10 トランシュディグル・トリレンマ
「おでましか」ザラチェンコは空を仰ぐ。狂暴な殺気が肌を咬む。数日前フューラルドで対峙した時とはまるで違う、研ぎ澄まされた獣の気配。鱗の一枚一枚が警戒するように逆立ち、魔人は曇天の一点を凝視する。蛇の眼が冷酷な光を湛える。
「まさか、ここまでとはな。これがガルドラクの本気か」
巨刃を構える。
同じように、クシャルネディアも上空を睨む。
濃霧のような血臭の中でも、圧倒的な存在感を放つ人狼の臭い。
遥か昔、夜の種族の血肉を分けた片割れ。魔力と闇魔法を引き継ぎ、血を糧に永遠の命を得た血魔。それとは対照的に、魔法を捨て、魔力のすべてを身体強化にのみ注ぎ込み、圧倒的な膂力と凄絶なまでの獣性を覚醒させた月の狼。神と魔神が天地を支配していた時代、魔の法則とは絶対的な意味を持っていた。魔力こそが強さの象徴であり、魔術こそが最大の武器となり、故にあらゆる種族が膨大な魔力を得るように進化していった。その中にあって、それらを捨てるとは、一体いかな運命の悪戯か。
だが、壮絶な淘汰を、獣は生き抜いた。
敵の喉笛を喰い千切り、その肉を喰み、骨を砕いた。
立ちふさがるすべてを裂き、潰し、屠った。
そして獣は成し遂げた。
己が肉体こそが最強の牙。
己が本能こそが最強の爪。
月の狼とは、闘う為だけに生まれた種族。
二百年を生きた人狼は長寿人狼と呼ばれ、もっとも畏れられる。
そして奴は、その中でも最強の個体。
獣の殺気がクシャルネディアの本能を咬み裂くが如く、空から押し寄せる。全身が、産毛の一本にいたるまで、彼女のすべてが警告を発する。同じ祖先を持つ同族、だからこそ迫り来る獣が、どれだけ危険な存在か、彼女の血が騒いでいる。
「このような狂犬を、主の前に立たせるなど」
クシャルネディアの面貌が、魔の本性を剥き出しにする。
「あの方の『剣』として、それは赦しがたい屈辱だわ」
右腕を天に掲げる。
同時に、街中の血の海がクシャルネディアに向かって這い進む。ここに来る前に、彼女は自らの血液をあらゆる場所にばらまいている。さらには先ほどザラチェンコに切り刻まれた瞬間にも、意図的に血潮をぶちまけている。祖なる血魔の魔力はあらゆる血を支配する。そして血とは彼女にとって魔力の源泉、いまのクシャルネディアは死都という巨大な魔力貯蔵庫を携えているような物だ。
クシャルネディアの足元に集まった血が、右腕を覆っていく。
外部に魔力を貯蔵する利点は二つある。
ひとつは、魔力保有量の上昇。魔術師が宗教儀式や長期戦などの際、自身では到底保有出来ない量を確保する事ができる。水魔薬などがこれに該当する。だがこれは人間での話だ。クシャルネディアのような魔物からすれば、外部貯蔵などあまり意味をなさない。
重要なのは二つ目だ。
クシャルネディアの右腕が赤黒く染まり、蠢き、形を変える。掌から肘にかけて裂け、そこに大量の血が流れ込み、肉と骨が渦巻き、おぞましい形状と成る。醜悪な怪物の顎とでも形容すればいいか、彼女の右腕は巨大化し、血管がのたくり、高密度の魔力に覆われる。さらに薔薇の蔦が絡まり、あらゆる毒虫の外骨格が浮き出し、そして残忍な乱杭歯を打ち鳴らす音と共に、蕾が開花するように、腕そのものが巨大な口となって開かれる。
砲口。
彼女の腕は邪悪な砲口と化している。
そう、外部貯蔵の利点はまさしくこれだ。
