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ドラゴンキラー  作者: あびすけ
第三話 魔獣狩りの人狼編 後編
65/150

5 パーフェクト・ヴィラン







 ザラチェンコが歩くと回廊の床は赤く汚れた。陽気に剣を振り回すと、天井や壁に血が飛び散った。藍鉄色あいてついろの鎧は血を浴び、黒ずんでいる。鼻唄を奏でながらザラチェンコは軽快に歩む。


 焼け焦げる匂いが鼻をつく。窓外に黒煙の筋を見る。倒れた燭台か、調理部屋が火を噴いたか、あるいは武器庫の魔術道具が暴発したか・・・ザラチェンコに蹂躙された城館に、炎が広がりつつある。だが逃げ出す者などいない。火事を叫ぶ者も、侯爵の身を案じる者も。もはやこの城館に生きている人間はわずかだ。


 豪奢な装飾の目立つ扉の前でザラチェンコは立ち止まった。


 重厚な扉を開け放つ。


「これはこれはレオニード侯爵、お楽しみの最中だったかな?」遮光カーテンの引かれた室内は薄暗く、ランプの明かりが蠱惑的に部屋を照らしている。巨大なベッドがひとつ置かれている。性奴隷たちをはべらせたレオニード侯爵が中心に寝そべっている。様々な種族の奴隷たち。人間、エルフ、獣躯デミルド。男も女もいる。唯一の共通点は、彼等がまだ『子供』だということだ。ザラチェンコはやれやれといったように首を振り、大仰なため息をつくと、軽蔑を込めて嗤った。「しかし顔と同じで下品な趣味だ。もう少し身の程をわきまえたらどうなんだ?豚は豚らしく、畜生と交尾するべきだと思うが」


「なんだ貴様は」


 驚いたようにレオニード侯爵は眼を見開き、ザラチェンコを凝視する。


「まさか、俺の顔をお忘れかな?これでも殲滅騎士団騎士長として多少は名も知れているはずなんだが、俺の勘違いだったかな」


「貴様は・・・猟犬の騎士長か?」レオニード侯爵は眉間にしわを寄せ、巨体を揺らした。侯爵は豚のように太った青白い男だ。全裸の、だらしない肉体は醜く、まるで豚のようだ。性欲と食欲のみで生きている肉塊、すべての貴族がそうであるようにプライドだけは人一倍高い。侯爵は闖入者ちんにゅうしゃが自分より身分が低いと見てとると、昂然と怒りだした。「猟犬が一体なんの用だ。いや、そもそも誰の赦しがあって貴様はここにいる。私はなんの報も受けていないし、それにその口の聞き方はなんだ。私は侯爵だぞ。私はレオニード・チェスノーリン辺境伯だぞ!殲滅騎士団騎士長といえど、どこの馬の骨とも知れん賤民が、私に対する無礼な態度、まったく赦せん。元老院や帝国騎士団総長に頼めば、貴様の首など簡単に飛ばせるのだぞ。私の兵たちは何をやっておる」


 レオニードは叫ぶ。


「いますぐこの男を連れ出せ!」


「悪いが、貴様の兵たちは来ない」ザラチェンコは両腕を広げ、血に染まった鎧を見せつける。「なかなか鍛えられた良い騎士たちだったよ。猟犬までとはいかないが、第五戦魔騎士団に匹敵する実力は感じられた。だがなあ、ククッ、相手が悪すぎた。なにせ俺は歴代最強の帝国騎士だ。忘れているようだから教えてやる。俺の名はザラチェンコだ」


 ザラチェンコはレオニードに近づく。傲慢だった侯爵の表情が変わる。兵士を殺し、貴族の館に侵入するなど帝国騎士の振る舞いではない。目の前の男が完全にイカれていることに気づいたのだ。


「待て、こっちにくるな」


「俺の名はザラチェンコ・ホボロフスキーだ。しっかり覚えておいてくれ」


 レオニード侯爵の右くるぶしから先が斬り飛ばされた。鮮血が純白のシーツを汚し、血飛沫が奴隷の頬を濡らす。灼熱の激痛が侯爵を貫き、長い長い悲鳴が上がった。


「どうだ、痛いか?思うんだが身体の一部を切断されるというのは、痛みもそうだが何より精神的にクるものだと俺は思うんだ。裂傷や骨折ならいずれ完治するが、欠損というものは永遠について回る。自分の一部を、いわば魂の一部を奪われたようなものだ。レヴィアがあそこまで怒り狂っているのも、やはり腕を切断されたからだと思うんだが、侯爵、貴様はどう思う?やはり肉体の欠損は相当心にダメージを与えるものかな?せっかく身をもって味わったんだ、是非教えてほしいね」


