12 レッド・メリディアン
「一撃で殺す? 僕を?」
レヴィアは乾いた嗤い声をたて、次に深い溜め息をついた。そこには目の前の男への悲哀が混じっていた。人間の分際でレヴィアを殺せると思っている、その無知で傲慢な考えに、彼女は怒りではなく哀しみを覚えたのだ。
「だいたいさ、遊んでやってたのは僕の方なんだよ。お前なんて殺そうと思えばいつでも殺せたの。だから人間は嫌いだ。身の程をわきまえない、傲慢で無知な猿。はあ・・・いや本当にさ、もういいよ」
だるそうに手を振ると、全ての奴隷魔物にレヴィアは命じた。
「喰い殺せ」
巨海獣の大群が襲いかかる。
だが、サツキに触れる寸前、彼等は動きを止めた。
レヴィアは怪訝そうに眉をひそめた。
彼等は唸り、牙を剥き、最大限の威嚇をみせ、しかし一向にサツキに近づこうとしない。どころか、彼等はずるずると引き下がっていく。主を目の前にして、スレイブが命令に背くなど、本来考えられない事だ。巨海獣の群れはレヴィアの元へ逃げ帰る。
「どうしたんだ?」
彼女は体内で魔物どもを飼っている。だから彼等の感情が手に取るようにわかる。奴隷魔物たちは恐慌をきたしている。
「いったい何に怯えているの?」
優しく語りかけるも、彼等は震え、レヴィアの体内へと深く潜っていくばかり。今までこんなことは一度としてなかった。
「お前、何をした」
レヴィアはサツキを見る。そして、違和感に気づく。彼を中心に、空気が揺らいでいる。濃密な殺気の渦が、ゆっくりと、だが確実に拡がっていく。奴隷魔物はこれにあてられた。力を『解放』する寸前の、サツキの殺気に。
ざらついた声が響いた。
「俺と遊ぶのは飽きたんだろ? 俺もだ。さっさと終わらせてやる」
そしてレヴィアはサツキの眼を見た。
瞬間、彼女の背筋を【何か】が貫く。全身に鳥肌が立つ。レヴィアはサツキの双眸から視線をそらせなかった。赤い瞳はその濃さを増していた。だがそれだけではない。球結膜に血管が走り、眼球一個が緋色の球体のようだった。
彼女の胸中で渦巻くのは、永らく忘れていた感情だ。それを感じたのは全面戦争で白竜ミル・カムイを見て以来だ。だから消えたと思っていた。超越魔物と成り、圧倒的強者として食物連鎖の上位に君臨し、眼にうつる全てを蹂躙する力を持った。
だからそんな感情はもはや自分の中から消え去ったのだ、と。
だがたとえどれだけ力を得ようと、どれだけ存在を高めようと、生物がそれから逃れることなど出来ない。生き残る為に埋め込まれた本能という枷は、理性を超えてその感情を喚起する。
レヴィアは今、恐怖を感じている。
「一撃だ。それ以上、お前などに必要ない」
サツキはレヴィアへ向かって歩き出す。
知らぬうちに彼女は後退り、その自分の行動に愕然とした。
「僕が、逃げるだと?」
手が震えていた。
いいようのない悪寒が背筋を走っていた。
そしてそのすべてが、彼女には赦せなかった。
恐怖の向こうから、燃え盛る怒りが現れた。
「超越魔物のこの僕が、人間を相手に後退る? 地獄に堕つ五芒星のこの僕が、あんな下等種族に、恐怖を感じているだと?」
レヴィアの面貌が憤怒に染まった。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなッ!」
血走った眼でサツキを睨む。
「たかだか人間が、調子に乗るなよ。魔獣狩りといいお前といい、よほど僕を苛つかせるのが好きらしいな。ああ、わかったよ。もういいよ。お前は僕が直接殺してやる。僕がこの手で殺してやる。僕の魔法で殺してやるよ!」
レヴィアの体内から膨大な冷気が噴き出す。複数の属性を持つ種族は感情によって魔力の性質濃度が変化する傾向にあり、水魔精はそれが顕著だ。喜びは水を呼び、怒りは氷を生む。
彼女の魔力の余波に、周囲が一瞬で氷結する。強烈な冷気はサツキにも降りかかり、皮膚が霜に覆われ、髪が凍っていく。
「一撃ってのは僕の台詞だよ。人間なんかにこんな魔法を使うのは本当に不愉快だけど、でも仕方ないね。お前は僕を怒らせたんだ。人間風情が、僕を怒らせるなんて、赦されるはずがない。下等種族が、ゴミが、クズがッ! 僕のお気に入りの唯一魔法で、永遠に死に続けろ」
彼女は本気だった。人間に恐怖を感じる、それは赦しがたい屈辱だ。ゆえに極大魔法を発動した。完璧な勝利のために。圧倒的な力で目の前の人間を殺し、雪辱をすすぐために。
だが、たとえ超越魔物であろうと。
たとえ極大魔法を放とうと。
サツキを殺すことなど、果たして出来るだろうか。
レヴィアが極大魔法を発動した瞬間、
鬼神が目覚めた。
レヴィアには、何が起きたのかわからなかった。
気がつけば膝から崩れ落ちていた。
身体が動かない。
重力が何倍にも膨れ上がったかのように、膨大な力場がのしかかる。
魔力による防御は間に合わなかった。いや、そもそも怒りに駆られ、サツキを殺すことしか頭になかったレヴィアが、防御など考えたのだろうか。魔力を極大魔法に注ぎ込み、ゆえにその身は剥き出しの無防備。
クシャルネディアでさえ分厚い魔力を纏わなければ正面に立つことさえできなかった超魔力を、レヴィアは至近距離から浴びたのだ。
血液と共に体内を循環する魔力が乱れると、身体の自由を奪われる。魅惑眼の原理だ。レヴィアの魔力は滅茶苦茶に乱れている。わずかに動かせるのは両の眼だけ。
見開かれた彼女の瞳に写るのは、途方もない化け物。
(これはなんだ?)
