13 レーゾン・デートール
迫る薄暮に、曇天はさらに暗くなる。
静かに雪が舞う。
クシャルネディアは赤い魔力の余波に、あらためて慄然とする。
脳裏にあの夜の情景が浮かび上がる。
凄絶な魔力と圧倒的な膂力を前に、ただ死に続けた夜を。あの時でさえ隔絶していたサツキの力。だが先ほど解放された魔力は、あの夜をさらに上回る物だった。おそらく目覚めてから十分な時間が経過し、サツキの人造魔導器官の性能が完璧な状態を取り戻したのだろう。だとすればあの夜、クシャルネディアと対峙した彼の力は本来の物ではなかった。さらには黒竜ゾラペドラスの呪いによって、解放時間すら制限されている。だがその状態でさえ、祖なる血魔を一方的に蹂躙した。水魔精程度がどうにかできる相手ではない。
自然の摂理を超越し、天災さえ凌駕する、もはや【個】が持つにはあまりにも強大すぎる力。
ゆえに鬼神。
「まさしく」
クシャルネディアは畏れと敬意を込め頭をたれる。
「まさしく貴方様こそが竜殺しです」
「レヴィアの魔力が消えた」
ザラチェンコは赤い残滓を特大剣で振り払う。雪に頬が濡れる。まるで水魔精の忘れ形見のようなそれを、しかしザラチェンコは冷酷に拭いさる。
「少しマズい展開だ」
かたわらの『亀裂』を見る。赤い閃光のもたらした、壊滅的な傷跡。一体誰がこんな事をしたのかわからない。だが尋常ならざる魔力と共に、超高密度の刃が放たれた。
そしてレヴィアが死んだ。超越魔物である彼女が。地獄に堕つ五芒星である強者が。
『相手は魔獣狩りだ。最悪の状況を想定して動いてくれ』
ガルドラクの件をザラチェンコに告げたとき、イビルヘイムはそう言った。
『序列第二層の獣だ。殺しきれない場合、恥を捨てろ。レヴィアはプライドが高いゆえに引き際を見誤るが、君は違うだろう? 我々がもっとも致命的なのは、戦力を失うことだ。だから最悪の状況だと君が判断したなら、素直に撤退しろ』
まさに今がその最悪の状況、いや、ザラチェンコが想像していた以上に、危険な展開。
想定外のクシャルネディアの出現、魔獣狩りの乱入、そしてレヴィアは殺され、しかも敵の正体は不明。
その時、ザラチェンコは気づく。自分の掌が濡れている。
彼は驚くと、掌を見る。冷や汗だ。彼は冷や汗をかいている。
「いや、これは本当にまずいな」ザラチェンコは肩をすくめると、特大剣を地面に突き刺した。巨刃の内部で静かに、だが激しい魔力が練り上げられ、刃先に集中していく。
「安心しろイビルヘイム。もとから俺に恥など無い」
ザラチェンコは残念そうにクシャルネディアとガルドラクに告げた。
「悪いが、俺は退かせてもらう」
「退く?」ガルドラクがゆっくりと振り返る。研ぎ澄まされた黄金の瞳が、理解できないといったように細められる。「これから面白くなりそうだってのに、退くだと?」
「君は勘違いしている。確かに俺は戦いが好きだ。戦場で剣を振るうのは騎士の誉れ、敵の血を浴びるのは魔の歓びだ。だがなガルドラク、俺は君ほどイカれていない」ザラチェンコはやれやれと首を振り、人狼を見る。その眼には呆れと、そしてどこか憧憬のような物が混じる。「確かに君たち二人を抹殺するのは重要だが、それが地獄に墜つ五芒星の第一目的と言う訳じゃない。俺たちはこれから【聖都】を落とすつもりでね、こんな所で死ぬわけにはいかないんだ。さっきのあの魔力、あんな物を操る正体不明の相手に、真正面から戦いを挑むほど、俺は馬鹿じゃない。ククッ、だが君は戦うつもりだろ?」