魔術師用語で装填と呼ばれる技術。あらかじめ魔力を練り上げておくことで、発動短縮術式による威力軽減を起こすことなく、瞬時に魔法を発動する。どれほど才に恵まれた者でも、上位魔法を仕込んでおくのがせいぜいだろう。だがクシャルネディアからすれば、極大魔法を練り上げることすらたやすい。
クシャルネディアは空に狙いをつける。
同時に、ザラチェンコも剣の鋒を天に突きつける。
冷たい魔力が渦を巻く。彼も魔法を使う気だ。
もっとも、魔法剣士であるザラチェンコはクシャルネディアほどの技術を持ってはいない。彼女に匹敵する使い手は世界でも数名だ。ゆえにザラチェンコが発動するのは上位魔法。
だが、上位魔法と侮るな。この男は地獄に堕つ五芒星。イビルヘイムが認めるほどの魔人。そして何より、今の彼の手には英雄剣がある。
母親である岩蛇の女帝の生み出した剣は、その刃に膨大な魔力を宿している。それが彼の魔力に呼応し、多層的連鎖爆発を起こす。力が膨れ上がり、破壊力が数段引き上げられる。蛮勇の騎士でさえ引き出せなかった、英雄剣の真の力。
魔人は嗤い、血魔は牙を剥く。
眼前に殺すべき敵がいるというのに、二人の殺意は人狼にのみ向けられている。
殺さねばならない。
そう二人に決意させるほどの、圧倒的な殺気。
曇天の空に。
そして獣が現れた。
クシャルネディアの魔法が放たれる。超高密度の魔力を核とした、血の巨弾。広範囲殲滅型の極大魔法。過去、彼女はこの魔法により街をひとつ死都へと変えている。
ザラチェンコも魔法を発動する。それはあらゆる対象を永劫の石化に閉じ込める、岩蛇の女帝の唯一魔法。
二つの魔法は折り重なり、奇しくも連鎖魔法のような様相をていした。
直撃すればあらゆる生命が死滅するだろう。
二つの魔法は獣に迫り。
そして
音の爆発。
すべてが吹き飛ばされる。
降り注ぐ極大魔法の残滓と共に、獣が降り立った。
呼び名は様々だ。月の狼。長寿人狼。飛竜喰い。
そして魔獣狩り。
最強の人狼。
ガルドラク・ド・ガルガンジュ。
「咆哮ひとつで極大魔法を消し飛ばすとは、笑えるくらい圧倒的だな」魔人は称賛の拍手を送る。「さすがは魔獣狩りだ」
「テメェか、ザラチェンコ」
「どうやら俺の事を覚えていてくれたようだね。光栄だよ」
「オレは強い奴だけは覚える事にしている。愉しみが増えるからな」ガルドラクはザラチェンコを睨み、視線をクシャルネディアに移す。「新顔だな。あのガキはどうした。鞍替えでもしたか」
「あいにくレヴィアなら遅れていてね。わざわざ君の方から出向いてもらったというのに、本当に申し訳ない。だが安心してくれ。彼女は君の事を殺したくて殺したくてたまらないと口走っていたよ。すぐに駆けつけるさ」
「残念だけど、あの水魔精は来ないわ」
クシャルネディアは微笑する。
「あれは身の程をわきまえない哀れな子羊よ。挑む相手を間違えたのよ。まるで炎に向かう蛾のようね。彼女はじきに死ぬわ」
「始祖の言葉を否定するほど礼儀を知らない訳じゃないし、確かにレヴィアは俺より一枚落ちるが、しかし仮にも彼女は超越魔物だ。そう簡単に死ぬとは思えないがね」
「そう。信じなくてもいいのよ。すぐにわかるから」クシャルネディアは話を打ち切るように微笑を消し、魔獣狩りを射る。人狼は凄まじい殺気を纏い、その眼は獲物を前にした獣のそれだ。彼はザラチェンコを、そして彼女を獲物と認識している。
「実に不愉快だわ」
