15 ガルドラク・ド・ガルガンジュ
サツキに攻撃の出番を回してはならなかった。
ガルドラクは攻め続けなければならなかった。
なぜなら、鬼神の保有する絶対的火力を真正面から受け止められる者など、黒竜をおいて他に存在しないからだ。
洗練さとは真逆の、蹂躙の為の暴力。サツキの猛攻により、もはやヤコラルフ中心地は跡形もない。振るわれる超魔力により、都市全域が崩壊していく。
ガルドラクの骨が軋む。皮膚が灼ける。サツキとの肉迫戦、それは超高密度多重魔力装甲を至近距離で浴び続ける事を意味する。肉体にかかる負荷は計り知れない。いくら人狼とはいえ、いや、人狼だからこそ、戦えているのだ。
だが致命傷は免れているとはいえ、ガルドラクの優位性はもはや意味をなさない。枷を解放したことにより生じる疲労蓄積、超高密度魔力による重圧、そして胸部への一撃。ガルドラクとサツキの速度は、ここに来て拮抗に至る。だが拮抗では駄目だ。敵は竜殺しなのだ。サツキを相手に拮抗状態を維持することなど、不可能だ。
鬼神の猛撃。避け、捌き、そして防ぐ。ガルドラクの両腕を衝撃が突き抜ける。肉弾なら直撃さえ防げれば、それでもその破壊力は常軌を逸しているが、まだ耐えられる。サツキの腕と脚がガルドラクを掠めるたびに肉体が損傷していく。肉が裂ける。骨にヒビが入る。臓腑が悲鳴をあげる。それでもガルドラクは倒れない。
だが、
赤く歪んだ刃が、轟音をあげる。
ガルドラクはその剣から視線をそらさない。
アレは無理だ、獣は唸る。
あの剣だけは危険すぎる。
絶え間ない猛攻の中で、ガルドラクの警戒が魔剣に集中するのは無理からぬことだ。そしてその意識の偏重をサツキは見逃さない。
赤い閃光。
ガルドラクは身を躱し、
瞬間、人狼の頭部をサツキの左腕が打ち抜いた。
体勢を立て直すことなど出来ない。受け身すら赦されない。ガルドラクは吹き飛び、瓦礫を突き破り、城壁に叩きつけられる。
サツキはガルドラクの魔剣への警戒を餌に、人狼の回避地点へ完璧なタイミングで攻撃を放った。
ガルドラクの視界が、歪む。
意識がやけに緩やかだ。
まるで時間が止まっているかのようだ。
人狼はぐらりと傾く。大きな血溜まりが見える。それはガルドラクから滴り落ちたものだ。サツキの腕を直撃した右側頭部から大量の血が流れ落ちていく。脳が揺れた。肉体が弛緩する。筋肉を締め、止血をしていた傷口が一斉に開く。かろうじて保っていたひび割れた骨が、砕ける。いくつもの臓器が破裂する。黄金の体毛が鮮血に染まる。極限まで研ぎ澄ますことでガルドラクを支えていたあらゆる均衡が、崩壊する。
ガルドラクの膝が、肉体を支えられず崩れる。
意識が、黒く沈んでいく。
『このまま倒れろ』
頭の中で声がする。
自分とまったく同じ獣の声。それでいてその声は、彼が捨て去ったはずの、慈愛を含んでいた。
それは弱さだ。群れと共に捨て去ったはずの弱さ。睾丸と共に握り潰したはずの弱さ。本能が内包する破滅。戦いを放棄し、終焉を求める、死の欲動。
『もう終わりだ』
終わりだと?