「貴様・・・貴様・・・!これは、完全に、帝国への、反逆だぞ!一体、何が、目的だ!」


 痛みにあえぎ、侯爵は叫ぶ。


「俺の目的?」ザラチェンコの瞳孔が縦に伸び、冷気のような魔力が漂う。「俺の目的はただひとつ。剣を返してもらうことだ」


「剣・・・だと?」


「そう、貴様の所有している剣だよ。蛮勇の騎士ギロイ・リッツァの振るった特大剣グレートソード、アレは本来俺が持つべきものだ。わかるか?」侯爵の左踝から先が切断されると。激痛と絶叫。「貴様のような豚が持つには、我が父君の魂はあまりにも尊い」


「た、頼む、やめてくれ・・・金なら、いくらでも、払う、女も、領地も、なんなら、元老院に掛け合って、それ以上の物も・・・だから、やめてくれ・・・」


 両足から血を噴きながら、侯爵は懇願する。顔色が青白い。


「俺の話を聞いていなかったのか?血を流しすぎて意識が朦朧としているらしいな」ザラチェンコが手をかざすと、レオニードの切断面が石化する。「貴様が特大剣グレートソードを持っているのは知っているんだ。剣はどこにある?早く言わないと、今度は膝から下を切り落とすぞ。それとも腕か?眼を抉るか?鼻を削ぐか?あるいは貴様の立派なイチモツを切り取ってもいい。やけに縮んでいるな。たのむから漏らすなよ。奴隷どもをさんざん犯したんだ。もう一生ぶん使い込んだろ?」


「ち、地下だ、地下に、美術品の観賞部屋が、ある、そ、そこにグレートソードが」


「そうか。いやはや、ご協力に感謝する。手荒な真似を許してくれ。もっとも、貴様には死んでもらうが」


 ザラチェンコは侯爵を切り刻もうと腕を振り上げ、しかし思い直したように岩剣を下げた。無数の瞳がザラチェンコを見ていた。虚無と諦念ていねんをたたえた奴隷の眼。誇りを奪われた家畜の姿。奴隷たちは声を出すことも表情を変えることもせず、淡々とすべてを受け入れている。犯されることも、侯爵が拷問されている光景も、そしておそらくこれから自分たちが殺されることも。その虚無の中に、ザラチェンコは過去の自分を見いだした。


「魂を失った眼だな」ザラチェンコは奴隷たちを見返し「誇りを取り戻したいか?」と嗤う。


「俺も相当に悲惨な子供時代を過ごしたよ。魔人というのは全種族から忌み嫌われ、差別の対象だったからな。あらゆる暴力と悪意は、まさに俺から尊厳を奪い去ったよ。特に天使アンヘル、奴等は本当にたちが悪い。神という大義名分のもと、自分たちの正義を毛ほども疑わない。奴等からすれば神の血と魔物の血が混じりあった魔人デヴェークは、何よりも赦しがたい存在らしい。俺は神罰という名の拷問を受けたよ。何度殺してくれと思ったことか。だが奴等は殺さなかった。苦痛を与え続ける事が罰なのさ。ククッ、罰だと?俺はただ生まれてきただけだ。それが罪だというなら、もはやこの世に赦しは存在しない」ザラチェンコは底冷えする蛇の眼で奴隷たちを捉え、唐突に話題を変える。「なぜガルドラクが強いわかるか?なぜ魔獣狩りが最強の人狼と呼ばれているかわかるか?」


 その問いに、奴隷たちは死んだ瞳を返すばかり。


「人間も亜人デミも魔物も、所詮その根底にあるのは獣性だ。教養を身に付け、文明を使いこなし、規律で己を縛ろうとも、そんなものは無意味だ。俺たちは獣だ。血に餓えた魔獣なんだ。ガルドラクはその事をよく理解している。奴は己に忠実だ。極限まで研ぎ澄まされた獣の狩猟本能、獲物を見つけ、戦い、殺す。ただそれのみに生きているのがガルドラクだ。雑じり気のない完璧な狩人ハンターだ。奴には狩りしかない。それしかない。だから強いんだよ」