クシャルネディアの体内から黒い魔力が溢れ出す。祖なる血魔とは絶対的な捕食者。あらゆる生物は血を啜られる為の生き餌。だが、眼前の人狼からすれば、彼女すらただの肉。高潔なる血族に名を連ねるクシャルネディアの品位も、誇りも、獣の眼には等しく無意味。それでいて血を辿れば行き着くのは同じ起源。姿は違えど、明らかに同胞。その事実が、クシャルネディアに屈辱を与える。
だが何より不愉快なのは、この人狼があの方に牙を剥くということだ。
相対すればわかる。これは狂犬。この獣は必ずサツキに牙を突き立てる。
魔獣狩りはサツキ様の獲物。それは重々承知している。だが【殺戮の剣】である以前に、私はサツキ様の忠実なる奴隷。もちろん忠誠などあの方の望む物ではない。いや、むしろサツキ様からすれば忠誠心など、もっとも唾棄すべき感情かもしれない。種の頂点に君臨する存在が頭を垂れ、跪くなど、サツキ様からすれば不愉快であろう。あの方が求めているのは剣。黒竜までの道を切り開く【殺戮の剣】。そこには絆や忠誠など介在する余地はなく、ただ【力】を行使する、圧倒的な【暴力】として在ればよい。クシャルネディアもそう徹するべきなのだ。それはわかっている。だが、あの夜、それでも彼女はサツキに忠誠を誓ったのだ。三百年前のあの日に、そう決めたのだ。血魔にとって血の誓いとは、何よりも重い。
だからクシャルネディアは冷たく言い放つ。
「あの方がここに来る前に、貴方を殺すわ」
決然たる真祖の言葉に
「オレを殺す? そいつはイイ考えだ」
魔獣狩りは狂気の笑みで応えた。
「この臭い、血魔か。テメェ等はたいして美味くねぇんだがな」ガルドラクはぞんざいにクシャルネディアを睨める。「アア、だがただの真祖じゃなさそうだ。オメェなんだ? 闇王にしてはなかなか見所がありそうだ」
「あのような下級存在と私を同列に扱わないでくれる? 虫酸が走るわ」
「おいおいガルドラク、いくら君が無知だからといっても、少し非礼が過ぎるんじゃないか? こちらの淑女は非常に高貴な血筋の御方だ。始祖の中の始祖、血の中の血、まさしく濃血というやつだ」
「祖なる血魔か。どうりでイイ魔力をしてやがる」ガルドラクは嬉しそうに嗤った。「精霊のガキに、岩の蛇に、原初の血か。少しは楽しめそうな面子だ」
「実に傲岸不遜な発言ね。知性の欠片もない獣なのだから仕方のない事なのかもしれないけれど、だからといって貴方を赦すほど私は慈悲深くないわ」
「うるせえ女だ。骨まで喰らってやろうか」
「貴方に出来るかしら」
「こういう挑戦的な野郎は久しぶりだ。最近は雑魚ばかり相手にしてたからな、ようやくまともな殺し合いができそうだ」
「おいおい、喧嘩はよしてくれ。せっかく超越魔物が一ヶ所に揃ったんだ。こんな機会は滅多にない。どうだ? ここはひとつ争いなど忘れて、和気あいあいと語り合おうじゃないか。実は取って置きのジョークがあるんだ。といってもこのまえ闇王どもに披露した時はひどく不興を買ったんだが・・・思うに彼等には品性と教養が足りなかったのだろうな。だがクシャルネディア、君なら笑ってくれると信じているよ」
「貴方のそのふざけた態度、別に嫌いじゃないけれど、時と場所をわきまえた方が良いんじゃない? それとも穢れた血筋の魔人には、そんなことすら理解できないのかしら」
「クシャルネディア、俺の血を侮辱するなと先ほど忠告したはずだ。 まったく、血魔という種の不遜で貴族的ふるまいには本当に失望するよ。顔は好みなんだが、君の性格は遠慮願いたいね。そういう意味ではレヴィアに似ているな」