「当たり前だ。こういうのを待ってた」
「さすがは魔獣狩りだ。俺には到底理解できないが、それでも君のその闘争心は、尊敬に価する。羨ましくすらあるよ」
ザラチェンコは剣を引き抜く。地面にゆっくりと亀裂が這い、まるで蛇がのたうつようなそれは不気味な図を描き、やがて小さな魔方陣となる。
彼はその図を満足そうに見下ろし、クシャルネディアに頭を下げる。
「それでは少し早いが、俺は失礼させてもらうよクシャルネディア。本来ならば跪くのが礼儀だろうが、あいにく俺も多忙でね。簡易的なもので勘弁してくれ」
「撤退? ヘル・ペンタグラムである貴方を黙って帰すほど、私がお人好しだとでも?」
「君のような美女に引き留められると俺の決心もブレそうだ。しかし今回は君の誘いを断る非礼を赦してくれ。俺としても心苦しいよ、ククッ」
「たいした自信ね」クシャルネディアの周辺空間が裂け、奴隷魔物がザラチェンコに向かって飛び出す。
「逃げられるかしら」
「逃げられるさ」
襲いかかる毒蟲を眺め、ザラチェンコは冷徹に呟いた。
「呑め、ムンドゥス」
魔方陣が冷たい閃光を放ち、上空から巨影が現れた。
蛇だ。それも特大の。
開かれた大顎がザラチェンコとクシャルネディアの間で蠢く毒蟲を、地面ごと呑み込む。
凄まじい衝撃。だが、次の瞬間、大蛇が掻き消える。
「へえ、ずいぶんと珍しい魔物を飼っているのね」クシャルネディアは驚いたように声を上げる。奇妙な事に、ザラチェンコの刻んだ魔方陣だけが無傷だ。彼女は抉れた地面を睨み
「その図柄、儀式の刻印ね。だとすればその魔方陣は門。極大魔法を介した召喚術式を組むなんて、意外と器用なのね」
ザラチェンコの極大魔法【尾を呑む蛇が潜る門】。
「お褒めに与り光栄だ。だが飼ってるんじゃない。これは契約だ」ザラチェンコが笑顔で応えた瞬間、彼の足元から蛇が飛び出す。異形の黒影。その形状はまさしく蛇であり、長い胴体も、縦に割れた瞳孔も、二又の舌も、爬虫類のそれである。だがその全身は黒い陰に、次元断層の残滓に濡れている。空間を移動し、門によって現世に干渉する、異次元に棲まう魔蛇。普段は異空間を漂う無害な魔物だが、ひとたび現れれば街ひとつをたやすく呑み込む、恐ろしい存在。
間違いなく超越魔物。
【尾呑みの蛇のムンドゥス】。
大蛇の額に、ザラチェンコは立つ。
「呼び出してすまないなムンドゥス」
「気ニスルナ。ソウイウ契約ダ」
大蛇は周囲を睥睨する。
「真祖ト人狼ヲ相手ニシテイルノカ。相変カワラズ無茶ヲスル。ダガ、ソレダケジャナイナ。他ニモ何カ、イル」ムンドゥスは地平線を見るように眼を細める。「何ニセヨ、早ク済マセロ。貴様ノ魔力量デハ、吾ノ門ヲソウ長クハ維持出来マイ」
「安心してくれ。逃げるだけだ」
「逃ゲル? ソレダケノ為ニ吾ヲ召喚シタノカ? クハハハハハッ、貴様ラシイナ」
ザラチェンコは特大剣を肩に担ぐと、あらためて二体の魔物に別れを告げる。
「それじゃあ、俺は帰るよ。魔獣狩り、これから君が何と戦うのか知らないが、地獄に墜つ五芒星としては死んでくれるとありがたい。期待してるよ」
「オメェの期待に応える気はさらさらねぇな」