 ザラチェンコはゆっくりと腕を振る。何本もの岩の短剣が生み出され、奴隷たちの前に突き刺さる。


「ある時俺は世界の法則ルールを理解し、その瞬間に俺の中に魔が顕現けんげんした。父と母の血は俺に懸絶けんぜつした力を与えた。俺はすべてを殺した。俺の魂を汚し、俺の誇りを傷付けた者どもすべてをな。特に天使アンヘルどもは念入りに殺したよ。今でも覚えている。奴等の全身の生皮をぎ、最後に生きたまま心臓を抉り出した。つまり、それこそが魂を取り戻す方法だ。殺すのさ。君たちを辱しめ、犯し、蔑んだ奴等を悲惨に、無惨に、一切の慈悲もなく殺すんだよ。狩られる側から狩る側になるのさ。獲物であることをやめ、君たち自身が獣になるんだ。それが弱者から強者に変わるための、唯一の法則ルールだ。貴様等がたわむれにいたぶっていた子羊の中には、獣が潜んでいたということを思い知らせてやれ。そいつ等が恐怖におののき、絶望に歪んだとき、君たちは誇りの意味を知る。目の前の剣は俺からのプレゼントだ」


「ど、奴隷たちに、わけの、わからないことを、吹き込まないで、くれ。グレートソードは、くれてやる、頼む、助けてくれ」


 侯爵の言葉に、ザラチェンコは剣のひと振りで答える。右腕が斬り飛ばされる。絶叫と嗚咽。


「これからこの街は圧倒的な暴力に呑み込まれる」ザラチェンコは楽しそうに嗤う。「酸鼻を極める虐殺がすべてを蹂躙する。残念ながら、君たちは死ぬ。生き残れるのは狩る側に立つ者だけだ。君たちは昔の俺に似てるよ。だから侯爵は譲ろう。せめて死ぬ前に魂を取り戻しておけ」


「無駄話が長いんだよ」


 瞬間、床が吹き飛び、穴から数十匹の大海蛇シーサーペントが飛び出すと、侯爵と奴隷たちを喰らいついた。


「いつまで喋ってんだ。時間を無駄にするんじゃねえよ」


 レヴィアが穴から現れる。何匹もの巨海獣リヴァイアサンが蠢いている。


「おいおいレヴィア、せっかく良いところだったのに、無粋な真似をするなよ。今俺の言葉は奴隷たちの心を打ち、彼等は俺に感謝しながら侯爵への憎悪を解き放ち、悪意は感動的な殺戮へと昇華する所だったんだぞ。それを横から掠め取るとはまったく礼儀がなってないな。君の顔は好みだがどうにも素行が気に食わない。もう少し教養を身に付けるべきだ。帝国暦125年に死去した詩人ミハイル・マルシャークはこんな言葉を残している。いわく『教養とは無明を照らす一筋の光だ』」


「うるせえな」


「あるいはこんなのもある。『もし右の頬をぶたれたら、そいつを殺せ』。どうだ?ひとつの真理を表していると思わないか?まあ、これは俺の言葉なんだが」


「お前の無駄口は死ぬまで治らないらしいな」


「その通りだ」ザラチェンコは肩をすくめる。「こういう性格だ。いい加減慣れてくれ」


「ならお前も僕の無礼に慣れろ」


「ククッ。なるほど、確かにそうだ。一本取られたな」ザラチェンコは喰い千切られる侯爵たちを眺める。奴隷の方はすでに骨も残らず喰われているが、侯爵は腹を喰い破られ頭部を砕かれているが、痙攣しながらまだ生きている。魔物にも好みというものがある。侯爵の肉は不味いのだろう。「無様な姿だなレオニード。だが貴様のような下品な人間にはおあつらえ向きの最後だ。父君の剣を汚した罪滅ぼしに、せめてもそこでゆっくりと、苦痛と絶望を味わい、後悔の中で死んでくれ」


「さっさと目的の物を取りに行けよ」


「ああ、そうだな。君は先に始めていてくれ。俺もすぐに加わるさ」


 そういうと、ザラチェンコはレヴィアの空けた穴から飛び降りた。






 巨岩をおもわせる無骨な、一本の剣が壁に飾られている。無駄な装飾など一切無く、剥き出しの剣身は様々な傷にまみれ、握りに巻かれた革はおびただしい血液を吸っている。歴戦の特大剣。敵を屠るためだけに存在する大得物。ザラチェンコの肩幅を越える刃幅に、彼の身長を凌駕する刃渡り。およそ人の扱う武器には見えず、巨人ギガースでさえもて余すようにさえ感じられるその剣を、ザラチェンコは両腕で、ゆっくりと掲げる。ほの暗い観賞室の中で剣は鈍く光る。