ククッ、とザラチェンコは洩らし
瞬間、特大剣が消えた。
そこはすでに魔人の刃圏。
横ざまの一刀はクシャルネディアを狙ったと見せかけ、その実ガルドラクへの不意打ちだ。狡猾さとは蛇の特権だ。
残像さえ残さぬ一撃は空を裂き、クシャルネディアを掠め、人狼の首を狙う。
「なかなか疾い剣だ。だが、重さが足りねえよ」
しかし、魔獣狩りには届かない。
クシャルネディアの肉体を軽々と解らしたザラチェンコの一撃を、ガルドラクは右腕で受け止めていた。
水中においてさえ巨海獣を上回る膂力。飛竜の牙さえ防ぐ銀毛。おそらく最上級竜と異種族殲滅用成体兵器に匹敵する身体強度を持つのは月の狼だけだ。
人狼の爪が巨刃に食い込む。超硬質の岩の表面に砂煙が立つ。なんという握力。ガルドラクは特大剣を抉り折る気だ。
ザラチェンコは強引に剣を引き抜く。表面に残された爪痕は蛇の魔力に呼応し、瞬時に再生する。彼が持つ限り、特大剣は永遠の切れ味を保証される。
「この剣を素手で止めるか」ザラチェンコは嗤いを消した。その表情には、もはや一分の隙もない。「やはりあの夜とは段違いだ」
「噂通り、いえ、それ以上の狂犬ね」
クシャルネディアは魔力を纏う。空間に亀裂が走り、彼女の眷属たちが威嚇の唸りを上げる。
二体の超越魔物の殺気を浴び、ガルドラクは狂喜に唸る。
獣の殺意が彼の周囲を歪ませる。
「オレは餓えている」
ガルドラクは牙を剥く。
「オレは渇いている」
人狼の全身から噴き出す闘気に、一瞬、二人は気圧される。
彼等が気圧されるなどいつ以来か。
その感覚にザラチェンコは敬意の念を感じ。
クシャルネディアは屈辱に眉をひそめた。
「二人同時に来い」
狂暴な唸りと共に、黄金の双眸が獲物を捉えた。
「アア、オレに死闘を与えてくれ」
「ひでぇ有り様だ。この街はもう駄目だな」
血と死体。崩壊した建物。こだまする悲鳴。走りながらアニーシャルカは呟く。
「超越魔物が暴れているんだ。大都市とはいえ、長くは持たないよ」
ロイクはアニーシャルカに並ぶ。
「しかしバルガスくんが心配だ。広場で見たのが最後だ」
「大丈夫だろ。アイツはそう簡単に死なねえよ。ガキの頃からの付き合いで、わたしはアイツを知ってる。あの馬鹿は昔から肝だけは誰よりも据わってやがる。修羅場になればなるほど力を発揮するタイプだ。心配は無用だ。だいいちよ、過酷な状況を生き抜くってのも仕事のうちだし、最悪死ぬ覚悟も出来てる。オメーもそうだろ。わたし等は王国ギルドの人間だ。それ以上でも以下でもねぇ」
「確かにそうだね。こんな心配は、バルガスくんを侮辱することになる。悪かった」
「気にすんな。禁足地での失敗を引きずってんだろうが、忘れちまえ。わたしだってヘマをやらかす時はやらかすんだからよ」そう言うとアニーシャルカは苦笑する。「いや、そもそもこの仕事自体がたちの悪いヘマみたいなもんだけどな」
彼女は前方を走る猟犬に視線を向ける。
「噂に聞いちゃいたが、ザラチェンコって野郎があんな化け物だとは予想外だったぜ。オメーんとこの騎士団はとんでもねえな」
「なぜ僕についてくる」ツァギールは前だけを見つめ、しかし冷ややかな声を後方へ送る。「僕と貴様等は敵同士だと忘れたのか?」
「なんだよ、共闘した仲だろ。昨日の敵は今日の友ってママに教わらなかったのか?」
「減らず口を」
