサツキは決然と命じた。
「その人狼を生かせ」




