8 ダークナイト
「俺の剣をここまで躱すとは、なかなか筋のいい男だ」
酷薄な嗤い声をあげながら、男がゆっくりと広場に姿を現した。人間離れした灰白の肌、血に黒ずんだ鎧、冷気のよう殺気を漂わせる冷たい男。その姿だけですでに異様だが、何よりその肩に担いだ尋常ならざる巨刃が眼を引く。二メートルを超える剣身はまるで岩塊のように重々しく、その刃は断崖を思わせる荒々しさ。およそ人間が操るには不釣り合いな、特大の剣。
「さすがはユリシール王国ギルドの十闘級といったところかな?」男はロイクの健闘を称え、しかし悲しそうに首を振る。「だが、さっきのはいただけない。いくら自分の腕に自信があるとはいえ、俺の剣を、それもこの特大剣を受け止めるには、君の肉体と剣術は些か脆弱すぎる。いや、悲しむことはない。俺と君とではそもそも存在が違いすぎる。虫が巨人の一撃を止められないのは当然のことだ」
男は立ち上がったロイクを一瞥し、その両隣に立つ二人を見る。
「やあツァギール、こんな所にいたのか。君が怪我を負っているとはめずらしいな。そっちの女にやられたのか?・・・ああ、君の顔、知っているよ。雷刃だろう?これは驚いた。まさか王国ギルドの切り札が二人も帝国に侵入していたとは、いやはや国境警備に不備がある証拠だな。アレほど上層部に進言しておいたというのに、一向に見直す気配がない。俺が総騎士長なら将校の二、三人、晒し首に処すところだが、あいにく俺にそこまでの権限はない。権力と政治、それに特権階級どもが絡むと法則がややこしくなって駄目だな。俺は単純明快なのが好きだ。もっとも原始的で、本能に忠実な、完璧な法則がな。君たちもそうだろう?」
男はゆっくりと三人に近づいてくる。
「野郎は誰だ。オメーの知り合いか?」
アニーシャルカはツァギールを見る。彼は眉間にシワを寄せ、彼女の問いを無視するように眼の前の騎士に向かって叫ぶ。
「騎士長ッ!」
「そう大声を出さなくても聞こえている」
「この非常事態に、一体いままで何処にいたのですか。貴方がいない間に、凄惨な事件がたびたび起こっています。・・・それにその姿、まるで数日間戦場に身を置いていたかのような返り血だ。まさか、いや、あり得ないとは思いますが、今ヤコラルフで起きている災禍に、貴方は関わっているのですか・・・?」
「すべてが俺の仕業じゃあないが、そうだな、俺が手を引いてると思ってもらって差し支えない」ザラチェンコは血濡れの鎧を晒す。「ついでに言うと、今一番新しい返り血はゲルマンのものだ」
「まさか、我等同族を殺したと言うのですかっ!」
「同族?君たちが俺の仲間だというのか? ククッ、よしてくれツァギール。俺が帝国に忠誠を誓い、同胞の為に剣を取る男だと、そんな絵に描いたような騎士だと、まさか本当に信じていたわけじゃあるまい。俺が忠誠を誓うのは父上と母上の血、そして俺の見出だした世界の法則にだけだ。それこそが俺の騎士道の根幹なんだよ」
ザラチェンコは嗤い、三人を睨めつける。
「しかしちょうどいいところで君たちに出会うものだ。魔獣狩りが来るまで退屈していたところなんだ。退屈とはもっとも唾棄すべき事象だと思わないか? いや、勘違いしないでくれ。俺も時間を浪費するのは好きだ。帝都三番街の路地裏に行きつけの喫茶店があるんだが、ここの珈琲とシルニキが絶品でね、三日に一度は足が向く。いいか、想像してみてくれ。酸味の強い濃い珈琲と、糖蜜のたっぷりとかかったパンを、午後の陽射しの射し込む窓辺でゆっくりと食す・・・至福の時だ。そういう時間は好きなんだ。だがなあ、こんな辺境の寒空の下で、頭のイカれた人狼を待ってるだけなんていうのは、もはや時間という概念への冒涜だよ。そこで提案だ。少し俺と遊んでいかないか? 安心してくれ。三人いっぺんでかまわないし、それにもちろん人間として、第八殲滅騎士団 騎士長として相手をしてやる。でないと、すぐに終わってしまってつまらないからな」
ククッ、と嗤いザラチェンコは巨刃を構える。
「騎士長だと? じゃあアイツがアストリッドのいってたザラチェンコって野郎か」
アニーシャルカはロイクを横目で見る。
「オメーがそこまでボロボロにされてんだ。マジでヤバい野郎みてえだな」
「アストリッドがあの男の話をした時の様子を覚えているかい? 隠してはいたが、間違いなく怯えていた。それにソロモンは彼に『遊ばれた』と言っていた。どうやらその話は本当だ。あの男はマズいよ。おそらく人間じゃない」
「剣を交えたんだろ。どの程度ヤバいんだ?」
「あそこにクシャルネディアが立っていると思ってくれ」