「ククッ、だろうな」ザラチェンコは鉄靴でムンドゥスの鱗を叩く。大蛇の頭上の空間がひしゃげ、裂ける。「クシャルネディア、君も消滅してくれるとありがたいんだが、まあしかし、君が生きているとなればイビルヘイムもベルゼーニグルも喜ぶだろう。俺でよければ伝言を承るが、何かあるかな?」
「そうね、あの無礼な死霊と蠅に殺すと伝えておいて」
「任せてくれ。これで俺は約束を守る。それじゃあ、さよなら」
そして大蛇と共に魔人は異空間へと消えた。
「しかしなぜだろうなぁ、君たちとはまたどこかで会う気がするよ」
空間が閉じる直前、ザラチェンコは呟いたが、その言葉が二人に届いたかどうかは定かではない。
ガルドラクは魔人の消えた空に向け
「喰い損ねたな」
呟くと、歩き出す。
「どこへ行く気かしら?」
冷徹なクシャルネディアの問いにガルドラクは振り返る。黄金の瞳が血魔を射る。
「悪いがオメェを喰うのはまた今度だ。オレの敵はテメェじゃねぇ」
「まさか、あの方と戦うつもり?」
クシャルネディアは黒い殺気を人狼に向け、不意に笑う。
「無駄よ。非常に不愉快だけれど、貴方の実力は認めざるを得ないわ。最強の人狼と呼ばれる理由がわかったわ。貴方は強い。とてつもなく。でもそれは、あくまで超越魔物という領域での話」彼女は雪の舞う曇天を見つめる。先ほどまで赤く染まっていた空を。「あの方は、もはや私たちと同じ舞台に立ってなどいない。あらゆるモノを超越した、あらゆるモノから隔絶された世界に立っている。上位存在である私たちよりもさらに上にね。だからかしら、あの方は孤独で、その心は虚無に包まれ、けれど、だからこそ、孤高なのよ」
クシャルネディアは断言する。
「貴方、死ぬわ」
その言葉に、しかし人狼は平然と答える。
「だからどうした」
「理解できないわ。貴方ほどの魔物なら先ほどの魔力の解放で、その圧倒的な実力差に気づくはずよ。絶対に勝てない存在に勝負を挑むなんて、よほど死にたがりなのね。だったら今ここで死んでくれないなしら」
クシャルネディアの差し出した右腕が、邪悪な砲口と化する。
だがガルドラクは血魔の殺意を無視し、彼女の瞳を睨み返す。そして、
「オメェは自分より弱い奴としか戦わないのか?」
一切の殺意や狂気を排した問いをクシャルネディアに向ける。
そこに込められているのは、純粋な疑問だ。
「逆に聞くぜ。じゃあなんでオメェはオレと戦った。テメェの言葉をそっくりそのまま返してやる。まさかオレに勝てると思ったか? さすがは祖なる血魔だ、能力も魔力も闇王の比じゃねぇ、だが、オレの方が強い。オレの実力が測れねぇほど馬鹿じゃないはずだ。テメェはオレの疾さを捉えられない。オレの爪を防げない。オレの咆哮を耐えられない。オメェがオレに勝つなんざ百年早い。それなのに、なぜオメェはオレに戦いを挑んだ? なぜだ? そしてテメェの言う『あの方』、オメェはさっきの魔力の野郎を知ってやがるな。その口ぶりからして、そいつと戦ったんじゃねぇのか?」
人狼の言葉に、クシャルネディアは沈黙する。それを肯定と見てとり、ガルドラクは嗤う。
「なぜ戦った? 絶対に勝てない敵に、なぜ挑む? 理由は何だ? 少なくとも、まともな答えじゃねぇはずだ」
クシャルネディアは思い出す。
あの夜、なぜ戦ったのか?
