4 キリング・フィールド
「目が覚めたか!」
その声がマエルの意識を覚醒へと導いた。ぼやけた視界に男が映りこむ。。精悍な顔立ち。頬から顎に散る無精髭。イオセフだ。心配そうに彼女を覗きこんでいる。
鋭い頭痛がする。身体の節々が軋む。風邪でも引いたように、脳が熱を持っている。こめかみを押さえながらマエルは身を起こす。「私は一体・・・」
「急に倒れたんだ」イオセフは彼女を支えながら質問する。「集落を調査した帰り、君は意識を失った。覚えてないか?」
「意識を・・・?」
血まみれの雪、沈黙した家屋、膨大な水と氷の属性、水魔精・・・記憶の断片が次々とよみがえり、あの時の光景へと繋がっていく。そうだ。彼女はイオセフと四人の魔術師とともに、虐殺の起きた集落に向かったのだ。セイリーネスの使途として、地獄に堕つ五芒星の痕跡を追って。そこで序列第三層 レヴィア・リュリュサタンの存在を認め、帰路についた。燃える夕日に、赤く染まる雪原。ひとりの男が前方から歩いてきた。灰色の髪の不気味な男。両の瞳が緋色に輝いていた。そして彼女は
「どうした、思い出したか?」
「私は・・・視たの・・・」
「視た?何をだ」
その質問に、マエルは沈黙した。
天使の視線で男の魔力を探り、そこから記憶が途切れている。覚えているのは抽象的なイメージのみ。禍々しい緋色の奔流。それだけが、彼女の脳裏に焼き付いている。手が震える。理解できない恐怖に苛まれる。それを隠すようにマエルは口を開く。「ここはどこ?」
「六属性魔術集団の隠れ家だ。ヤコラルフだよ」
「そう」マエルは立ち上がり、窓際に近づく。窓外には裏通りの陰気な街並みが広がり、人影はまばらに、しかし大通りの喧騒はここまで届く。ヤコラルフはレオニード・チェスノーリン侯爵の領地であり、その城館を中心に発展した帝国辺境最大の都市部だ。約六万の人々が生活し、昼から夜にかけて歓楽街である大通りは、特に活気に溢れる。空は薄曇りだが、陽光の感触からしてすでに正午を過ぎている。喧騒が聞こえるのもうなずける。マエルは窓を開け冷たい空気を吸い込む。頭痛が弱まった気がした。「私はずいぶんと眠っていたのね」
「ああ。もう眼を醒まさないのかと心配したぞ」イオセフはカップをマエルに差し出す。「魔力濃度を安定させる魔水薬だ。だいぶ持ち直したが、それでも君の魔力はまだ乱れている」
「ありがとう」
マエルはそれを少しずつ飲んだ。暖かく、ハチミツのように甘かった。
「念のため今日一日様子を見て、体調が問題ないなら明日の朝、暗いうちにここを発とう。すでに共鳴皮紙でレヴィア・リュリュサタンについての報告は済ませたが、地獄に堕つ五芒星が動いているとなるとこの地は危険だ。特に天使の血が混じる君は、魔物からすれば憎悪の対象、早いところセイリーネスに帰還した方がいい」
「そうね。早く帰りましょう。私たちの神樹聖都に」
マエルはそういってもう一度街並みを眺めた。
風に湿り気を感じた。もしかしたら雨が降るのかもしれない。
寒風の中に濃い血の匂いを感じ、彼女は驚いた。すぐ下の通りで喧嘩が起きていた。どう見ても堅気でない数人の男たち―――組織犯罪集団だろう―――と、茶色い癖毛の女が争っていた。その女から少し離れた場所に、男がふたり立ち、喧嘩を眺めていた。ひとりは身の丈ほどの大剣を背負い、もうひとりは髪を短く刈り込んだ強面の男だった。このふたりと茶色の髪の女は、明らかにマフィアよりも危険な雰囲気を纏っていた。女は剣にも斧にも見える不思議な刃物でマフィアたちを次々と斬殺していた。隠れ家が建つのは貧困地だ。こういう光景は珍しくない。だが、女の技量には眼を見張るものがあり、それ以上にその残虐性が眼を引いた。一滴の血を浴びることなく敵を解体し、必要以上に肉体を破壊していた。ただ殺すだけではなく、圧倒的暴力を求める殺し方だ。貧困地には闇ギルドの安全地帯があると聞く。そういう類いの人間かもしれない。
危険な存在だ。関わり合いにならない方がいい。
マエルは窓を閉めると、ベッドに腰かけた。
何か、とてつもなく嫌な予感がした。
血臭が天使の血に何かを訴えかけている。
だがそれが何なのか、彼女にはわからない。
すぐそこでの殺し合いはまだ続いている。
だが彼女の感じた濃い血の臭いは、それが原因ではなかった。
壁面に血で描かれた、大きな逆五芒星。
圧倒的殺戮の爪跡。