その言葉にアニーシャルカは舌打ちする。
「そりゃマジでヤバいじゃねーか。クソッ、逃げるか?」
「君にしてはずいぶん弱気だね。いつも強敵と闘いたがっているじゃないか」
「限度があるぜ。超越魔物並の化け物と殺り合ってられるかよ。そもそもまともな勝負にならねえ」
そう言うと、ザラチェンコに叫びかける。
「こっちはオメーと遊びたくないんだけど、断るのはアリか?」
「騎士として淑女の願いを無下にするなんていうのは些か心苦しいが、しかしさっきも言ったと思うが俺は退屈している。悪いが俺の申し出を受け入れてくれ。さいわい今日の俺は気分がイイ。楽しませてくれるなら苦しまずに殺してやる」
「だとよ」アニーシャルカはツァギールを見る。「あの調子じゃオメーも獲物の一人に入ってるな。一時休戦にするか?」
「まさか、あの人と闘う気か?」ツァギールはザラチェンコから眼を離さず、冷たく呟く。「死ぬぞ」
「まず第一に死ぬ気はねえ。第二に闘らずに済ませられる空気じゃねえ。そして第三に、死ぬにしろ黙って殺されるより闘って死ぬ方が百倍ましだ」
「なるほど。頭のイカれた女だと思っていたが、多少はまともな言葉を吐けるらしい」
「いちいち癇に障ることを言うんじゃねえよ」
「これでも誉めたつもりだがな」
ツァギールは湾曲剣の切っ先をザラチェンコに向ける。非情な笑顔を浮かべ、常軌を逸した刃を担ぐ、歴代最強の帝国騎士。
「その剣には見覚えがあります。蛮勇の騎士が愛用していたという特大剣。レオニード辺境伯の所有する美術品だ。騎士団だけでなく、貴族にまで手を出し、あまつさえ英雄の剣を奪うとは。帝国への反逆は死をもって償うより他にない」ツァギールは殺意を込めて言葉を紡ぐ。「仮にもジュルグに命を捧げた騎士として、その剣がどういう意味を持つのかわからないわけではあるまい。その剣は暗黒の時代から帝国を護り抜いた騎士の、誇り高い英雄剣だ。それを逆賊が持つなど・・・騎士長、貴方は恥すら忘れてしまったらしい」
「それは違うな。この剣はただ本来の持ち主の元に返ってきただけだ。それとなツァギール、ひとつ忠告だ。いいか、俺の眼の前で、軽々しく、蛮勇の騎士について、語るな」
ザラチェンコの顔から表情が消える。
「貴様に何がわかる。人間風情が、あまり図にのるな」
絶対零度の殺気が広場を覆い、三人の背筋を戦慄が走り抜けた。
「おいおい、冗談じゃねえぞ」アニーシャルカは奥歯を噛み締め、二刀の斧刀を構える。「マジもんの化け物じゃねーか」
「そういったろう」ロイクも曲刀を突き出し、絞り出すように呟く。「あの男は怪物だ」
「この殺気、人間のモノではない」ツァギールは震えそうになる指先に力を込め、湾曲剣を握り締める。「やはり貴方は『別物』だったか」
この三人だからこそ対峙できるのだ。ただの人間なら、この殺気を向けられた時点で戦意を喪失し、殺されるのを受け入れるかもしれない。数々の修羅場を潜り抜けてきた三人だからこそ、立っていられるのだ。
「いや、失礼した」
不意にザラチェンコは笑顔を取り戻す。
それまでの殺気が嘘のように消え、軽快に喋りだす。
「少し頭に血が上ってしまったようで、悪かった。前任の殲滅騎士団騎士長は常々(つねづね)部下たちにこう言い聞かせていた。『氷のように冷徹であれ』とな。感情に振り回されているようでは、殲滅騎士団失格だ。ジュルグ帝国初代皇帝 ベルナルトゥーム一世も同じようなことを言っている。曰く『怒りは力を生み、代償に剣を鈍らせる』。いやはや、全くその通りだと思わないか? よどみない精神の安定こそが剣の冴えを引き出し、騎士としての矜持を維持する最良の薬だ。そして俺が猟犬に説いた言葉がこれだ。『蛇の冷酷さを身に付けろ』。こんなことばかり喋り散らしているから、俺は蛇蝎のザラチェンコなどと陰口を叩かれるのかな? だが、その渾名はなかなか言い得て妙だ。蛇蝎とはね。ククッ、そう、俺は冷血で、無慈悲で、だが諧謔を理解する、蛇だ」
ザラチェンコの瞳孔が縦に伸びる。
瞬間、三人の鼻先を特大剣が薙いだ。凄まじい速度。髪先が焦げる。空間が震える。全員の身体に冷や汗が出る。
「俺が殺気を引っ込めたことで、油断したな。よくないな。あと半歩踏み込んで剣を振るっていたら、この遊戯は始まる前に終わっていたところだ。いいか、君たちは俺から一撃さえもらうことは出来ないんだ。気を引き締めろ。死にたくないならな」
ザラチェンコは三人が覚悟を決め、恐怖を殺し、闘志を燃やすのを認めると、快活に言い放った。
「それじゃあ、始めよう。少しは楽しませてくれよ」