「素晴らしい」


 恍惚と呟き、彼は特大剣を肩に担ぐ。


 魔人であるザラチェンコからしても、その重量は凄まじく、まともに扱えるとは思えない。だが彼は確信している。俺ならこの剣を操れる。


 この特大剣は鋼鉄性ではない。ザラチェンコの母が、岩蛇の女帝レギン・メデューサが極大魔法によって精製した超硬度の岩石を削り出し作られたのがこの剣だ。そしてこの剣を振るい英雄と呼ばれたのが彼の父だ。


 ならばザラチェンコに扱えないわけがない。


 父の剣術を受け継ぎ、母の魔力を宿す魔人デヴェーク


 彼こそが、この特大剣グレートソードを完璧に使いこなせるのだ。


 ザラチェンコは観賞室の扉を見る。分厚い鋼鉄で作られ、対物理攻撃用魔方陣と対魔法術式魔方陣によりあらゆる攻撃をはじく堅牢な扉だ。まるで皇宮の城門のようだ。並大抵の攻撃では傷ひとつ付かないだろう。


 ザラチェンコは扉の前まで歩くと、特大剣を無造作に構え、そして


 二メートルはある特大剣グレートソードの剣身が消えた。いや、それは錯覚だ。あまりに高速で振るわれた為に、一瞬、剣が掻き消えたように見えたのだ。天井と床が吹き飛び、砂塵が立ち込める。つかの間の静寂、甲高い金属の擦れる音がそれを破る。すでに特大剣を肩に担ぎなおしているザラチェンコの前で、堅牢な扉が縦に真っ二つに両断される。ずしりとした剣の感触を確かめるように、ザラチェンコは呟く。


「さすがに重いな。だが重心移動と遠心力を上手く使えば、どうという事はない。何よりこの剣は俺の手に馴染む。他のだれでもない、俺の為の剣だ」


 冷酷な嗤い声が響いた。


 英雄の血を引き継ぐ者。


 岩蛇の魔力を受け継ぐ者。


 冷酷無比な魔法剣士。


 魔人 ザラチェンコ・ホボロフスキー。


「それじゃあ、暴れるとするか」











 西門は完全に封鎖された。第十防衛騎士団の小隊25名が城門を固めている。彼等は一様に無言で、緊張した面もちで周囲を警戒している。この区画の門番、住民、魔術師がすべて殺された。足元は血の海だ。早く清掃しなければ疫病をまねくかもしれない。だが人手が足りない。現在、第八殲滅騎士団が動いているが、ヤコラルフを任せられているのは第十防衛騎士団だ。猟犬頼みなど、恥さらしもいいところだ。多くの人員が、侵入者の捜索に駆り出されている。とてもじゃないが、清掃まで手が回らない。


 彼等は恐怖と戦っている。眼前に広がる惨状は想像を絶していた。これほどの殺戮をいとも容易く行う魔物となると、一体どのような・・・


 ふと一人の騎士が、妙なものを目にした。


 西門真正面のもっとも血溜まりの濃い場所に、薄黒い霧が立ち込めているのだ。錯覚かと思い眼を擦るが、依然として霧はそこにとどまり、むしろ濃さを増していく。霧は凝集ぎょうしゅうし、漆黒の人形と成る。


「おい、あれはなんだと思う?」


 騎士は隣の男に話しかける。男も気づいたのか、黒い霧を怪訝そうに見つめ「なんだ、あれは」


 ふたりの言葉に、他の騎士たちも気づく。全員が不気味な霧を凝視する。気味が悪い、魔術かもしれない、まさか魔物がこの近くに、だとすれば先手を打たなければ・・・騎士たちは口々に言葉を交わすと、一斉に剣を抜く。


かぐしい血の匂い。渇くわ」


 艶やかな声とともに黒い霧が消え、気が付くと血溜まりに女が立っている。死体のような蒼白い肌、足元まで届く潤沢な黒髪が風に揺れる。現存する唯一の祖なる血魔ルーツ・ヴァルコラキ。クシャルネディア・ナズゥ・テスカロール。


 彼女が眼を見開くだけで、小隊全員の身体が石のように動かなくなる。


 騎士たちは恐怖におののき、滝のような汗が顔を伝い落ちていく。


「食べていいわよ」


 柔らかなクシャルネディアの声色とは裏腹に、その言葉は騎士たちへの死刑宣告だ。空間に亀裂が走り、ひたひたと不気味な爬虫類が何匹も這い出てくる。ぬめった鱗、ギョロりと周囲を観察する眼玉、ときに巨人ギガースすら食らう巨体、毒霧蜥蜴バジリスクだ。大蜥蜴は騎士たちに近づくと匂いを嗅ぎ、全身を舌で舐め、次の瞬間、頭から丸呑みにする。