「冗談だよ。わたし等よりオメーの方がこの街について詳しいだろ。脱出するならテメーに先導してもらった方が楽だと思っただけだ。それに今は一時休戦だろ。まさかあんな化け物どもに混じって殺し合いがしたいほど、酔狂なわけじゃねえんだろ?」
ツァギールはしばらく黙っていたが、肯定するように鼻を鳴らし、急に立ち止まる。
前方の道が瓦礫で塞がれていた。乗り越えるには高すぎる。迂回するしかない。
三人は道を引き返す。自然と歩いていた。現状は限りなく最悪に近く、一刻も早くこの街から脱出したいが、先ほどの戦闘の負傷は軽くはない。走ったことにより傷口は開き、血が流れ出している。修羅場を幾つも潜り抜けて来た三人だ。応急処置はしてあるし、痛みの殺し方、気力の保ち方も心得ている。だが、それでも超越魔物を相手にしたのだ。三人が内に抱える肉体的、精神的疲労は想像を絶する。ゆえにほとんど無意識に、彼等は歩いていた。
「先ほどのあの女」額から流れる血を拭いながらツァギールが口を開いた。「アレは血魔だ。それも僕が過去遭遇したどの魔物よりも強大。正直、あの魔力を浴びたとき、僕は死を覚悟した。だがあの女は貴様等に一瞥をくれただけで、僕たちを見逃した。なぜだ?」
「さあ、たまたま居合わせた親切な魔物なんじゃねーか?」
「ふざけるな」
「相変わらず冗談の通じねー野郎だ。少しはオメーの騎士長を見習えよ」
「あの人に習う事があるとすれば、それは剣だけだ。人間としてみれば、あの人は最低の部類だ」
「手厳しいな」
「話をはぐらかすな」
「たとえばな」アニーシャルカは面倒臭そうに頭を掻く。「たとえば王都の第三区画の幸せなガキが冒険者に憧れ、王国ギルドの門を叩いたりする。あるいは学術院や騎士院の学生どもが名声を夢見て第四区画に足を踏み入れる。いや本当に、バカどもだ。ああいう奴等は何も知らねえ。別に知らねえことが悪いわけじゃねえ。学べばいいんだからよ。だが残念なことに、大抵の奴は学習する前に死ぬ。闇市場に比べりゃマシでも、結局王国ギルドも肥溜めに変わりはねぇしな。素直に王国騎士団にでも入ってりゃ長生きできるのによ、やらなくていいことをやりやがる。余計な事に首を突っ込むから死ぬハメになる」
「不愉快な例え話だ。僕がその馬鹿どもだと?」
「どうだか。案外わたし等もそういう手合いの一人かもな」
「君にしては自嘲的だね」ロイクは少し考え、同意するように頷く。「まあ、確かにそうだ。関わってしまえば、もう引き返せはしない。何せ彼女は女王だ」
「猟犬、オメーならわかるんじゃねーか? ひれ伏すのは騎士の誉れだろ? 生憎わたしは傭兵崩れの魔法剣士だから忠誠心なんぞわからねーけどな。まあ、アイツ等といれば少なくとも退屈はしねぇ。だからって今回みたいな仕事は、金輪際願い下げだがな」
「女王だと?」
ツァギールは眼を細めた。血魔において、女王と呼ばれる存在はただひとりしかいない。いや、薄々は気付いていた。アレほどの魔力、アレほどの殺気。考えられる名はひとつだけだ。
「まさか」
「そういうことだ」
「貴様等ユリシールが殺したと聞いていたが」
「そういう話になってるが、あんな化け物殺せるかよ。人間の手に負える存在じゃねえ。だが、まあ、ある意味それは間違っちゃいない。少なくとも、ユリシールはあの女を無力化した。今のアレは、少なくとも大人しくはしてる。その事実に変わりはねぇ」
「およそ信じがたい話だ」
「この国にも人狼がいるだろうが。アレだって大人しくしてるんだろ?」