『わかってるはずだ。その身体を見ろ。限界だ。ズタボロだ。テメェは死にかけてる。テメェはアイツに負ける。これ以上戦う必要なんかない。苦痛を長引かせる意味なんかねぇんだ。このまま倒れればいい。それで、それだけで、オメェは解放される。すべてが終わる』
アア、そうかもな。
黒く塗り潰されていく視界。
かろうじて残る意識が、眼前を視る。
崩壊した街並み。血と屍。悲鳴と嗚咽。ここは地獄。超越者の戦場。
そしてその中心に座するは赤い戦禍。圧倒的な化け物。オレが焦がれ、求めた、死闘。
「倒れるだと?」ガルドラクの顔が狂暴に、凶悪に、歪んでいく。「終わりだと?」
『アアそうだ。オメェは限界だ。死にかけてる』
だから、どうした。
『筋肉は裂け、抉れ、悲鳴を上げている』
だからどうした。
『骨は折れ、砕け、皮膚を突き破っている』
だからどうした。
『臓物がいくつも破裂している』
だからどうした。
『金狼状態を維持する為の魔力が底をつきかけている』
だからどうした。
『致死量を越えた出血』
だからどうした。
『このまま戦えば死ぬ』
だからどうした。
『このまま戦えばオメェは、オレは、死ぬんだぞ』
「アア、だから、それが、どうした」
ガルドラクは牙を剥いた。その顔は明らかに嗤っていた。
「オレがこの道を選んだ。オレがこの戦いを求めた。オレが此処を望んだ。これがオレの運命だ。倒れるだと? 終わりにするだと? ふざけるな。終わってなどいねぇ。何ひとつ終わってなどいねぇんだよ。オレはまだ生きてる。ズタボロだろうと、死にかけてようと、オレの魂は燃えてるんだよ。敵が目の前にいるんだ。化け物だ。嗤えるくらい圧倒的だ」その眼が、その牙が、その顎門が闘志にうち奮える。獣は哄笑する。「最高じゃねぇか。オレはそういう奴と戦いたかったんだ。完璧じゃねぇか、オレはこういう戦いがしたかったんだ。こんなところで禅問答してる暇はねぇ、答えは出てる。答えなど、オレは生まれた時から知っている。最強だ」
ガルドラクは吼えた。
「オレこそが最強だ」
そして彼の中にわずかに残っていた弱さを、ガルドラクは殺した。
膝が肉体を支えられず、ガルドラクは崩れるかに見えた。
力強い右脚が、人狼の重心を支えた。
生気に満ちた左脚が、一歩を踏み出した。
「負けねぇ。オレが勝つ」
血まみれの人狼の咆哮が、天を劈いた。
応えるように、鬼神が降り立つ。
鬼と獣が相対した。
ガルドラクの爪が、サツキの胸を裂いた。血が噴き出す。止まらない。皮膚が再生しない。深い。人狼の爪は骨にまで届いている。
「これほどか」サツキは敬意を込めて呟いた。「誇れ。お前はボロスを越えた」
そこから始まった壮絶なる応酬は、時間にすれば数秒であったろう。だか死の淵で完璧な獣となったガルドラクの爪は、鬼神に匹敵する猛攻となってサツキに襲いかかった。凝縮された時間だった。一秒が一分に感じられるほど、ガルドラクの意識は研ぎ澄まされていた。攻撃の回転数が上がる。速度が上昇する。獣はさらに疾くなる。ふたたびガルドラクはサツキの反応速度を凌駕する。そして今の彼の爪は、鬼神に届く。サツキの肉が裂ける。そしてガルドラクの骨が砕ける。
壮絶な戦い。
これを死闘と呼ばずなんと呼ぶ。
凄絶な、獣の共食いのような、戮し合い。
何者も介入することのできぬ、激闘。
だがすべての戦いに終わりがあるように、それは唐突に訪れる。
ガルドラクはサツキの猛撃すべてを避けきり、彼の背後をとった。
最高のタイミングだった。魔剣を振り下ろした直後の、無防備な背。ガルドラクはサツキの死角を完璧にとった。避けようがない。防ぎようがない。この一撃は確実に刺さる。奴に致命傷を与える。
オレが、勝つ。
人狼の一撃がサツキに放たれた瞬間、
ガルドラクの視界を、赤い閃光が灼いた。
人狼の速度は凄まじかった。その猛威は激烈だった。だが竜血族と、五統守護竜と、そして黒竜 ゾラペドラスと死闘を繰り広げてきたサツキの闘争感覚は、たとえ魔獣狩りであろうと確実に捉える。サツキはガルドラクの動きを読んでいた。そしてガルドラクと同じように、いやそれ以上に絶妙なタイミング ――― つまりカウンターで ――― 魔剣を振り抜いた。
「終わりだ」
殲滅の刃がガルドラクを呑み込んだ。
すべてが蹂躙された。
衝撃波。突風。赤い狂乱。あらゆる物が宙を舞い、死滅し、静寂が降り落ちる。
サツキは前方を視る。砂礫と砂埃が積乱雲のように立ち込めている。
終わりだった。
かつて魔剣を正面から受け生き残った存在は二体だけだ。
一体目は説明するまでもないだろう。神喰らいの邪竜、開闢の闇、黒禍の堕胤。おそらくこの世界において、サツキを凌ぐ魔力を有する竜血族の頂点。
【黒竜 ゾラペドラス】
そして二体目。