ゲルマンは思わず顔をしかめた。彼は殲滅騎士団 副騎士長、残虐な戦場や拷問は見慣れている。だが目の前のこの光景は、あまりにも酷い。
「マズいぞ。何かがヤコラルフに忍び込んだ」
「そのようだな」
巨体の横でツァギールが眼を細めた。あらゆる城郭都市がそうであるように、ヤコラルフも堅牢な城壁によってあらゆる脅威から遮断されている。東西南北に設置された四つの門には帝国騎士団が配備され、魔術師による探知魔法の網、城壁周囲は警邏隊が常に眼を光らせている。帝都にはおよばぬが、仮にも辺境伯の領地、中々の警戒体制だ。とはいえ賊が侵入する手立てはいくつかある。確実なのはレオニード侯爵お気に入りの【亜人の坩堝】に話を通し、通行証を発行させることだ。金は掛かるがあらゆる条件を無視し、ヤコラルフに出入りする権利が獲られる。組織犯罪集団や便利屋に頼むのもいい。門番の買収、抜け道の確保、色々と用意してくれるだろう。だが、一番簡単なのは、力ずくだ。
西門は虐殺領域と化していた。
ふたりがその報告を受けたのは、先程のことだ。ヤコラルフに配属されているのは主にジュルグ帝国第十防衛騎士団だ。フューラルド地方調査のため、猟犬はその拠点の一画を間借りしていた。ゲルマンは訓練所で鍛練にはげんでいた。巨人を素手で殺すといわれる彼の肉体は、鋼鉄の彫像のようであり、その身体は毎日の鍛練が生み出す。腕のみで壁をよじ登り、鎧を身に付けたまま何キロも走り込み、乗狗用の雪大狗に後ろ向きで騎乗し、体幹を鍛える。研鑽の終盤、彼は斧槍を軽々と振り回しながら技を磨いていた。
「斧槍をそうも軽々と操るとは、さすがの怪力だ」いつの間にか訓練所に現れたツァギールが拍手した。「だが毎日行う鍛練にしては、少し苛烈過ぎると思うが」
「苛烈でなければ鍛練とはいえん。それに俺はお前のように天才ではない。一日足りとて休むわけにはいかない」
「僕だって研鑽を積んでいる。ただ少し、物覚えがいいだけだ。大抵の技術は一度で身に付く」
「それを天才と言うんだ」
「そうかもな」ツァギールは肩をすくめる。
「亜人の坩堝で収穫はあったか?」
鍛練を続けながらゲルマンが聞く。
「アウグストは認めなかったが、雷刃が帝国に侵入した」
「確かか?」
「あの口ぶり、間違いない」ツァギールは剃刀のような眼を細める。「いくら十闘級といえど、帝国にひとりで乗り込むとは考えづらい。おそらくあの女の他にも複数人、侵入していると考えるのが妥当だろう。ユリシールの手駒たちめ、一体何をしている」
「どう思う?それが現在のフューラルドの惨状と何か関係があると思うか?」血魔の襲撃、正体不明の虐殺者、ザラチェンコ騎士長の失踪・・・次々とゲルマンは数え上げる。
「わからない。だがユリシール王国の手先が帝国領を彷徨いているなど、赦せるはずかない。すみやかに粛清するべきだ。それだけではない。この地で起きているすべての災厄を早急に排除し、秩序を取り戻さなければならない。第八殲滅騎士団の名にかけて」
「まさしく。その通りだな」
「お前の方はどうだ?ザラチェンコ騎士長の行方は掴めたのか?」
「いや」ゲルマンは斧槍を壁に立て掛ける。鍛練の終了。大きく息を吐く。「国境砦以降の足取りは依然として不明だ。この非常時に一体なにをしているのか」
「あの人の考えていることは理解できない」
「まったくだ」
神妙にゲルマンがうなずいた時、その報が舞い込んだ。
切断された大量の四肢。喰い千切られたような肉片の山。鮮血に凍った壁面と門。石畳は血に沈み、鉄靴の半分ほどまでも嵩がある。死体の数を考えるに、歩哨や警邏隊のものだけではない。西門の近くにいた商人、町民、冒険者、すべてが無差別に虐殺の対象となったのだ。濃密な鉄錆の臭いが煙のように立ち上る。
「貴様等はこれだけの惨状に、今まで気づかなかったのか?」怒気を含んだツァギールの言葉に、傍らにたたずむ第十防衛騎士団の面々が顔を歪める。現場の状況から見て、すでに三十分、いや一時間は経過している。市街地から外れた西門とはいえ、これだけの事が起きたのだ、いくらなんでも報告が遅すぎる。「現在のフューラルドの状況を考えれば、貴様等に気を抜く事など赦されるとは思えないが。それとも報が遅れたのは嫌がらせか?身内すら粛清対象にする猟犬は嫌われているからなあ」
「やめろツァギール。この者たちを責めても何にもならん」