 腹を膨らませ、満足そうに毒霧蜥蜴バジリスクは喉を鳴らす。 


 クシャルネディアは指先を咬む。血の玉が膨らむ。一滴の血液が、血の海に落ちる。クシャルネディアの血液には超高濃度の魔力が含まれている。たとえわずかな雫だろうと、低級存在の血に混じれば、その血液はクシャルネディアの支配下に置かれる。


緋の命水よ、我の元へエマグレ・パショルトルノ


 魔語グロクスを呟くと、虐殺領域キリング・フィールドに広がる血液が脈動し、まるで生きているかのごとくクシャルネディアに向かって這い進む。膨大な血液は彼女の全身を薄膜のように覆い、白磁の肌は赤黒く犯され、しかしすぐに吸収される。血魔ヴァルコラキは口腔摂取の他に、皮膚吸血を行う事ができる。血の獣たるクシャルネディアの全身すべてが獲物を求める。血の味を楽しむのには滴さないが、一度に大量の血液を取り込むには皮膚吸血がもっとも効率がよい。血の海はわずか数分で綺麗に消え、もはや惨劇の余韻さえ見られない。口元に残った血を、クシャルネディアの長い舌が淫靡に舐めとる。


「血の匂いに釣られて来てみれば、思わぬ相手に出会うものね」クシャルネディアの視線の先には、城壁があり、そこには忌まわしい逆五芒星が描かれている。「地獄に堕つ五芒星ヘル・ペンタグラム。まさかこんな辺境の寒地でまみえる事になるとは思わなかったわ」


『【我々】の誰かが必ず君を殺し、血魔ヴァルコラキの永遠に終止符を打つよ』


 あの夜の、イビルヘイムの去り際の言葉がクシャルネディアの脳裏で甦る。彼女の全身から黒い霊力が溢れ出し、陰惨な魔力が空間に陰を射す。蒼い瞳孔が凶悪に拡大し、犬歯が鋭利に輝く。抑えていた血魔ヴァルコラキの本能が、強大な存在の気配に、鎌首をもたげ始める。その面貌は流麗、絶世、しかしそれでいて、あまりにもおそろしい。


「イビルヘイムから宣戦布告は受け取っているわ。逆五芒星あなたたちは敵よ。数少ない、私の存在を脅かす超越魔物トランシュデ・モンストルよ。出会ってしまったからには、殺さないといけないわね。敵を眼の前にして逃げるなど、私には赦されないのだから」クシャルネディアは虚空に向け、凶暴に告げる。「敵を殺す。獲物を狩る。血魔ヴァルコラキは圧倒的な捕食者でなければならない。そして何より私は殺戮の剣ゾルゾンザ・エッジズ。戦いこそが存在理由よ」


 凄絶な微笑みに、彼女の奴隷魔物スレイブたちが歓喜したように身をよじる。主の敵は彼等の敵。主の敵を殺すことこそが彼等の喜び。


「さて、ヘル・ペンタグラムはどこかしら?」











 血の匂いは西門から。焦げる匂いは燃え盛る城館から。そして街のいたるところから死の匂いが漂ってくる。


 くぐもった雷鳴、次いで稲光と共に、遠景で家屋が吹き飛ぶ。雷魔法が乱舞している。


 その向こうの空には黒い影。天高く伸びる何本もの触腕。鋭い鉤爪を備え、血に染まったその触腕は海巨触クラーケンの物だ。海の魔物どもが街を蹂躙している。


 ヤコラルフに『何か』が侵入した。


 巨大な魔力を持つ魔物が。


 各所で戦闘が起きている。


「退屈な国だと思っていたが、そうでもないらしい」


 ざらついた声は、冷たい風に掻き消されていく。曇天に覆われた空は正午過ぎとは思えぬほど薄暗く、今にも雨が降りだしそうな予感をたたえている。


 戦場の気配はサツキの内奥ないおうから、禍々しい殺意を引きずり出す。緋色の双眸そうぼうを残忍に輝かせ、嗤う。


「魔獣狩り前の肩慣らしにはちょうど良さそうだ」


 殺気がサツキの背に、残像のように尾を引いた。









 これよりヤコラルフは暗黒の時代ダークエイジ以来、最悪の戦場と化す。



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― 新着の感想 ―
[良い点] シャンフロの作者の方が紹介していたので読みに来たのですが、まぁ面白い。 1話毎の量も多いし、密度も凄い。 内容も良い意味でなろうっぽくない。 本当にこれから先を読むのが楽しみ。 後はエタら…
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