「魔獣狩りか。奴は大人しいんじゃない。退屈しているだけだ。だが一度暴れはじめると取り返しのつかない事になる」
「ブラックリストに名前がのってるんだ。イカれてんのは間違いねーだろうな」
「お喋りはそのへんで切り上げて、そろそろ走らないかい?」
ロイクの言葉に、二人が同意するように足を早めた時、背後から彼等を追い抜く人影があった。
「ひでぇなりの女だ」
駆けていく背を眺めながら、アニーシャルカは呟いた。
女は白銀の髪を振り乱し、必死に駆けていた。すれ違いざまに眼にした横顔は彫刻のように美しく、時折のぞく項は白磁のようだ。だが、女は悲惨な格好をしていた。
生傷の広がる皮膚。血の染みた衣服。臓物に汚れた四肢。特に酷いのは右腕だ。あきらかに骨が砕け、肉が裂け、おそらく切断以外に選択肢がないほどに痛め付けられている。普通の人間なら痛みに意識を失うような怪我だが、女はそんなことを気にする風もなく、懸命に走っていた。まるで何かから逃げようとしているかのように。
「せっかくの美貌が台無しだね」
「生きているだけマシだろ」
「あの女、帝国の人間じゃないな」
瞬間、後方から凄まじい破砕音が轟き、砂礫が三人を打った。
「おいおい、今度はなんだよ」
アニーシャルカは毒づきながら振り返る。
瓦解した街並み。何軒もの建物が、一瞬で倒壊していた。
たちこめる砂塵の中で、何本もの触手がうねった。
「人間のくせに、やけに堅いな。面倒臭いなー、さっさと死んでくれない?」
嘲るような声が響いた。
風に砂塵が押し流される。
異形を纏った少女が、瓦礫の中に立っていた。
身体から十数本の長大な触腕が生え、その周囲を怪魚の群れが游いでいた。
少女から漏れ出した魔力が、水のように辺り一面を呑み込んだ。
「まいったね」押し寄せる魔力に鳥肌を立てながら、ロイクは少女を見た。「どう考えても、あれは超越魔物だ。この街は一体どうなっているんだい?」
「さあな。まあ、この街が地獄であることに変わりわねえ。さっさと逃げるぜ。さいわいアレはわたし等なんか眼中に無さそうだ」
またしても凄まじい衝撃音が耳を聾した。
何本もの触腕が、連続して降り下ろされる。
壮絶な破壊の連鎖。
あの少女が何と闘っているのか知らないが、あれではもう勝負はついているような物だ。あんな一撃を数十回と叩き込まれて生きていられる存在などいるはずがない。
だが。
「やべーぞロイク。今すぐ死ぬ気で走れ。オメーもだ猟犬。この街を出るまで一歩も立ち止まるな。肺が破裂しようが足を動かし続けろ。もう一秒だってこんな場所にはいられねぇぞ」
舌打ちをし、アニーシャルカは顔をしかめた。
彼女は見た。一瞬だった。だが見たのだ。
砂礫が降り注ぐ破壊のただなか。
触腕の打擲に血を流す人影を。
砂煙に浮かぶ緋色の双眸を。
そして聞いた。微かに、だが確実に。
狂気を宿した、ざらついた嗤い声を。
「まさか、彼かい?」
「ああ、そのまさかだ」
「なんの話だ」
二人の会話が理解できず、不審そうにツァギールは問う。
だがアニーシャルカは無視するように、一言吐き捨てると、すでに駆け出していた。
「そうだ。あの魔物の相手は間違いなくアイツだ」
アニーシャルカは思う。相手が何にしろ、たとえ超越魔物だろうと無意味だ。アレは嵐だ。どうしようもない天災だ。わたし等に出来ることは、ただ近づかないことたけだ。
陰鬱な曇り空。血と死の臭い。誰にともなくアニーシャルカは呟く。
「サツキのお出ましだぜ」