眼前のサツキを、レヴィアは放心しながら見上げた。
(この男はなんだ? この魔力はなんだ? なぜ身体が動かない? なぜ僕は膝をついている? 僕の極大魔法はなぜ消えた? なぜ僕は敵を前に、呆然としているんだ?)
脳内に膨大な思考の波が押し寄せてくる。死の淵に立たされたレヴィアの意識は極限まで圧縮され、体内時間が通常では考えられないほど緩やかに流れていく。
だからこれから起こることは一瞬だ。
無慈悲に魔剣が掲げられる。禍々しい音が響く。赤い刃が歪んでいく。いや、違う。魔剣に集中したサツキの魔力濃度に耐えきれず、空間が歪んでいるのだ。耳を聾する轟音は、空間が断裂する寸前の悲鳴だ。ただの魔力の凝集が、世界にすら干渉する。これがNo.11だ。唯一、黒竜ゾラペドラスに匹敵すると恐れられた化け物だ。
(なんだアレは、なんなんだこの魔力は、僕は人間と戦っていたはずだ、頭の悪い下等種族と戦っていたはずだ、それなのに、それなのに、目の前のこの男はなんだ? これは人間じゃない、こんな人間が、いるわけがない、一体、こいつはなんだ? これはなんだ? なんなんだ!?)
レヴィアの見上げるサツキの姿は、すでに人を捨てていた。
底無しの奈落を思わせる、緋色の双眸。
全身から噴き出す、赤い蒸気。
激流となった血流と魔力によって、蛇のようにのたくる血管。
異種族殲滅用生体兵器は皆、魔力の出力を上げる事によりその姿を変える。だがNo.11と同じ最初期製造兵器でさえ、これほどの変貌を見せたことはない。
全身の身体強化略式魔方陣には自己修復術式が組み込まれている。だが、絶え間ない激戦により損傷と再生を繰り返した結果、その術式の性質が変化した。天界の大賢者たちはそれを【欠陥】と嫌悪し、軍部の魔導師たちはそれを【進化】と呼んだ。【自己修復術式】は【自己増殖術式】となり、サツキの全身のみならず、細胞の奥深くにまで魔方陣を刻み込み、さらにはその遺伝子まで侵食していった。鬼神とは揶揄ではない。竜殺しとは比喩ではない。サツキは文字通り、【人を捨てて】いる。本来ならば肉体はその負荷に耐えられず、精神は崩壊し、その魂は塵と消えていただろう。だがサツキの強靭な精神力と、限界を超えた適合率がまさしく【進化】を彼に与えた。サツキは生体兵器を生体兵器たらしめるすべてを、完璧な制御化に置いた。
ゆえにサツキは人を超えた。あらゆる領域を超越し、異形の化け物と成った。
レヴィアの運命は決まった。
逃れられぬ死。
定められていた破滅。
決して覆すことのできぬ、絶望。
もはや恐怖はない。ただ、圧倒的な魔力を前に、レヴィアは涙を流した。そして魔語を呟いた。彼女は彼の名前を知らない。彼が何者なのかを知らない。だがその異形を前に、その赤い化け物を前に、そう呟かずにはいられなかった。
「鬼神・・・」
その言葉を遮るように、ざらついた声が無慈悲に告げた。
「言ったろ」
サツキの右腕が、赤い螺旋を纏った。
「一撃だ」
そして魔剣が振り下ろされた。
「馬鹿なッ・・・なんだこのでたらめな魔力はッ!」
ツァギールは立ち止まり空を見上げ、その異様な光景に鳥肌が立った。
空が毒々しい赤に染まっていた。
赤い突風が三人に吹きつける。
ただただ狂暴な、ただただ破壊のみを求める禍々しい魔力。先ほど浴びたクシャルネディアのそれを遥かに凌駕する、圧倒的な狂気に、ツァギールの背筋が凍る。
「始まったようだよ」
「らしいな。相変わらずヤベェ魔力量だ。こんだけ離れてるのに第六感がイカれそうだ」アニーシャルカはこめかみを押さえながらツァギールを見る。「おい、止まるな!マジで死ぬぞ!さっさと」
アニーシャルカが叫んだ瞬間、三人は生涯忘れることが出来ないであろう【音】を聞いた。
「ありえない・・・こんな魔力濃度・・・あり得るはずがない・・・」
マエルは立っていられず、膝を付く。天使の血を引く彼女の感受性は非常に高い。身体が震え、重力が何倍にも増したように動けず、知らずうちに涙が溢れ出る。滲む視界は夕陽に照らされたように仄赤い。空間を染め上げるほどの魔力濃度。天災に匹敵する、あるいはそれさえ凌駕する膨大は魔力の氾濫。