「まあ、そうだな」
「いえ、ツァギール副騎士長のご言葉はごもっともです」ヤコラルフ警備隊 隊長の上級騎士が頭を下げる。「ですが我々がこの惨劇を把握するのに時間が掛かったのは、こういう表現はもちろん不適切なのですが、しかし無理からぬ事なのです」上級騎士は街並みを見回す。
「この周辺、やけに静かだと思いませんか?」
騎士の言葉に、ツァギールとゲルマンは凶兆を感じとる。
「被害は門だけではありません。貴殿方が到着するまでに民家をすべて調べあげました。住居内は文字通り、血の海です」青い顔で、震えながら彼は告げる。「帝国騎士はおろか、町民からの報告すらこちらに届かなかったのは当然です。歩哨の詰所、商店通りまで、すべてが・・・この一画、すべての人間が皆殺しです。いったい、いったい『何』がこの街にッ・・・!」
「第八殲滅騎士団 副騎士長ツァギール・イリュムヴァーノフの名において、今すぐ全城門を完全封鎖しろ。誰ひとりヤコラルフに入れず、誰ひとりこの街から逃がすな。同時にレオニード辺境伯の城館にも最大の警護体制を敷け。侯爵の私兵だけに任せておくな」
彼の言葉に上級騎士はうなずくと、すぐさま怒号とともに走り出す。風が吹き抜ける。鋭い冷気が頬を裂く。ツァギールの背後に足音が揃う。振り返る。西門に駆けつけた数十名の猟犬が冷徹な表情でツァギールの命令を待っている。
「獲物の正体、規模、すべてが不明、だが被害状況を見るに警戒階位は 赤だ。ザラチェンコ騎士長不在時の緊急事態、これより殲滅騎士団全権は僕に移り、暫定的に騎士長の座を預かる。異論は?」猟犬たちは動かない。ただ静かに、肯定の視線を送る。ツァギールはうなずき、決然と告げる。「いいか、赤だ。街の被る被害など一切考慮するな。住民の存在など無視しろ。貴様等個人の裁量で動くことを許可する。獲物を狩り出せ。そして敵であろうとなかろうと、怪しい者はすべて殺せ。すべてだ。我々はジュルグ帝国最強の第八殲滅騎士団。戦場の猟犬。その名に恥じぬ闘いをしろ」
「了解!」
冷たく、低く、だが決然と猟犬たちは吠え、散る。
藍鉄色の残像をツァギールは視る。
「非常時とはいえ全権を僕に移して悪かった。だが相談している暇もない」
「気にするな。もとより俺は人の上に立つのは好かん。ツァギール、お前が騎士長代理で俺は一向にかまわない」ゲルマンは背負った斧槍の柄を撫で、眼前の殺戮を眺め、眉をひそめる。「しかしこれほどの惨状・・・俺は今、ザラチェンコ騎士長がいてくれればと、心の底から思っている。まさかあの人にそんな感情を抱く日が来るとはな」
「同感だ。幼少より天才ともてはやされてきた僕の眼から見ても、あの人の技量は常軌を逸している。忠義や礼儀とはおよそかけ離れた狂人だが、あれほど戦神に愛された騎士もいないだろう。おそらくこれから先もザラチェンコ騎士長を越える帝国騎士は現れない。だが、あの人はいない。それが事実だ」
「俺としたことが、少し弱気に見えたか?」ゲルマンは苦笑すると、次の瞬間には、その顔は冷酷な気配に沈む。「敵は周囲に気づかれることなく一区画まるごと皆殺しにするような怪物だ。早急に処理しなければ、取り返しのつかない事態になる。やるぞ。俺たちで」
「ああ。狩らねばなるまい」濃厚な血臭を振り払うように、ツァギールは湾曲剣を抜き払った。鈍い残光が空を切る。「それが猟犬だ」
ツァギールが口笛を吹くと二頭の雪大狗がふたりの前に現れる。乗狗用に訓練された狗だ。しなやかな、それでいて頑健な四肢。雪原だろうと雪山だろうと、そして街中だろうと帝国騎士を乗せ、凄まじいスピードで駆ける。ゲルマンのような巨躯でさえ軽々と運ぶ頼もしい軍狗。
二頭は虐殺領域を嗅ぎ回り、獲物の匂いを覚える。だが一瞬、二頭は困惑したように顔を見合わせた。あたかも嗅ぎ慣れた体臭を感じ取ったかのように。
それでも完璧に訓練された軍狗だ。すでに追跡の体勢に入っている。
ふたりはその背に飛び乗る。
軍狗は走り出し、瞬く間に一区画を駆け抜け、しかし出し抜けに止まる。
二頭は鼻をひくつかせ、牙を剥き、遠方の空に向かって吼えはじめる。ツァギールとゲルマンは空を見る。黒煙と炎が揺れている。
「あれはまさか」ゲルマンの言葉をツァギールが引き継ぐ。「レオニード侯爵の城館か」
薄日の下。
辺境伯の城は、業火に包まれていた。