その理由は簡単だ。
325年前のあの夜、ドラゴンから救って貰ったからだ。恩を返すと、血に誓ったからだ。その為には、認めて貰うしかなかった。彼女の実力を。有用性を。存在価値を。
それが叶わぬなら、もはや生きている理由などない。何の為に血を啜り、魔法を極め、超越魔物と成ったというのか。すべては【殺戮の剣】としてサツキに仕えるためだ。この命に変えても、主の目的を達成に導くためだ。それこそがクシャルネディアの存在価値。
そう、だから戦った。勝敗など度外視だ。たとえ可能性がゼロだとしても、絶対に勝てないとわかっていても、その首に喰らいつき、血を啜り、私の力を認めさせる。
その為に生きてきた。
クシャルネディアの瞳が揺らぐ。
「オメェにはオメェの理由があったはずだ。それが何なのか、興味はねぇ。だが戦ったんだろ。そしてオレにはオレの理由がある。言ったはずだ」
ガルドラクはクシャルネディアに背を向け、また歩き始める。
「オレは強い奴と闘いたいんだよ。圧倒的な化け物と殺し合いたいんだ。オレの存在などちっぽけに思えるような、オレなど歯牙にもかけないような、そういう化け物とな。そこに理屈などねぇ。アア、そうだ、散々仲間どもに言われたさ。オレはイカれている。オレは狂っている。だからどうした。愛がなんだ、友がどうした、群れが一体なんなんだ。オレは戦いを選んだ。その為に全てを捨て、この道を選んだ。此処には血と屍しかない。肉と骨しかない。生と死しかない。最高だろ? これ以上の物があるか? これ以上の場所が存在するか? これがオレだ。オレには此処しかねぇ。オレには此れしかねぇ。アア、そして、それで十分だ」
ガルドラクは息を吸い
凄まじい咆哮が天を劈いた。
その声に、クシャルネディアは下唇を噛む。
彼女がガルドラクに抱く不快感の根底にあるモノ、それは【嫉妬心】だ。彼は完璧な獣だ。おそらく夜の種族に匹敵する、いや、あるいはそれさえ凌駕するほどに純粋無垢な、一匹の獣。決して消えぬ闘争本能。研ぎ澄まされた殺戮本能。獣の血の流れる者どもが目指し、ついぞ到達できなかった、混じり気なしの魔獣。高貴なる血族、教養と品格、貴族としての矜持、そういった夾雑物によって血魔が永遠に辿り着けない極点。だが血魔がそれを羨ましいと思うことなどない。彼等からすれば、人狼など穢らわしい野良犬。下品で野卑な嘲笑の存在。だが、それでも血魔には同じ血が流れている。月の狼と同じ獣の血が。そして血とはいやおうなしに本能を呼び覚ます。
クシャルネディアは決して認めないだろう。
だが人狼の背を眺める彼女の胸中で渦巻くその感情は、間違いなく【羨望】だ。
この距離から極大魔法を放てば、いくら魔獣狩りといえどただではすむまい。たとえ殺せないにしろ、サツキの手間を多少ははぶけるかもしれない。
だが、クシャルネディアは腕を下ろす。
「馬鹿な犬」
ガルドラクの背を見送り
「そうね、確かに貴方の相手は私じゃないわ」
クシャルネディアの肌が、漂ってくる赤い殺気にチリつく。
そう、人狼の相手は彼女ではない。
ガルドラクは完璧な獣。
だが、これから彼が戦うのは、獣からは程遠い、叡智と技術がもたらした、赫い極点。
ある意味、ガルドラクのもっとも対極に位置する、無機質な化け物。
その化け物が、瓦礫の向こうから、来る。
ガルドラクの体毛が逆立つ。
禍々しい殺気。戦禍の放つ強烈な死の臭い。
来る。
鬼神が。
来る。
化け物が。
来る。
竜殺しが。
雪に白む人狼の視界に、
赤い双眸が現れた。
「お前が魔獣狩りか」