濃度、保有量、すべてが規格外。
だが、何より恐ろしいのはその色だ。
赤い霧が街を覆っている。
緋色の魔力は人間の証。だがどれだけの天稟を持って生まれたとしても、人間がこれほどの魔力を操る事など出来ない。戦前、まだ神の血の濃かった時代から生きる大賢者様でさえ、これほど甚大な魔力を御する事など出来ない。聖騎士様でさえ、堕天使様でさえ、そして超越魔物でさえ、不可能だ。そう、こんな魔力を扱う事のできる人間などいるはずがない。
それなのにこの魔力は、間違いなく人間の物だ。
ありえない。
こんな魔力を持った人間は存在しない。
この時代には。
そう、過去には存在した。
マエルの中で先ほどの男の姿が像を結ぶ。
灰色の髪。赤い瞳。異様な気配を纏った男。
「ああ、そんな、まさか・・・まさか・・・」
その可能性は考えていた。だがあり得ないと一蹴していた。その者たちはすでに滅んだ。もはや旧世界の遺物、文献にのみ記された、忌まわしき過去。そして、そうでなければならない。一体どれだけの亜人が虐殺されたのか。一体どれだけの異種族が絶滅に追いやられたのか。一体どれだけの神の血を引く者たちが死んでいったのか。竜血族を殺す為ならば、一切の見境なく、あらゆる物を犠牲とした殺戮者たち。ザルトニア砦防衛戦やサテルメージャ殲滅作戦により人類の被った被害の半数は、彼等の手によるモノではなかったか。
アレは滅ぶべくして滅んだ。あんな物は消え去らなければならなかった。
それなのに。
マエルは嗚咽しながら絞り出すように呟いた。
「・・・あの男は・・・あの男は・・・ドラゴンキラー・・・」
その時、涙に滲む視界が赤い閃光に呑まれた。
赤い力場が形成された瞬間、魔人と血魔は左右に跳んでいた。
禍々しい魔力に気を取られる時間は無かった。とてつもない『一撃』が放たれると、超越魔物の本能は嗅ぎ付けていた。
ただひとり、魔獣狩りだけが動かなかった。
緋色の奔流が天を焼く様を睨み、牙を鳴らした。
瞬間、赤い閃光が瞬いた。
音が消えた。
気配が消えた。
時の流れが塞き止められたかのような、不気味な一瞬がヤコラルフ全域を呑み込み
刹那、轟音と共に圧倒的な破壊が訪れた。
その剣の直線上に位置するすべてが、一切の例外なく両断された。
家屋が、教会が、城館が、市場が、区画が。
平民が、騎士が、魔術師が、亜人が、魔物が。
街そのものが、切断された。
ガルドラクの真横を、赤い閃光が走り抜けた。
クシャルネディアとザラチェンコは寸前でこの一撃を避けた。
だが人狼の眼は、その一撃の軌道を捉えていた。
直撃はしていない。だが掠めたその衝撃波だけで、二体の超越存在を相手取り余裕を保っていた人狼が、さらには金狼状態となりその身体能力を飛躍的に上昇させた魔獣狩りが、流血を許した。
皮膚が抉れた。
黄金の鬣がはらりと散る。
腕を血が流れていく。
体毛が逆立ち、四肢が膨れ上がり、ガルドラクは吹き荒れた魔力の残響を嗅いだ。
血と死。巨大な戦禍そのもののような、禍々しい臭い。
風に混じったざらついた嗤い声を、ガルドラクは聞き逃さなかった。
「なんだ」
すでに魔力の掻き消えた一点を睨み付けながら、ガルドラクは壮絶な殺意を込めて牙を剥いた。
「何がいやがる」
魔剣の赤い刃が溶けていく。
赤い力場が消えていく。
前方のあらゆる物が消滅していた。
痛いほどの静寂。
刺すような冷気が頭上から降りてくる。
サツキは足元を見た。わずかに残ったレヴィアの肉片。血に濡れた表面に、白い結晶が浮いた。雪だ。薄暗い空から雪が降り始めた。
サツキは無感情に、肉片を踏み潰す。
両断された街を眺め
「お前はこの程度じゃないんだろ?」
獣の気配に向け、嗤い
「なあ、魔獣狩り」
ざらついた哄笑が響き渡った。
サツキは歩き始める。
さらなる獲物を求めて。
獣の気配を目指して。
殺気と魔力の余韻が、サツキの背に巨大な赤い翼を広げた。