『己は貴様を討ち滅ぼす為に此処にいる。己は黒竜様が振り下ろす蒼き雷槍、背教者を灼き尽くす裁きの雷。No.11、貴様だけはここで殺す』
サテルメージャ追撃殲滅戦において、単騎サツキに挑みかかった蒼き竜。蒼い雷神の異名で畏れられた、おそらくもっとも生体兵器たちを屠った最強の守護竜。
五統守護竜の一柱。
【雷竜 ジンライネル】
全面戦争時、この二体だけがサツキの魔剣から生き残った。隔絶した竜の血がそれを可能とした。
だが、獣では無理だ。狼王ボロスでさえサツキの一撃を前に消し飛んだ。
戦いは終わった。
サツキでさえ、そう思ったのだ。
「まだ・・・だ・・・」
その声を聞くまでは。
クシャルネディアは砂埃の切れ間に、それを視た。
足元は血の海だった。その体毛は黄金の魔力を失っていた。どころか、白銀でさえない。すべてが血に染まっていた。腹部から垂れているのは皮か、肉か、あるいは腸か。左腕がだらりと垂れていた。骨が粉々に砕けているのだ。両の脚が小刻みに震えているのが見てとれた。胸から血が噴き出していた。口から塊のような血が溢れた。もはや死体も同然だった。それなのに、なぜ立っていられるのか。
そして、なぜあんな眼をしていられるのか。
「あなたが羨ましいわ」
無意識のうちに、クシャルネディアはそう溢していた。
「もし私にそれだけの強靭さがあれば」
言葉を切り、クシャルネディアは心中で自らに語りかけた。
もし私にあれだけの強靭さがあれば、私はサツキ様に認めてもらえるだろうか。あの方の為に、立ち塞がるすべての敵を殲滅することができるだろうか。貴方を黒竜の前に立たせることができるだろうか。
「認めるわ、本当に」
クシャルネディアは獣に向かって、最大限の敬意を込めて呟いた。
「貴方こそ我等【夜の獣の血脈】、その真の血を引き継ぐ者よ」
そして血魔が獣にそんな事をするのは、これが最初で最後だろう。
彼女自身、驚愕していた。だが、そうせざるを得なかった。これだけの獣を前に、高潔なる血脈の彼女が敬意を払うのは、当然のように思えた。
クシャルネディアは右手を胸元に当て、小さく御辞儀した。
「噂にたがわぬ、いえ、それ以上の狂犬」
女王は凜然と告げた。
「魔獣狩り。まさしく貴方こそ、我等が最強の血族よ」
「まだ・・・終わってねぇ・・・」
サツキは眼を見開いた。戦塵の中に、ガルドラクが立っていた。だがその身に刻まれた傷を考えれば、なぜ今も人狼が立っているのか理解できなかった。ガルドラクの上半身は、抉れ、砕け、血を撒き散らしている。脚は重心を支えられず震えている。そして両腕はもはや使い物になるように思えない。左腕などは肘から千切れかかっている。
「まだ、負けてねぇ・・・オレは倒れてねぇ」
その通りだ。ガルドラクは死の淵においてなお、立ち続けている。
そして鬼神を見据えるその瞳の中には、いまだ闘志が燃えている。
サツキは驚嘆したようにその眼を睨み返した。魔剣の直撃を受けて、なぜガルドラクが生きているのか、考えればその理由は見つかるかもしれない。あの腕の損傷と金狼状態が解けている事から、月の魔力すべてを両腕に集中し、魔剣を受け切ったのかもしれない。あるいは直撃の瞬間、超咆哮により魔剣の表層魔力を削り、威力を減殺したのかもしれない。他にも可能性はいくらでもあるだろう。だが、そんなことには何の意味もない。重要なのは人狼が魔剣を耐え抜いた事であり、ガルドラクが今もサツキの前に立ちはだかっているという事実だ。
嗟歎の嗤いをサツキは上げた。
「俺の魔剣を耐え抜いたのは、お前が三人目だ」
そこではじめて、サツキの顔から嗤いが消えた。
「見事だ」
サツキは称賛の言葉を獣へ送り、
「名乗れ」
「・・・アア?」
「いや、俺としたことが礼を逸したな」
サツキは赤い刃を地面に突き刺し、魔剣から手を離した。吹き荒ぶ赤い嵐が、掻き消えた。サツキは一時的に魔力の解放を抑え込んだ。戦場において魔力を消し去るなど、普通ならば終戦を意味する行為だ。だがサツキの纏う殺気はそうは言っていない。むしろより禍々しい性質をおびていく。
「テオスセイル世界連合 第Ø対竜魔導師団 独立戦略兵器部隊 異種族殲滅用生体兵器 識別No.11」長いな、自嘲するように口元を歪め、サツキは正式名称とは異なる名を告げた。もっとも同胞が口にした名前を。「サツキだ」
彼はふたたび魔剣を手に取る。
「名乗れ。お前はそれに値する」
数瞬の沈黙ののち。
「ガルドラク・ド・ガルガンジュ」
獣は血を吐きながら、唸るように発した。
「そうか。いい名だ」サツキの瞳が殺意に塗り潰されていく。「悪いがあまり時間が残されていない。次の一撃で終わらせる」
「そいつは、奇遇だ」ガルドラクは限界の迫る肉体で、それでも虚勢を張った。「オレもそう思っていたところだ」




